「鍵」

 コツン、コツン。死神の足音が聞こえてくる。

 小野と坂本は、3階の踊り場にある女子トイレの中にいた。

 室内の電気は消しているため、ほとんど見えない。しかし、ドアの真ん中にあるすりガラスから光が差し込むため、入り口付近の床や洗面台はわずかに見える。

 小野たちは緊張しながら、時を待つ。上から降りてくる死神が、下の階へ降りて行くのを。

 コツン、コツン。ドアのすりガラスに、人影が浮かぶ。近づいてくる足音と共に、人影が大きくなっていく。

「お願い。このまま通り過ぎて」

 坂本が目を瞑りながら、そう呟く。死神が中に入ってこないか不安でたまらないのだろう。小野も彼女と同じ気持ちを抱きながら、じっと待つ。

 それからしばらく経つと、人影が小さくなっていった。そして、足音も徐々に小さくなっていった。

「良かった。下に行ったみたいですね」

 坂本が安堵のため息を吐く。

「みたいだな。先に出ろ」

 坂本に指示し、ドアをゆっくり開ける。彼女が出たところで、小野も出る。

 開かれたドアが自動的に閉まっていく。枠に戻っていくドアを見た小野は、ドアノブを掴む。このままでは、バタッと大きな音を発してしまう。そうならないように、音を立てずに手動で閉じた。

 音を立てれば、死神に見つかる。音を立てないように、あらゆることに神経を尖らせるのは苦痛でしかない。しかし、小野たちにとって、そうせざるを得ない。見つかれば、苦しみとともに殺されるのだから。


 小野たちは5階に着いてから、屋上のドアの前に立っていた。ここまで死神に見つかることなく、無事に辿り着くことができた。しかし、安心する彼らの前に、新たな問題が立ちはだかっていた。

