45/D
潤の、悲鳴のようなサインを聞いた時、大瑚は船の帆が上がったと思った。
胡坐をかく全身に鎖を巻かれ、血達磨となったその肉体で、血の唾液を垂らしながら、潤が来る、しかとその機会を伺っている。目が片方潰され狭まった視界で、もう一方の眼球だけを動かし見渡す。この部屋はやはり素晴らしい。でも、こんなに赤くはなかった。
大瑚が平地に着く時、赤黒くなった肉片の山を見ないことに集中していた。あの中にキリウがいると考えると、自分は絶対に死にたくなる。今は何も見てはいけない。平地を迂回し、地下空洞に身を潜めることに成功した。匍匐前進の姿勢で階段にへばり、家を見上げると灯の中にジバの影がちらほら見える。
目的はあの部屋だ。あの部屋の明かりはついていない。躊躇している時間はない。大瑚は一目散に壁をよじ登り、目的の部屋へ忍び込んだ。窓枠の鍵を見た時、やっと胸を撫で下ろす。これだ。この鍵に違いなかった。急いで出よう。出たら潤にピーキングしよう。そう思ったが_______
「誰だ」
叶わなかった。
ジバの尋問に口を閉ざし、何度殴られても黙秘する間、潤のことだけを思っていた。登山、市の競泳大会、体育大会の種目、生徒会に入ること、灰海街に遊びに行くこと、深波の家に押し寄せて、いつも自分を引っ張ってくれた。思い出の走馬灯が目まぐるしい。ふらふらしている彼女には自分が必要だと思っていたけれど、本当に必要としていたのは自分の方だ。
潤がいたから楽しかった──。
足音がして、長い羽織が目に入る。
「まだ何も割らないのですか?」
「はい」
櫂吏は大瑚の腹を、天井を突き破りそうな勢いで蹴った。屈んだ体勢で吐瀉物を我慢し、口から出なかった物が鼻腔を伝う。
「見窄らしい……爪の無いハイマなどハイマじゃない。さあ、どうやって私たちに勝ちますか?」
引き戸の方に潤が見えた。新しい服に着替えさせられ、廊下で、じっとこっちを見ている。
大瑚は周囲を憚らず、鼻で笑い、歯を食いしばるように笑い続ける。
「ほう……死にたいみたいですね」
殺されてもいい。彼女に鍵さえ託すことができるなら。
「亜沙、ちょっとこちらへ」
急な男の声に潤はビクッとしながらも、確かな足取りで前へ進む。
「私は君を信じている。信じているが、確かめておきたい」
櫂吏は潤の体を大瑚へ向ける。
「君はあの男を知っていますか?」
「……見窄らしい。酷い容姿でよく見えない。ちょっと、近くで見てもいい?」
彼女は歯切れ良く言い放つ。
大瑚を鎖で縛ったジバは櫂吏に深く頷いている。
「もちろん、いいですよ」
大瑚の方へ彼女は近づく。
その瞬間、大瑚は片足を使い、己の方へ取り込むように潤を引き寄せた──瞬時に深く重なる二つの唇。
潤は口内の異物を絡めとると吸い取るように離れた。
離れる時、大瑚は一瞬だけ彼女と目があった。もう、その目だけで充分だ。耳で鐘の音のようなものが反響し、ジバに体を蹴り倒され頭を足で押さえつけられる。床に右頬を擦り付けながら遠くなる白いワンピースの裾がひらひらと動いているのを見ていた。
扉前で颯爽と歩き去っていく潤を櫂吏は追う。
「知らない」
櫂吏を振り返ることなく潤は言った。
斜めになった大瑚の視界から潤が消えようとしている。
勝った。
地に這ったまま、ただ一点だけを見据える大瑚の体は勝利の歓喜で満たされていた。
彼女の白い裾が壁裏に消えていき、流れる自分の涙に気づくことなく、ジバの爪がふりおろされる瞬間にも気づかず、微かに自分の口角が上がっていくその頰の筋肉を、大瑚は最期まで、快感と共に感じていた。
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