解放の時

マツシタ コウキ

「死神」

 息苦しさと頭痛。それに、鉛のように重たく、動かせない身体。

 自身に起きている数々の異常を感じながら、小野和樹おの かずきは仰向けに倒れていた。視界には、雲に半分隠されている月が映っている。

 意識が徐々に遠ざかっていく。視界が狭まっていき、端から徐々に暗くなっていく。

 ウー、カンカンカン。サイレンが響き渡っている。しかし、それはあまりに小さな音だった。よく耳を澄ませないと聞こえないくらいに。

「誰か、助けてくれ…」

 遠ざかっていく意識の中、小野は微かな声で助けを求める。しかし、彼の意識は深い闇へと落ちていった。




「はっ」

 小野は目を開き、頭を上げた。目の前の光景は、今見ていた光景と大きく異なっていた。

 目の前には、大きな白いデスク。その上には、画面が真っ黒いノートパソコン。そして、傍には数枚の書類が乱雑に置かれている。

 目の前の光景は、いつも見慣れた事務所のものだった。それに安堵した小野は、深いため息を吐いた。

「こんな変な夢、久しぶりに見たな」

 そう呟きながら、夢の内容を思い出す。その時に感じた痛みと苦しさ、それに恐怖。まるで、本当に死を感じるほどにリアルな夢だった。

「疲れてるんだな、きっと。はは」

 自身の状況を哀れむように苦笑した。

「そういえば、今何時だろ」

 気になった小野は、目の前のパソコンへ目を向ける。電源ボタンを押すと、真っ黒い画面に浜辺の写真と現在の日時が表示された。


 20:01

 2022/9/16(金)


「30分も寝てたのか」

 小野は、我が目を疑った。想定していた時刻と違っていたからだ。

 彼が勤める会社は、9時出勤の19時退社となっている。いつもなら19時に退社しているが、今日は残業していた。

 毎日行う通常業務の合間に、臨時の業務が入ったせいだ。その処理に追われて片付いたものの、通常業務がまだ残っていた。

 たくさんの業務に追われ、彼は疲弊していた。そこで、19時30分になったところで、10分の仮眠を取ることにした。しかし、10分の予定が20分も伸びてしまっていた。

「帰れんの9時過ぎか」

 小野は困り果て、左手で頭を掻く。

「んー。とりあえず一服してくるか」

 気持ちを切り替えた彼は、ゆっくりと席を立つ。

 その場で背筋を大きく伸ばす。凝り固まった筋肉が少し軽くなったのを感じると、隣の席へ目を向けた。

 その席は、松永まつながという小野の同僚のもの。松永のパソコンの上には、開かれたままのノートパソコンがある。Excelが開かれたままで、画面いっぱいにグラフやらデータが並んでいる。

「あいつもタバコ休憩だろうな」

 松永がどこにいるかは分からない。しかし、退勤しているということはないだろう。シャットダウンしないで帰るなんて、社員としてあり得ないことだからと思ったからだ。

「とりあえず行くか」

 小野は欠伸をすると、事務所を出て行った。


 小野は、怪訝な顔をしていた。目の前にあるドアが開かないことに、疑問を抱いているからだ。

 シャッター脇にあるドア。ケースハンドルを掴み、左に回そうとするも、びくともしない。

 いつもなら、左に回してから押すと、開けるはずだ。しかし、今回はどういうわけか、それができない。

「んだよ、一服くらいさせろっての」

 小野は苛立ち、ドアに文句をぶつける。

 彼がいるのは、5階建てのビル。このビルの1階にある正面玄関は、20時を過ぎるとシャッターが下ろされ、出入りができなくなる。だから、裏口にあるシャッター脇のドアが、もう一つの出入り口となっている。

「はあー、めんどくせぇ」

 小野は、深いため息を吐く。外に出られないことに加え、タバコが吸えないことに気分が落ち込む。その時だった。 

「あああああ!!」

「…えっ?」

 突然の悲鳴に、小野は唖然とする。心臓の鼓動が速まっていくのを感じながら振り返る。

 一体、何があったのか。気になった彼は、階段へ向かい始める。

 

