46/J 【完】

 

 廊下へ出た潤は家の中階から平地へ飛び降りた。


「亜沙」


 櫂吏の固く短い声が、すぐ後ろで呼んでいる。

 ゆっくりと立ち止まる潤に特別焦る様子はない。


「あなたに見せたいものがある。私たちだけの時間を頂戴」


 先を行く潤は足を止め、羽織の衣嚢に手を入れた櫂吏を振り返った。二人が立つ断崖の下には鷭が守ってきた船がある。

 櫂吏は永遠に広がる南海の水平線を一望し、その流れで潤を見つめた。


「こんなところまでやって来て、何をしようとしていますか?」


 彼は怪しんでいる。泰然としているが、その沈んだ瞳に懐疑と憎悪のベールがあるのを潤は感じる。彼をここへ連れて来なければならない理由ははっきり言って微塵もない。彼をどうにかしたいなんて思ってはいない。ただ、どうしても脱出したい潤は自分の行く手を阻むものをできるだけ消したかった。その為、もうすでに意味を成していないと思われる婚約者という関係を利用し、櫂吏だけを近くに置くことで、敵の数を最小限に減らすことが今の潤にできる精一杯だった。

 自分を逃してくれるなら、戦う必要なんてない。


「あなたは現在、島には船が無いと言った。でも、ずっと昔からもう既にここにある」


 それぞれの顔にかかった斜陽がその強さを増していく。


「私はジバではなく、この島で生まれ育った単なる一人のハイマとして脱出する。もしそれを脅かすなら私はあなたをここで斬る」


 その言葉に嘘は無かった。

 櫂吏は視線を空へ動かし、大きく深く息を吐く。


「君なら、変わってくれると思っていました……潤」

「……何で、その名前」

「鈴木深波を処刑する時、君の名前もゾーオンから聞いていました。奇岩城で君の爪を初めて見た時……震えましたよ。絶対にあの時の子だろうと、こう、私の本能が叫びまして。後々集会に来たゾーオンに確認すると、やはりそうだ。と」

「全部、知ってたんだ……知ってて、私をジバの、あんたの女にしたんだ……」

「我々ジバの何がそんなに気にいらないのですか?」


 そう櫂吏が言い終わる前に潤は叫ぶ。


「忘れられるわけないじゃん! ゼロにできるわけないじゃん!」


 潤の両手からファングネイルが伸び出したその時__________


「貴様!」


 何かが頭上に飛んだ。櫂吏が用意した見張りのジバが突如現れ、潤に飛びかかったのだ。ずっと削壁にへばりつき、その機会を伺っていたのだ。しかし、これはジバの独断だった。櫂吏は何も合図をしていない。

 次に潤が見たのは空中にいたジバが何かに包まれ、弾かれたように吹っ飛んでいく様子______


「お爺さんッ」


 ジバを覆うようにした見覚えのある曲がった背中が谷底へと消えていく。


──脱出せよ、お嬢さん


 あまりにも呆気ない、一瞬の出来事だった。

 潤は櫂吏を開いた目で睨んだ。

 ゆっくりと、彼は一つ瞬きをする。


「ある日、騒音が激しい狭い箱の中で少年は夢を描いた。漠然とした純粋で幼い夢だ。成長するにつれハイマ特有の能力を使い、その夢を実現させようと勤しんだ。だが、種の違う周囲は動くのを辞めた。何故なら『力』の使い方に問題があったからだ。それから彼は『力』を見直した。そして、周りの人を動かすにはそれなりの結果が必要だと考えた。皆と同じ目線に立つと、皆は協力してくれるようになった。……おかげで良い結果が得られそうだ。そしたらすぐさま、あの箱へと持ち帰って、あの日の彼と喜びを分かち合おう」


 彼は何を言っている?


「何が言いたいか分かりますか?」

「知らない」

「一つ、生まれたままではいけないということ。二つ、生まれた場所は関係がないということです。」


 潤の瞳に少年が浮かび上がる──ある少年が夢を描いた。その夢は地位も名誉も関係なく、それは彼の無邪気な好奇心でしかなかった。この閉じられた世界で、貧富の差など関係なく誰もが持てる夢だった。そのうち純粋なその夢はいつか彼の指標となり、生きがいとなった。けれど、無垢なその夢は彼を取り巻く環境が原因で叶わなかった。


「その少年は沈んだ。汚い海の底へと沈んでいった! そうなるべきではなかった。そうなってはならなかった。少年は死んだの! 死んでいるの!」


 力の籠る両手は熱い。

 地を蹴りファングネイルを振りかざした。

 脱出する。

 詰まった思いが潤を狂気へと進化させる。

 避けられない最後の戦いに潤は正正堂堂覚悟をした。

 爪が入る。

 温かい臓器に沈んでいく。

 赤、黒、飛び舞う血。

 潤が強かったのではない──櫂吏は一ミリも避けなかった。

 そして、それは彼にとって致命傷となるものだった。


「……残念です……」


 突き刺さったままの爪を伝い、彼の背から血が留めなく流れていく。


「……君を、矯正、させたかった」

「矯正? 私たちの先祖がゾーオンと共存共栄を試み、平和な社会を作り上げ守ってきた。その均衡を崩し、崩壊させて、あんたたちはここを乗っ取った。あんたは間違ってる。同じハイマとしてこれほどまでに恥じるべきことはない!」

「君は洗脳、されている……」

「どう意味?」


 彼は何処かを見つめている。


「ごめんよぉ……」


 誰かに言った、か細い無念の問い掛けが、波の音と重なった。





 緑の膜を突き破る。草木やつるが船体に絡みつき、それを解くのは面倒臭い。水平線へ舵をきる直前、気配を感じ、目を凝らす。転がり並ぶ岩の隙間に女の子がひとり座っている。いつからここにいたのだろう。髪は儚げに風で揺れ、ビー玉のようなブラウンの瞳が潤を淡々と見つめている。潤に見つめ返されたことで、反射的に出る薄い唇で作った控えめな笑顔。手には木箱。


「それ、私のお気に入りだよ」


 潤は言った。


「一緒にくる?」


 幼女は頷く。

 尽きない海に日が照り輝く。











 みんなと家を出る時、あの夜に自分が捨てたはずの木箱を母が持っていた。しかも金具の部分にビーズを通した針金が結ばれていて、森を連想させる配色がとても可愛い。ツバメは受け取った。捨てたものとは別物みたいだ。


『ツバメ、これね、お父さんがしてくれたのよ』


 夕焼け広がる世界の果て。

 船の上で優しく弾く。

 奏でるうちに指が止まり、膝を抱えるようにすると、その背中を女が温かい手で撫でている。

 しだいに大粒の涙が溢れはじめ、自分は声をあげている。泣き過ぎて呼吸がおかしくなってもやめなかった。止まらなかった。泣いた。涙を流した。泣き叫んだ。言葉にならないのだから仕方ない。泣いた。泣いて、女の胸で赤ん坊のようなっていた。泣いた。わんわんとなった。わんわん。ふぉーんと言ったのかもしれない。言葉を出すのには疲れた。泣くのに疲れた。でも泣く。ずっと泣く。勝手に水が出る。止まらない水。どうしようもない水。仕方ない。何にもない水。愛おしい。愛おしい。あのひとが愛してくれたから、何があろうとも、なんだって、愛おしい。



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絶島H 速川ラン @hayakawaran

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