「解放」

 坂本の背後に立つ死神。気づかぬ間にいたことに対し、小野は恐怖する。

「アトフタリ」

「ひっ!」

 背後からの声。それに驚いた坂本は身体を震わせ、悲鳴を上げる。そして、ゆっくり振り返ると、目を見開いた。

 死神が両手を胸の前に合わせる。その動作を見た小野は、坂本に呼びかける。

「逃げろ!」

「〜〜〜、〜〜〜」

 死神が呪文を唱え始める。小野が呼びかけるも、坂本は動かずにいる。そして、恐怖に歪んだ顔を小野に向ける。

「助けて…。うっ、何これ…」

 坂本の様子が変わった。苦悶の表情を浮かべ、自身の喉元に両手を添える。

「く、苦しい…」

 苦悶の声を上げながら、身体がふらつき始める。そして、その場で膝を突いた。

 目に涙を浮かべ、口を大きく開いている坂本。苦しんでいる彼女に追い打ちをかけるように、死神は呪文を唱え続ける。

「〜〜〜、〜〜〜」

「身体が…、動かない…」

 呪文に沿って、坂本の苦しみが増していく。すると、坂本が右手をゆっくりと前に突き出した。それは、目の前にいる小野に向けられていて、助けを乞う仕草に見えた。

「あ、ああ…」

 小野は戦慄し、後ずさっていく。すると、坂本の表情に変化が起きた。何かを思い出したように「あっ」と声を漏らし、呟く。

「…ああ、やっぱりそうだったのね」

「えっ?」

 小野は意味が分からず、聞き返す。しかし、彼女は何も答えず、じっとしている。すると、坂本の身体が崩れ始めた。

 風に流される砂のように崩れていく中、坂本は目を細めている。それは、泣いているような悲しい表情だった。

「小野さん。私たちは…」

 言葉が途切れる。そして、彼女の身体が消え去った。

 死神に消された坂本。その一部始終を目の当たりにした小野は、恐怖で動けずにいる。

 救えなかった。恐怖と共に芽生える悔い。それらの感情が綯い交ぜになり、頭が混乱し始める。そんな状態の彼に、死神が告げる。

「サイゴノヒトリ」

 ノイズのかかった不気味な声。ゆっくり近づいてくるのを見た小野は、我に帰る。

-逃げろ!

 そう警告が発せられたと同時に、背後に振りる。そして、屋上を目指して階段を一気に上り始める。


 バタバタと大きな音を立てながら、上っていく。下から聞こえてくる、コツンという死神の足音に、恐怖が大きくなっていく。

 4階に着くと、そこは電気が点いていた。なぜ4階から上は電気が点いているのか。そんな疑問がふと過ぎるも、今は気にしている場合ではない。

 そのまま5階へ駆け上がろうとする。その時だった。

 明かりが突然消えたのだ。それは4階だけでなく、5階にも起き、ビル内は完全な暗闇の世界へと変わった。そして、1階で見た景色と同じく、フロア全体が黒く汚れていた。

 命を奪う死神に追われる恐怖。そこに追い打ちをかける出来事。恐怖で精神がすり潰されそうになるも、小野は挫けなかった。

「絶対に生き残ってやる」

 決意を呟き、歯を食いしばる。

 コツン、コツン。死神の足音が近づいて来ている。小野は左手に持つスマホのライトを頼りに、階段を上がっていく。


 5階に着き、小野は屋上のドアへライトを向ける。ドアの上にある掛け時計は、"1:00"と表示されている。

-まだ時間がある。

 それに安堵すると、ズボンの右ポケットから鍵束を取り出した。そして、ライトで手元を照らす。

 "1"から"8"と振られた8本の鍵のうち、"1"の鍵を選ぶ。そして、鍵穴に挿そうとする。しかし、鍵穴に入ることはなかった。

「くそっ!」

 小野はたまらず、暴言を吐く。次に"2"の鍵を選び、挿そうとする。しかし、これも入ることはなかった。

 残ったのは、"3"から"8"の6本の鍵。どれが屋上の鍵なのか戸惑っていると、下からの足音が耳に入ってくる。

 コツン、コツン。目の前のことに集中して、意識から外れていた足音。それが死へのカウントダウンに聞こえ、焦燥感と恐怖を与える。

 激しく脈打つ鼓動を感じながら、"3"と"4"の鍵で試した。しかし、これらの鍵でも開くことはなかった。

 残った鍵は4本。そして、残されたタイマーは、あと40秒。

 タイマーが"0"になったら、一体どうなるのか。永久にここから出られなくなって、餓死するのか。しかし、そんな結末よりも先に、死神によって殺されるだろう。今の状況下では、タイマーの存在があまり目立って見えない。

