第8話

 フェリシアの手の甲には、元の家である蠍座の紋章ではなく、蛇遣い座の紋章が浮かんでいる。テオドールと全く、同じもの。


「君、ずいぶん演技が上手いね。俺が紋章のことを仄めかしたら、スコルピオン家の紋章を隠しているかのように振る舞っていた」


 テオドールが、何をどこまで知っているのか未知数だったからだ。スコルピオン家の者だということだけなら、まだいい。蛇遣い座の紋章を持っていることまで知られていたら厄介だと思った。結果は、厄介な方だったわけだが。


「俺が、君がいい理由、納得してもらえた?」

「……かなり、私のことを調べたようで」

「まあね。昔、俺以外に蛇遣いの紋章を持つ子がいるって、噂にもならない話を聞いたことがあってね。どうしても、会いたいと思った」


 テオドールの口調が、弱々しく聞こえた。会いたい、という単語が際立ってそう聞こえた。


「手掛かりもほとんどなくて、探して探して、ようやく突き止めた時には、君は薬屋をやっていた。遠くから見に行ったこともある。うーん、こうやって並べて言うとストーカーみたいだ」


 自分で茶化しながら、テオドールは、最初は口にするつもりはなかったのだろう、四つ目の理由を語った。ただ、自分と同じ紋章を持つ人に会いたかった、と。


「薬屋を自分でやっていることが、純粋にすごいと思った。でも、足りていないんだろう」

「それは」

「だから、一番、利用価値の高い時に声をかけた」


 利用価値、という言葉に、カッと頭に血が上った。足りていないのは事実。でもそれを貶される筋合いはない。


「私は助けを待つ哀れな姫で、あなたはそれを救う王子の気分ですか。そんなのまっぴらです!」

「そうは思っていない。それは、君に対して失礼だ」

「だったら」


「紛らわしい言い方をしてしまったね。さっき言った利用価値、ってのは俺自身のこと。俺がオフィーユ家の当主になり、治癒魔法を提供出来るタイミングって意味。後は、フェリシアが成人することだね。仮にも結婚が出来る年じゃないと」


 フェリシアのことを貶したわけではないと分かり、フェリシア自身の中の熱がすっと引いていくのを感じた。そして、ある言葉に引っ掛かりを覚えた。


「仮にも、って何ですか」

「結婚といっても、コンクールが終わるまでの約三か月、伴侶でいてくれたらいい。その代わり、俺からは治癒魔法を提供する。君は俺を利用すればいい。俺も君を利用する。これは、そういう契約だよ。どう?」


 つまり、三か月間の期間限定での嫁入りというわけだ。それで、母の病気が完治するなら、悪くない取引かもしれない。


「私はあなたが蛇遣い座、オフィーユであることは信じています。ただ、治癒魔法はこの目で見たことはありません。見せて、いただけますか」

「もちろん」

「今朝、箒に乗った時に、指先を切ってしまって。試しにこれを……って何をしているんです!」


 テオドールは、果物ナイフを手に取ると、そのまま自らの腕をすっと切り付けた。みるみるうちに腕に赤い筋が出来る。


「これくらいの方が分かりやすいかと思ってね。見ていて」


 テオドールの左手にある指輪が、光を帯びる。そこから生まれた光が、テオドールの腕の傷に集まっていく。まるで時間が巻き戻るように、腕にあった傷があっという間に消えてなくなった。


 光がフェリシアの指先にも集まり、僅かな切り傷もなくなった。治っていく時に、痛みもなかった。


「凄い……」


 治癒魔法、存在を疑っていたわけではないが、実際に見るとやはり驚いてしまう。本当に綺麗に傷が消えている。


「これで、証明出来たかな」

「オフィーユ卿、腕は大丈夫なのですか」

「ん? 治したから大丈夫だよ。心配してくれてるの?」

「証明するためとはいえ、いきなり腕を切られたら驚きますし、心配します。当然です」


 当たり前のことを言っただけなのに、テオドールは、とても嬉しそうな顔でフェリシアを見つめてきた。気まずくて、フェリシアは窓の外に視線を逃がした。もう空は暗くなっていた。


「今日は時間も遅いから、送っていくよ。デザートはエミリーに頼んで包んでもらおう。妹ちゃんと、母君と一緒に食べて」

「はい」

 ディナーがお開きになったので、フェリシアは椅子を引いて立ち上がった。


「フェリシア」


 テオドールに名前を呼ばれた。包み込むような優しい声音に、少し落ち着かない気持ちになったが、平静を保って続きを促した。


「助けて、と言えばいい。俺は、必ず君を助けてあげる」

「……」


 フェリシアは、何も答えずにその場を後にした。





 その夜、ベッドに入ったフェリシアは、なかなか眠れなかった。とても長い一日だった。疲れているはずなのに、眠ることを体が拒否している。


「はあ……」


 こうして眠ることを憂鬱に思うことは、今日以外でもよくあった。正確には、眠ったら朝が来ること、また一日を乗り越えなくてはならないことが、とてつもなく、フェリシアを憂鬱にさせる。


 大切な人を、大切なものを、守りたいと思う。でも、全てを投げ出したくなる時がある。苦しくてもがいている時に、世界が美しいと思った時なんかは特に。


「助けて、か……」


 誰かにそんなことを言うなんて、スコルピオン家を出てから、出来るはずのないことだった。言えたら、どんなに楽だろうか。


 フェリシアは、自分の手の甲をそっと撫でた。蛇遣い座の紋章は隠さなければならないと、父にきつく言われてきた。世の中を乱すものだからと。でも、治癒魔法の加護を受けるこの紋章で、誰かを救えるかもしれない。役に立ちたいと思うことも、駄目なのだろうか。


「テオドール・オフィーユ、ね」


 堂々とオフィーユを名乗り、治癒魔法も手にしている彼が、眩しく思えたことは、認めたくないが、事実だった。

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