「いつも開いてるわけじゃないんですね」

 坂本がさも残念そうに呟く。彼女の言うように、屋上のドアは鍵が掛けられているのだ。

「やっぱり、鍵が掛かってるか」

 小野はそう呟くと、ため息を吐いた。

「そう上手くはいかないか。それにしても、こいつは一体、何なんなんだろうな」

 小野は、ドアの上部に目を向ける。そこには、デジタルの掛け時計がある。画面には"10:30"と表示されていて、1秒ずつ減っていっている。

「こんなところに時計なんて変ですね。それに、このカウントは何でしょうか」

 坂本が難しい表情を浮かべる。

「さあな。だが、この時間以内に出ないと、何かが起きるみたいな状況というふうに見えるが」

「制限時間内に脱出…。ゲームみたいですね」

「ゲーム?」

「幽霊、殺人鬼とかがいる建物から脱出する。ホラーゲームでよくある設定ですよ。まあ、制限時間があるのは、あまり見たことがないですけど」

「俺たちは、ゲームの世界に迷い込んじまったってことか?」

「ええっと、それは…。あっ、ドッキリだったりして」

「ドッキリだ?」

 苦笑いを浮かべる坂本に、小野は顔をしかめる。

「奇妙な格好をした人がいる中で制限時間内に出られれば賞金獲得、みたいな?」

「あのな、人を跡形もなく燃やせる奴が人間だと思うか?」

「えっ?もしかして、悲鳴を上げてた男性って」

「あの死神に殺されたんだよ」

 小野の返事に、坂本は目を見開く。

「そんな…。じゃあ、これは何なんですか」

「さあな。仮眠から目覚めたら、こんな状況になってたとしか分からん」

「一体、どうすれば」

 坂本は俯き、口を閉ざした。

 タイマーのカウントは"9:50"。すでに10分を切っている。このまま立ち尽くしていても、しょうがない。そう考えた小野は、坂本に告げる。

「屋上の鍵を取りに行くぞ」

「鍵?」

「ああ。あんたが言ったように、時間内に出れば何か起こるかもしれん」

「それって何ですか」

「そんなの分かんねぇ。だが、このふざけた状況が終わるかもしれねぇだろ?」

「そうならなかったら?」

「その時に考える。それでいいだろ」

 小野の話に、坂本は唖然とする。しかし、数秒の沈黙の後、彼女は真剣な顔つきになる。

「そうですね。ここにいても、いずれはあいつに捕まってしまいますしね」

 坂本の顔に笑みが浮かぶ。彼女の笑みを見た小野も、口角を上げる。

「問題は、鍵がどこにあるかだな」

「一階の管理室にあるんじゃないですか?正面玄関の突き当たり右にある」

「あそこか」

 小野は、難しい表情を浮かべる。彼の表情を見た坂本が、不思議そうに首を傾げる。

「どうしたんですか」

「正面玄関からそこまでの間に、階段があるだろ?そこから死神が降りてきたら、袋のねずみだ」

「確かにそうですね。でも、鍵がありそうなところなんて、そこぐらいしか」

「…そうだな。行くしかない」

 覚悟を決めた小野は、はきはきした声で返事をする。そして、坂本と共に階段を下り始める。


 小野たちは4階で物壁から顔を半分出し、廊下を見ていた。

 そこには、顔を恐怖に歪ませている男性がいる。尻餅を着いたまま、後ろへ下がっていく。そんな彼に、死神が詰め寄っている。

「来るなぁ!」

 男性が制止を呼びかける。しかし、死神は従わない。

 様子を見ている坂本の顔が、強張り始める。

「助けないと」

 坂本が廊下へ足を踏み出そうとする。しかし、小野はすぐさま肩を掴み、引き留めた。そして、目を合わせながら、首を横に振った。彼の意図を理解したのか、坂本は悔やむように目を伏せた。

 目の前に助けを求めている人がいる。助けたい気持ちには駆られるものの、それができない。得体の知れない存在にどう抗えばいいのか分からない。それに、燃やされた男の姿を思い浮かべ、自分もそうなってしまうのではと恐ろしいからだ。

「だから来るなって言ってるだろ!」

「〜〜〜、〜〜〜」

 男性を無視し、死神が呪文を唱え始める。理解不能な言葉を前にして、男性の顔に戸惑いの色が見え始める。すると、突然苦悶の声を漏らし、頭を押さえ始めた。

「頭が…」

「〜〜〜、〜〜〜」

「頭が痛い…。それに苦しい…」

 死神の呪文により、苦しみが増しているようだ。男性の呼吸が荒くなっていき、その場に倒れ込む。

 息ができず、苦しんでいるような様子。その様子を見ている坂本は、目を見開きながら口を手で覆っている。一方の小野は、こんなことを思っていた。

-燃やす以外にも殺す手段があるのか?

