第7話 ほっとけなくて

 七月十一日。金曜日の「まつり」も客で賑わっていた。かつらは時々店の入口を見ながら客の注文を受けている。その時、店内に男性と女性、幼女の一家が入ってきた。

「いらっしゃいませ。今日の魚料理はアジの煮付けです」

 かつらが声をかけると男性が大声をあげた。痩せこけた体にぶかぶかの国民服を着ている。

「やっぱり、うまや橋にあった『まつり』じゃないか。大将は元気かい」

 厨房にいた戸祭とまつりが顔を出した。

「その声はもしかして、大口おおぐちの旦那か」

「はい。大口おおぐち徳之介とくのすけ、ようやくシベリアから帰って参りました」

 大口が一礼する。戸祭はあわてて客に呼びかけた。

「みんな、少し詰めてくれないか」

 大口一家は空いたベンチの端に腰掛けた。大口はブラウスに吊りスカート姿の娘を膝に座らせようとするが、娘は嫌がっている。

「仕方ないね。のぞみは母ちゃんの膝に座りな」

「すまんな、ハナエ」

 もんぺ姿のハナエの膝に座った望は機嫌良くなった。大口は寂しそうに腰掛ける。

「アジの煮付けを一つ、いなり寿司と味噌汁を三つよろしく」

 大口はメニューを見ながらかつらに呼びかけた。


 かつらがいなり寿司と味噌汁をカウンターに置いた後、戸祭がアジの煮付けの載った皿を出した。

「これはわしからの帰国祝いだ。お代はいらないから皆で食べてくれ」

「ありがたくいただきます」

 大口は手を合わせるとアジを取り分け始めた。

「それにしても、大将にこんな娘さんがいたとはね」

「いいえ、わたしはただの店員です」

 かつらは穏やかに否定する。

「お父ちゃんったら早とちりなんだから」

 ハナエが大口に突っ込むが、その眼差しは暖かい。

「大口の旦那は両国りようごくで『墨田すみだホープ』ってカフェーをしていてな。うちの店の常連だったんだ」

 戸祭がかつらに説明する。

「カフェーって、戦前浅草あさくさにたくさんあった女給じょきゅうさんがいる酒場ですよね」

「ああ。昔はここも力士やタニマチさんがたくさんいて賑わってた。今じゃ国技館も進駐軍のものだし、大横綱の双葉山ふたばやまもマゲを落としちまった。寂しいもんだよ」

 残念そうに言う戸祭に大口が話しかけた。

「ヤミ市で『食堂 まつり』という旗を見かけて、懐かしくなって入ってみたんだが、まさか本当に大将の店だったとはね」

「元の店は東京大空襲で焼けちまったからな。わしの家も焼けたけど、幸い家族は無事だった。この横澤よこざわさんは息子の親友の姉さんだよ」

「大将も大変だったんだな。うちのカフェーは俺の出征時に閉めちまったからね。俺が帰るまではハナエと元女給たちが同じ名前で飲み屋をやっていたが、今度の法律でダメになったから次の商売を考えないと」

「あたしたちの仲人をしてくれた浅草の萩谷はぎやさんに相談してみたらどうかね」

 骨取りをしたアジの煮付けを望に食べさせているハナエが言う。

「萩谷さんには近々挨拶に伺うつもりだ。大将も早く店が再建できるといいな」

「ああ。大口の旦那もな」


 戸祭と大口が話し込んでいる横で、かつらは客の会計をしていた。そこに入口から新しい客が入ってくる。

「いらっしゃいませ……京極きょうごくさん」

 かつらはあわててカウンターを見た。

「こんばんは、ちょうど席が空きましたよ」

「ありがとう」

 たかしは空いているベンチの隙間に腰掛けると、かつらに声をかけた。

「お酒を一杯、あと今日の魚料理を一つ」

「今日は飲まれるんですね」

 かつらはあの日酔い潰れていた隆を思い出し、不安になる。

「お金もないし一杯だけだよ」

 かつらを気遣うように隆が言った。


 大口一家が帰った後、かつらはアジの煮付けを食べる隆の様子を見ながら帰り支度を始めた。時計は七時四十五分になっている。

「またあの兄さんが来てるな。常連になってくれるといいが」

 戸祭がネギを入れたお椀に味噌汁をつぎながら言った。

「今日のアジは売り切れだ。悪いがこいつで我慢してくれ」

「大丈夫ですよ」

 かつらはお椀を受け取ると、隆の座るカウンターの向かいに立った。

「またお店に来てくれてありがとうございます」

 礼を言うかつらに隆が話しかける。

「一月前にここで酔い潰れ、君に介抱された。あれからずっと聞きたかったんだ。どうしてそんなに親身になってくれたんだい」

 かつらは味噌汁を一口飲むと、隆の持つ空の升に目を落とした。

「ほっとけなかったんです。もう誰も兄さんのような目に遭わせたくなくて」

「お兄さん?」

 隆はかつらを見上げた。酒を飲んだせいか頬に赤みが差している。

「兄は昭和二十年に復員してからすぐに交通事故で亡くなりました。ヤミ市でお酒を飲んでいたそうです。まだ二十一歳でした」

「私の二歳下か。若かったんだな」

 隆がつぶやく。かつらの脳裏にはあの日、進駐軍のジープの下で倒れていた兄、羊太郎の姿が浮かんでいた。

「ええ。もし兄のようになったらどうしようかと」

「だからあの時『生きてたんですね』と言ったのか。ごちそうさま」

 隆は升を置くと立ち上がった。眼鏡の奥の目が潤んでいるようにかつらには見える。

「辛い話をさせてすまなかった。お会計を頼む」

 かばんから財布を出す隆を見たかつらは、このまま二度と会えないような気がして胸の動悸が速くなるのを感じた。あわてて付け加える。

「あ、あの、気にしないでください。今は戸祭さんたちのお陰で弟となんとか暮らしていますから。ここで京極さんの話をまた聞かせてください」

 その言葉を聞いた隆は、かつらを見つめながら申し出た。

「もし君さえ良かったら、話をしながら途中まで送らせてもらってもいいかい」

「ありがとうございます。すぐに出ますんで待っててください」

 かつらは味噌汁を一気に飲み干した。


 その夜から、かつらは週に一度「まつり」に来店する京極隆と待ち合わせ、厩橋の手前まで一緒に帰るようになった。季節は真夏にさしかかろうとしていた。

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