 コツン、コツン。足音から見て、もう4階まで来ている。そう思った小野は、"5"の鍵を選ぶ。

 最後まで諦めない。その気持ちを持ったまま、鍵穴へ挿そうとする。

-頼む。開いてくれ。

 心の中で必死にそう願う。すると、鍵は鍵穴へ入っていった。

「よし!」

 歓喜の声を上げ、鍵を捻る。ガチャと解錠の音を耳にし、ドアノブを回す。回し切ったところで、小野は勢いよくドアを押した。

-これで終わりであってくれ!

 そう願いを込めながら、小野は屋上へ足を踏み入れた。

 正面には貯水槽があり、屋上の端は柵で囲まれている。小野にとって、初めて見る光景だった。しかし、今の彼にとって、そんなことはどうでもよかった。

 小野の心に、不安が押し寄せてくる。屋上に出たというのに、何も変化が起きないからだ。

「おい。これで終わりなんだろ?」

 小野は左右を見渡しながら、問いかける。しかし、彼への返事はない。そこに彼以外、誰もいないからだ。それでも彼は、確かめずにはいられなかった。他の誰かから知らせを聞かないと、落ち着いていられないのだ。

 いつまで経っても変化のない状況。風の音だけが聞こえる中、小野は苛立ちを募らせる。

「おい!なんで、なんで何も起きないんだよ!」

 小野が怒鳴る。しかし、彼の声は、答える者がいない空間に虚しく響くだけであった。

 時間内に屋上に出れば、この世界から抜け出せる。本当にそうなるのかは分からず、不安ではあった。しかし、彼はそれでも賭けに出て行動した。

 二人の見知らぬ男と坂本の屍を乗り越え、ここまで来た。それなのに、結果は彼の期待通りにはならなかった。彼の心は絶望に染まり、気力を無くしていく。

「何だよ、それ…」

 小野はそう呟くと、その場で膝を突いた。そして、両手を地面に突き、顔を歪める。

「どうすればいいんだよ」

 考えが浮かばず、嘆く。その時だった。

 ウー、カンカンカン。ウー、カンカンカン。

「…サイレン?」

 小野は顔を上げる。音が大きく聞こえる。それは、自身の目の前で発せられていると感じるくらいの大きさに思えた。

「警察?いや、消防車か」

 小野はゆっくり立ち上がると、金網へ近づいて行く。網目を掴み、下の景色を見る。そこには、ビルの前に停まっている消防車があった。

「なんで、こんなところに。…あれ?この光景、どっかで見たような…」

 小野は、片手で頭を押さえる。初めて見る光景のはずなのに、なぜか既視感がある。この不思議な感覚に、頭が混乱している時だった。

 背中に気配を感じる。恐る恐る振り返ると、そこには死神が立っていた。

「ああ…」

 恐怖のあまり、小野はその場で尻餅をつく。そして、後ずさっていく。

「く、来るな!」

 怯えながらも、制止を呼びかける。しかし、死神は応じることなく、近づいてくる。

「頼む!殺さないでくれ!」

 小野の目に涙が浮かび上がる。すると、死神は、あと一歩という距離で立ち止まった。

「俺は、殺しに来たんじゃない」

「えっ?」

 小野は驚き、目を見張る。あのノイズのかかった不気味な声が、低くて野太い声へと変わったからだ。

 彼が驚いたのは、声の変化だけではない。死神の言葉に対してでもあり、気になった小野は尋ねる。

「殺しに来たんじゃない?だったら、何なんだよ!」

「…は?」

 予想外の言葉に、小野は口を半開きにする。

「何言ってんだ。それじゃ、俺たちが幽霊みたいな言い方じゃねぇか」

「そうだよ」

「…えっ?」

「君たちはここで死んだんだよ。ちょうど1年前のこの日、ビル火災によってね」

「は?」 

 死神の言っていることが理解できず、小野は混乱する。すると、死神が両手を胸の前に合わせた。

「無理もない。今、楽にしてやる」

「や、やめ…」