「痛い、苦しい…。あれ?何だこれ…」

 男性の表情に変化が起きる。何か忘れていたことを急に思い出したように、驚きの表情を浮かべている。

「そんな…。嫌だ…」

 その言葉と同時に、身体が崩れ始める。まるで、風に吹き飛ばされる砂のように、徐々に崩れていく。

「嫌だ!俺はまだ生きた…」

 男性の言葉が最後まで続くことはなかった。身体が消滅すると、そこには何も残らなかった。

「そんな…」

 坂本は、その場で呆然とする。

「アトフタリ」

 死神の不気味な発言。その発言が、小野の心に引っ掛かる。

「…まさか」

「どうしたんですか」

「…とにかく行こう。そこで話す」

「え?は、はい」

 坂本は納得していないように、眉を顰める。しかし、彼女は理由を尋ねることなく、小野に従う。


 小野たちは1階に着くと、管理室の前に立っていた。

「誰かいますかね」

 坂本は、不安な表情を浮かべながら尋ねる。彼女の質問に、小野は一間を置いて答える。

「なんでそう思うんですか」

 予想外の返事に、坂本は目を見開く。今の一言で、余計に不安になっただろう。しかし、小野は何も言わず、ドアノブを掴んだ。

-頼む。開いてくれ。

 心の中でそう願いながら回す。すると、ドアノブがすんなりと回った。小野は安堵し、ドアを前に押す。

「良かった。開いてましたね」

 坂本は安堵し、口角を上げる。

 坂本が先に入り、小野が入る。小野はドアを閉めると、そこに凭れかかった。

「あの、さっきの話ですけど。どうしたんですか」

「あいつの一言さ」

「一言?」

 坂本が首を傾げる。

「さっき、「あと2人」って言ってたろ?」

「ええ。とても不気味な声でしたけど」

「俺が最初に奴を見た時、人を燃やした直後に「あと3人」って言ったんだ」

「…まさか」

 坂本の目が見開かれていく。反応から見て、彼女はおそらく理解したのだろう。そう感じた小野は、ゆっくりと頷いた。

「そんな!もう私たちしかいないなんて」

「俺だって認めたくねぇよ。それじゃあ、あいつも殺されちまったってことじゃねえか」

「あいつ?」

 坂本の目が瞬く。

「俺の同僚だよ。松永ってやつで、俺と一緒に残業してたんだ」

「先に帰ったんじゃないですか?」

「パソコンが開いたままだった。開いたまま帰るなんてことはしない。それに、鞄も置いたままだった」

「そんな…」

「くそ!」

 小野は、ドアに拳を振り下ろそうとする。しかし、すんでのところで止めた。そんなことをしては、死神に見つかってしまう。

 悲しみと悔しさで胸が苦しくなる。死神に苦しめられて殺される光景に、歯を食いしばる。

 室内に沈黙が流れる。小野は俯いたまま、何も発しない。坂本は、心配するような目つきを彼に向けている。

 しばしの沈黙の後、小野が口を開いた。

「…悲観に暮れている場合じゃない。屋上に出れば何か変わるかもしれない。鍵を探そう」

「…あの、大丈夫ですか」

 そう心配する坂本に対し、小野は顔を上げた。

「正直言えば、大丈夫じゃない。けど、ここで悲しんでてもしょうがない。泣くのはここを出てからにするさ」

 小野は、無理に口角を吊り上げてみせた。心配する坂本を安心させようとしたが、彼女の表情に変化はなかった。彼女は振り返り、鍵を探し始めた。


 気を取り直した彼らは、室内を探索していた。開始してからしばらくすると、机を物色していた坂本が「あっ!」と声を張り上げた。

「もしかして、これですかね?」

 尋ねる坂本に、小野が近づいていく。坂本が開けた引き出しの中に、鍵束が入っている。

「これ、何本もありますよ」

 坂本が鍵束を手に取る。全部で8本あり、それぞれに"1"から"8"と印字されたシールが貼られている。

「どれが屋上のか分かりませんね」

「一つずつ試していけばいいだろ。とにかく、時間がない」

「そうですね」

 坂本は同意を示すと、小野に鍵束を手渡した。彼はそれをズボンのポケットにしまい、ドアへ向かった。


 小野はドアノブを掴み、ゆっくりと回す。ガチャと開錠音が大きく出ないように慎重に回しきると、ドアを前に引いていく。

 徐々に開けていく廊下の景色。その光景に、小野は違和感を覚える。

「こんなに暗かったか?」

 不思議に思いながらも、ドアを開けていく。そして、管理室から顔を覗かせると、彼は驚いた。

「なんだよ、これ」

「どうしたんですか?…えっ?」

 背後にいた坂本が覗き込む。そして、小野と同じ反応をする。

 一階の廊下は電気が点いておらず、真っ暗だった。管理室に来るまでは、点いていたはずなのに。

 小野はズボンのポケットからスマホを取り出し、電源ボタンを押す。画面最下部から上にスクロールすると、懐中電灯のマークが表示される。そのマークを押すと、背後のカメラレンズ付近からライトが出てきた。

 ライトを正面に向ける。照らされた壁は、黒く汚れていた。

「何だよ、これ」

 戸惑う小野は、ライトを上下左右に向けていく。床や壁、天井までもが黒く汚れている。天井に至っては、電球が大きく割れていた。

「なんだか、火事で燃えた家の中みたい」

「火事?まさか、死神の仕業か?」

「どうでしょうかね」

 坂本が自信なさげに答える。

 次から次へと現れる謎の現象。開かない一階のドア、人の命を奪う死神。そして、景色の変化。いつもの光景に、こんなにも変化が起きるなんて恐ろしいものだと小野は実感する。

 真っ暗い廊下の中、ほんの少しだけ明るい箇所がある。そこは、上につながる階段。階上からの明かりがわずかに漏れ出ているのかもしれない。そう考えた小野は、坂本に告げる。

「こんな世界から、さっさとお別れしようぜ」

「そう、ですね」

 坂本が同意を示す。しかし、彼女の表情は強張っていて、返事に戸惑いが見られた。


 小野たちはスマホのライトを頼りに、階段を上っていく。黒く汚れた階段。階段だけでなく、壁一面までもが黒く汚れている。

 足音を立てないように、慎重に上っていく。2階に死神がいるかもしれない。そんな恐怖に抗いながらも、彼らは進み続ける。

 2階に着き、小野は壁に背を預ける。そして、廊下へ顔を半分出し、覗き見る。そこには、誰の姿もない。

「よし。ここにはいない」

「てことは、3階からですね」

 坂本の言葉に、小野は頷く。

「光は4階からみたいだ」

「じゃあ、3階も同じ光景ということですか」

「恐らくな。一体、どうなってるのやら」

「とりあえず行きますか」

「ああ」

 小野が同意を示すと、再び階段を上がり始めた。


 辿り着いた3階も、同じ光景だった。フロア全体が真っ暗で、黒く汚れていた。

 廊下にいる小野は、正面の部屋を見つめる。そこは、彼が勤める会社の事務所で、電気が消えている。室内はどうなっているのか。そう気になった時だった。

「あれ?」

「どうした」

 坂本の異変に気づいた小野が、すぐさま振り返る。彼女は目を伏せたまま、頭を手で抑えている。

「おい。どうしたんだよ」

「何、今の記憶…」

 目を合わせず、質問に答えない。明らかに様子がおかしい。そう判断した小野は、彼女の肩を掴む。

「おい。こっちを見ろ」

「これが本当なら、私たちはもう…」

「おい、聞いてるのか。何があっ…、っ!」

 小野の顔が強張る。坂本の背後に、死神が立っているのに気付いたからだ。

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