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潤はファングネイルを一度引っ込め、また出し直すのを繰り返しながら平静を保った。一気に寂しさが増し、ひとりで戦わないといけない状況に心が負けそうになったのは絶対に認めない。体が傷ついているわけでないのに負けようとする者が多くいる世の中で常に思う。孤独になったこの状況で戦えるかが分かれ道なのだ。今、自分は分かれ道にいる。
「櫂吏様が今のあなたを見ればどう思われるのか、想像できますか?」
潤の世話役をしたジバは悲しみの表情を浮かべている。彼らはまだ櫂吏に潤が裏切っていることをピーキングしていなかったのだ。見るに堪えない、という表情で三人のジバは潤を見つめている。
「それは……ごめんなさい」
だが、惑わされてはいけない。
櫂吏やジバに対する自分の謝意に自分の使命と夢が惑わされてはいけない。
「櫂吏様はジバでなかったあなたを受け入れた。それなのにあなたは恩を仇で返すのです……我々はあなたの亡骸を櫂吏様の目の届かない場所へ隠すでしょう!」
深緑に憎悪と悲しみの嘆きが響きわたり、それを皮切りに三人のジバが動いたのを目の端で捉えながらコンクリートの施設に素早く飛び乗る。潤が走るこの高塀は溢れる水を排出していた設備だろう。口を開けた水門を潜り抜け、咄嗟に送水管跡に滑り込んだ。自然が撒いた枯れ葉にその滑りを助けられながら転がるように傾斜を下る。
行き着いた先はまたしても巨大な隧道で、やむなく奥へと追いやられる。この先に待ち受ける、いつか現れる行き止まりに直面する不安を胸に一本道の暗闇を走る。足先に緩い感触。泥水の飛沫が音をたて、所々で割れた壁から漏れる入る水が卑しく筋を作っていた。徐々に水面が上昇し、ぬかるみ水没した地点で、更に泥の嫌な感触に囚われ鳥肌が立ってくる。潤は追手のジバたちを振り返った。
「降参か?」
汗を光らすジバは微笑む。
「違う……守るために、攻めることにした」
息を切らせながら潤は構えた。血の拭われたそのファングネイルは怪光放ち艶めいている。出口の見えない、魂が吸い取られていくトンネルの闇にもう進みたくはないと思った。ここで戦おうと決めたのだ。
降りかかるジバを避けて飛び、僅かに出した爪をコンクリートに食い込ませながら四足歩行で壁を駆ける。ジバが反対側の壁から飛びかかり、潤は素早く引っ掻いた。二人は解けない鎖のように絡まり倒れる。潤の上に乗るジバの体越しに別の一人が降りかかるのを見た瞬間、手前の肉塊を両足で蹴っ飛ばす。歪な音を立ててぶつかり落ちたジバたちはそれぞれにもがき、よろめく。
しかし立ち上がった潤は息が止まった。残りの一人の吐息が頸にかかる。ジバの両手が強く首を絞め、潤の両足は宙に浮いた。霞んだ視界でさっきの二人が徐々に向かってくる。首に食い込むジバの指先が皮膚に立てられ、潤の喉が大きく鳴った刹那__________とてつもなく強大な強風が岩石の空砲となって隧道を襲い、容易く四人の体を吹き飛ばした。泥の水面に顔面を打ちつけた潤は飛沫を撒き散らしながら泥水の中をスリップしていく。
森閑。
朦朧としながら胴部を起こし、震える目蓋を持ちあげた潤の目は白白しく光っている。すぐ隣で横たわる一人は首が折れて動かない。視線を彷徨わせると、もと来た光の方で壁に手をつくジバが見える。もう一人がよろよろと起き上がり、潤を探す二人の死んだ目がそこにはあった。早く起き上がらないと。全員が前後不覚に湯気立つ自分自身に鞭をうつ。潤は力んだ。打撲は酷いが折れていない。首の後を引っ張られるようにして二人が阻む光の方に立ち上がる。手首、足首、首をならすと、額から血が頰を伝った。同じく血を流すジバたちが戦闘態勢に入った時、既に潤は地を蹴り猛進していた──研ぎ澄まされた己の爪が牙となって獲物を狙う。刃向いたジバは身を傾けたが、利き手を狩られ血が吹いた。勢いあるまま隧道を出た潤を追おうとしたもう一人は血を流す仲間を先に外へと蹴り飛ばす。上に潜んでいた潤は飛び出したジバをぶった斬った。残った一人と目が合うも振り返らずに森を駆ける。
平地の向こうに黒い家が見えた。
黒焦げの肉塊が何体か積まれていて、恐らく強力な爆弾の被害にあったジバたちだろう。その陰から動く者が見えた。二人のジバが並走して追ってくる。大瑚を追っていたジバたちだ。潤は苛立ち舌打った。
ジバたちは潤が平地に出るまでに処刑したがったが、潤は逃げきり殺風景な場所を走る。全部で三人を引き連れたまま家の方へその身を投げるように直進し、走りながら自身のファングネイルでわざと胸に傷をつけると服に血が滲みはじめる。途中から足をつったようにして速度を緩め、明らかにおかしいその様子に追っていたジバも一瞬訝しんだ。
「櫂吏! ここにいるんでしょ? 櫂吏! 櫂吏!」
潤は絶叫するように叫んだ。
助けを乞う悲壮な叫び。
ジバたちは驚き足を止める。
すぐに廊下のような場所から彼が姿を現した。
「亜沙!」
「助けて!」
潤はさらにその場で崩れ落ちる。
呆然とする三人のジバは言葉が出ない。
櫂吏は建物から飛び降りると、後方に数人のジバを連れて潤の前へ足速に向かう。
「その傷、何がありました? 何度もピーキングしたのですよ」
「森の中でハイマの男に捕まって、脅されて……」
潤は泣き喚きながら櫂吏の胸に蹲った。
「君たち、何をしていたのですか?」
櫂吏に問われたジバは首が小刻みに揺れている。
「……櫂吏様、騙されています。この女は我々の仲間を殺しました」
突拍子のない潤に圧倒され、状況に恐怖を感じたジバは震える声でそう発した。
「このジバたちは何も信じてくれない! 私は脅されてた! 仕方なかった! それなのにこのジバたちは私を殺そうとした!」
「違うッ」
「違わない!」
狂気だ。
たまらず声を張ったジバに負けないよう、それ以上の気迫で潤は怒鳴った。
「亜沙……」
「あなたがいなくて怖かった。怖くてどうしようもなかった……」
櫂吏の目を真っ直ぐに見つめ、すがる顔で一筋、二筋、涙を出す。そして、しなやかなで無鉄砲な身体は彼の胸にゆるりと倒れる。
程なくして潤を攻めていた三人のジバはその場で処刑された。
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