「〜〜〜、〜〜〜」

「…うっ、あああ!」

 小野に身体に異変が起き、呻き声を漏らす。息苦しさに加え、激しい頭痛。そして、鉛のように重たくなっていく身体。 

「うう…。助け…」

 小野はその場に倒れ込み、もがき始める。襲いかかっている苦痛の数々。それらに心が狂いそうになった時、彼の頭の中で突然、ある光景が再生され始めた。




 毎日、事務所に篭って仕事をする。そして、定時になったら帰る。これがいつもの流れ。しかし、2022年9月16日は違った。

 時刻は、20時16分。階下から上がってくる黒煙と熱気。ビル5階にいた小野は口元を手で覆いながら、身を屈めている。

 残業の合間に仮眠を取っていたら、火事に巻き込まれた。原因は分からない。2階から出火し、凄まじい勢いで燃え広がっているという状況ぐらいしか分からない。

 5階から数段上がった先に、屋上に出るドアが

ある。そこには小野を含め、3人の男女がいる。皆がゴホ、ゴホッと咳き込みながら、弱々しい表情を浮かべている。

「早く。みんな死んじゃいますよ…!」

 そう急かすのは、20代の女性。彼女は、3階にある会社で残業していたところ、この火事に巻き込まれたという。

「ちょっと、待ってくれ。今…、開けるから」

 弱々しい返事に加え、緩慢な動きを見せる初老の男性。8本の鍵束が握られている手は、小さく震えている。

 彼は、1階にある管理室の関係者。ビル4階にあるトイレの電球を替えに行っていたところ、不運にもこの火事に巻き込まれたという。

 視界を遮ってくる黒煙。頭痛に吐き気、徐々に混濁していく意識と様々な異変をもたらす。それらは小野だけでなく、他の2人をも蝕んでいた。

-こんなところで死にたくない。

 小野はそう願いながら、気力を振り絞る。

 男性が"5"と数字が書かれた鍵を掴む。緩慢な動きで鍵穴に差し込み、そのまま右に回した。ガチャと音を立てると同時に、男性が倒れ込んだ。その様子を見ていた小野が、すぐさま呼びかける。

「おい!しっかりしろ!」

 小野が必死に呼びかけるも、返事がない。

 このままではまずい。そう悟った小野は、ドアを開ける。すると、外から冷たい風が吹き込んでくる。

「先に行け」

 そばでしゃがみ込んでいる女性に促す。彼女は虚な目でゆっくり頷くと、屋外へ出て行った。

「ここまで来たんだ。死ぬなよ…」

 小野は混濁する意識の中でも、男性に呼びかける。そして、男性の両脇に手を差し込み、屋外へ引きずっていく。

 屋外へ出ると、男性をうつ伏せに寝かせた。そして、心配蘇生を試みようとする。しかし、小野の身体は限界を迎えていた。

「あ、あれ…」

 視界が狭まっていき、全身の力が抜けていく。そして、ふらふらと体勢が崩れていき、その場に倒れ込んだ。

 狭い視界には、雲に半分覆われた月が映る。そして、遠くから消防車のサイレンが聞こえてくる。

-こんなところで、死にたくない…。

 薄れゆく意識の中、生に縋り付く。しかし、彼の意識は無情にも、深い闇へと落ちていった。




 突如蘇った記憶。その記憶の再生が終わった頃には、全身を蝕む苦痛は消え去っていた。そして、どういうわけか心地よかった。

「そうか。俺はあの時、死んじまったんだな」

 小野は顔を伏せたまま、眉を八の字にする。

「〜〜〜、〜〜〜」

 死神は返事することなく、呪文を唱え続ける。

「あんたは死神じゃないんだな?」

 小野は顔を上げ、悲しげに口角を上げる。すると、視線の先にいる死神の姿に変化があった。

 全身を纏う黒いローブは、黒のパーカーに黒のジャージへ。そして、顔は骸骨ではなく、20代後半くらいの若い男へと変わっていた。その男は、悲しげに細めた目で小野を見下ろしながら、念仏を唱えている。

