第6話 素晴らしき月曜日

 七月七日、月曜日の朝。

 かつらはいつものようにサツマイモをふかすと康史郞こうしろうの弁当箱に入れた。自分の分は新聞紙に包み柳行李の弁当箱に入れる。朝食はカボチャとそら豆の煮付け。昨日の夕食の残りだ。

 かつらは隅田川すみだがわ対岸の縫製工場で働いてから「まつり」に直行するので、中学校から帰った康史郞が配給の受け取りや簡単な夕食を作っている。終戦前後の栄養失調状態の日々に比べればこれでも落ち着いてきた方だ。

「康ちゃん、帰ったらごはん炊いてからアジの干物を焼いてちょうだい。明日の朝ごはんにもするから半分残しといてね」

「分かってるよ」

 いつもの朝の会話だが、二人は昨日の出来事を互いに話せずにいた。学生服に肩掛けカバンの康史郞が中学校に向かうと、かつらも長袖をまくったブラウスとスカートに着替え、ユニフォーム代わりの割烹着を被って家を出た。


 うまや橋を渡った対岸にかつらの働く小さな縫製工場、「厩橋縫製」がある。従業員は近所の女性ばかり八人。大きな工場の下請けとして衣服のパーツを作るのが主な仕事だ。バラックの中に数台のミシンと芯地の下張り用のアイロンが並んでいる。かつらは女学校を出てからずっとここで働いていたが空襲で被災し、再開するまで一年ほどかかったのだ。

 工場に入ったかつらは早速アイロンを温める準備に入った。先に来ていたお隣の山本やまもと槙代まきよが挨拶する。

「おはようございます、横澤よこざわさん」

「映画、どうでしたか」

 かつらの問いに、もんぺに割烹着姿の槙代は微笑んだ。

「良かったですよ。久しぶりに若い頃に戻ったような気分になれました」

「そういえば、昨日山本さんが留守の間に無精ひげの男の人が尋ねてきたんです」

「その人がどうしたんですか」

 かつらは槙代に廣本ひろもとの申し出について話した。

「本当ですか。うちは焼け出されてあそこに家を建てたけど、前は空き地だったんですよね。立ち退かされたらどうしましょう」

 不安げな槙代を見ながら、かつらは自分に言い聞かせるように言った。

「ちゃんとした家を早く建てられるよう、わたしももっと稼がないとね」


「日曜にそんなことがあったのかい」

 縫製工場の終業後、「まつり」に着いたかつらは昨日の出来事を戸祭とまつりに話しながら前掛けを締めていた。

「ここだってヤミ市の店だ。いよいよ警察の取り締まりが入るって噂も流れているし、人ごとじゃないな。この住宅難じゃ新しい店を建てるのも無理だろうし」

 味噌汁の入った鍋をかき混ぜながら戸祭が言う。

「でも、工場が休んでて働けなかった時に雇っていただいて、本当に感謝してるんですよ」

「なあに、困ったときはお互い様だ。征一せいいちも疎開先では康史郞君に色々助けてもらったしな」

 戸祭とのこの会話も何度交わしたか分からない。戦後すぐ兄の羊太郎ようたろうと弟の勇二郎ゆうじろうが亡くなり、仕事もなく困り果てていたかつらにとって、この「まつり」は命綱のようなものだった。

「今日の日替わり魚料理はカツオのなまり節だ。お客さんにもすすめてくれ」

「はい」

 三角巾を付けると、かつらは仕事場の顔に戻った。


 「まつり」に京極きょうごくたかしが来店したのは七時半を少し回った頃だった。かつらは明るく呼びかける。

「いらっしゃいませ。今日のおすすめはカツオのなまり節です」

「それじゃそれをもらおう。あと味噌汁を」

 割り箸と一緒に灰皿を出そうとしたかつらを、隆は押しとどめた。

「いや、今日は禁煙してるんだ」

「そうですか」

 かつらは拍子抜けしたが、すぐに戸祭に呼びかける。

「味噌汁とカツオ一つ」

「おう」

 かつらは戸祭から受け取った味噌汁とカツオのなまり節を出しながら隆に話しかけた。

「日替わり魚料理は『まつり』の名物なんです。おやじさんが朝、築地つきじで仕入れてきた魚を仕込んでいるから新鮮ですよ」

「なるほど、それは楽しみだ」

 隆はうなずくと割り箸を割った。


 時計が七時四十五分を回り、いつもなら退店する時間のかつらだが、隆はまだ店内にいる。隆を何度も見ているかつらに気づいたのか、戸祭は味噌汁と一緒にカツオのなまり節を差し出した。

「あの兄さんの隣が空いてるから、余ったカツオを食べてきな」


「隣に失礼します」

 遠慮がちにベンチに腰掛けたかつらは味噌汁に口を付ける。隆はほぼ食事を終えているようだ。そのまま話し出す。

「実は、昨日久し振りに上野で映画を見たんだ」

 かつらは味噌汁を一口飲むと尋ねた。

「どんな映画ですか」

「『素晴らしき日曜日』。もしかして君も」

「いえ、うちはとても映画なんか」

 かつらはうつむいてカツオをつつき始めた。

「それなら中身を話しても大丈夫かな。お金のない若いアベックがランデブーするって話なんだ」

「ランデブー?」

「フランス語で『逢い引き』って意味さ」

「よくご存じなんですね。でもそんな話、映画にして面白いんですか」

「うん、なんていうか、不思議な映画だったよ。途中で観客にアベックの女が呼びかけるんだ。自分たちのような若者を応援してほしいって」

「まるで舞台みたい」

「誰もいない夜の野外音楽堂だったから、あながち間違ってないな」

 かつらは隆の顔を見た。眼鏡の奥の目が笑っているように見える。

「映画が久し振りに楽しめたし、日曜に特にやることもないから、映画代のためにたばこを止めようと思ったんだ。食事代も節約するから、ここにもあまり来れなくなるかな」

「それなら仕方ないですね。また面白い映画を見たら、話しに来てくれませんか」

 かつらは自分でもどうしてそんな言葉が出たのか信じられなかった。隆はかつらの方を向き答える。

「もちろん。では、お会計頼むよ」

 会計を終えて立ち去る隆を見送りながら、かつらは心の中でつぶやいた。

(私にとっては今日が『素晴らしき月曜日』かな。康ちゃんにも映画の話、してあげよっと)

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