 小野の身体に変化が起きる。全身がボロボロと崩れ落ちていく。

「ちくしょう。まだ生きたかっ…」

 小野の言葉は、そこで途切れた。そして、彼の身体は、夜風と共に崩れ去った。




 2023年9月16日午後20時20分。

 目の前の男は笑顔を浮かべながら、この世から消え去った。榊原さかきばらは、そんな男の最期を複雑な気持ちで見ていた。

「やっぱり、いつやっても馴れないな」

 そう呟くと、深いため息を吐いた。

 この世にいつまでも留まらせず、楽にしてやりたい気持ち。そんな気持ちを持って職務に臨むも、嫌な気持ちになる時がある。死んだことに気づかない霊に酷なことをし、その度に罪悪感を覚えるからだ。

 成仏する際、彼らには辛い記憶が蘇る。自分がどう死んだのか。そして、その時の苦痛もだ。焼死なら全身を炎に包まれ、一酸化炭素中毒死なら苦しんで死ぬといったように。

 榊原はズボンのポケットから、スマホを取り出す。そして、電話履歴の一番上にある番号をタップする。

「…お世話になります。榊原です」

『榊原さん。どうされましたか』

 電話の相手は、松永という男性。電話口の声は、どこか暗い印象を受ける。はっきりと発音しているが、トーンが低いせいで元気がないように感じるからだ。

 仕事で疲れているのか。それとも、これから話す内容に緊張しているのか。そんな不安を抱きながらも、榊原は本題を切り出す。

「今、お時間大丈夫ですか」

『はい、大丈夫です』

「お祓い、完了いたしましたよ」

『…そうですか』

 少しの間を置いて、返事がやってきた。

『…あいつ、小野は最期、どんな顔をしてましたか』

「無念そうでしたよ」

 榊原が澱みなく答える。すると、電話の向こうから、「くっ」と悔しげな声が聞こえた。

『…残業の合間に、タバコ休憩行ってたんです。その時、あいつは仮眠取ってたもんだから、俺一人で行ったんです。でも、あんなことが起きるなんて思いもしませんでした』

「予測できませんよ。2階のメンタルクリニックの患者がとち狂って、焼身自殺を図るなんてね」

 榊原は、苦虫を噛み潰したような表情で返す。思い出すだけでも、嫌な気分になる。

 一年前、連日報道された事件。精神疾患者が錯乱し、ビルに放火したというその事件は、世間に大きな衝撃を与えた。ビルはほぼ全焼し、犯人と他6名が死亡した。うち3名は、2階メンタルクリニックの関係者で焼死。残りの3名は、3階から上の会社で残っていた者たちで、一酸化炭素中毒で死亡した。

 榊原の頭に、一つの疑問が浮かび上がる。そして、それを松永にぶつける。

「松永さん。霊たちにとって、俺はどんな風に見えてるんでしょうかね」

『えっ?』

「毎回、こうやって霊を祓う度に思うんですよ。死んだことに気づかず、いつものように過ごしていたところに何者かがやってきた。そんな奴が、彼らにはどう映ってるのかなって」

『…死神、ですかね』

「死神ですか」

 榊原は思わず、笑みを浮かべた。

「死をもう一度味合わせる点を考えると、それに一番近いですね」

『実際は、どう見えてるんですか』

「分かりませんよ。ただ、聞いてみたくなっただけです」

『そうですか』

「すいません、変な質問で。それでは、失礼します」

『色々とありがとうございました。失礼します』

 別れの挨拶を受け、榊原は通話を切る。そして、スマホをズボンのポケットへしまった。

「帰るか」

 榊原は、背後を振り返る。そこには、開かれたままのドアがある。屋内は電気が点いておらず、真っ暗だ。彼は、持参していた懐中電灯で辺りを照らしながら、館内へ足を踏み入れた。

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解放の時 大成 幸 @sarubobo6

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