 ドクン、ドクン。激しく脈打つ鼓動。さらに押し寄せてくる恐怖を感じながら、階段を上っていく。

 階段を上り終え、2階に着く。そして、左側にある廊下へ目を向ける。目を向けた正面に、明かりが点いている部屋がある。

「確か、メンタルクリニックだったよな。まだやってたん…」

「止めろぉ!!止め…、あああああ!!」

「えっ?」

 正面からの悲鳴に、小野は唖然とする。すると、部屋のドアが勢いよく開かれた。開かれたと同時に、彼は恐ろしいものを目の当たりにした。

「あああ!!熱いぃぃぃ!!」

「うあああ!!」

 部屋から出てきたのは、全身を炎に包まれ叫ぶ男。小野は驚きのあまり、大声を上げながら階段の踏み板に尻餅を着いた。

 火だるまになりながら叫び続ける人。フィクションの世界でしか見たことのない光景は、小野に身体が震えるほどの恐怖を与えた。

「何なんだよ。…っ!」

 男の背後にいる何かに気づく。それは人の姿をしているものの、異様な外見だった。

 全身を覆う黒いローブ。フードの下に隠れた骸骨の仮面。左手には、懐中電灯が握られている。

 "死神"。外見から真っ先に連想されたのは、その単語だった。黒いローブを身に纏う骸骨を見れば、きっと誰もがそう思うだろう。

 死神は、火だるまの男を見下ろしている。すると、両手を胸の前で重ね合わせる。

「〜〜〜、〜〜〜」

 死神が何かを唱え始める。しかし、それは理解できないものだった。

「何言ってんだ、あいつ」

「あああああ!!」

 男を包む炎が大きくなっていく。それに比例するように、男の悲鳴も大きくなっていく。

「熱いぃぃぃ!!助けてぇぇぇ!!…あれ?なんだ、これは…」

「は?」

 意味深な発言に、小野は目を丸くする。焼かれる痛みと恐怖で、おかしくなってしまったのだろうか。

「そうか、俺は…」

 男の言葉が途切れる。すると、彼の全身が砂のように崩れて去って行った。

 消え去った男の元には、炎はおろか焼け跡すらも残っていない。まるで、最初から何もなかったかのように。

 死神の目が小野に向く。そして、ゆっくりと近づいてくる。 

「アトサンニン」

 ノイズのかかった不気味な声。両手を胸の前に合わせたのを見た小野は、すぐさま立ち上がる。

-逃げろ!

 脳内で、アラームが発せられる。そして、彼は階段を駆け上がり始める。


 バタバタと大きな音を立てながら、上って行く。振り返ることなく、ただひたすらに上り続ける。

 どこに逃げればいいのかなんて分からない。しかし、小野はそれでも逃げ続ける。捕まれば殺されると分かっているからだ。

 息が上がりながらも、4階の踊り場に辿り着く。小野は足を止め、耳を澄ませる。下から、コツン、コツンと革靴で上がってくる足音が聞こえてくる。死神はどうやら、ゆっくりと上ってきているようだ。

 小野は、5階へ上がろうとする。しかし、小野は足をピタリと止めた。彼の頭に、ある考えが浮かんできたからだ。

-5階に着いたら、もう逃げ場なんてないじゃないか。

 一気に不安が押し寄せてくる。なら、どうすればいい。ここはすでに4階。今更降りたところで、下にいる死神に殺される。

 この状況を打開する方法を必死に考える。しかし、何も浮かんでこない。

 コツン、コツン。死神の足音がタイムリミットのように聞こえ、焦り始める。

-何か打開できるものは。

 小野は、4階の廊下へ足を踏み入れる。廊下の左側には、明かりが点いている部屋。反対の右側には、扉の無い給湯室がある。そこには洗面台があり、奥の壁との間に人一人が隠れられるスペースがある。

 今いるフロアを確認したところで、小野は洗面台を見る。そして、反対にある部屋へ視線を変える。しばらくして、一つの考えが浮かび上がった。

-あそこに隠れて、気づかれないように背後から逃げれば。

 思い立った小野はすぐさま、洗面台の真横に向かい、座り込む。

 コツン、コツン。死神の足音が近づいてくる。音が近づいてくるにつれ、恐怖が大きくなっていく。

 コツン、コツン。足音が大きく聞こえてくる。それは、すぐ近くを歩いていると感じるくらいのものだった。しかし、次の足音が鳴ることはなかった。

-ここにいると気付いたのか?

 小野がそう考えた時だった。足音が再び鳴り始める。そして、左側の廊下から人影が差し込んでくる。

-そのまま中に入ってくれ!

 歯を食いしばりながら、ひたすら願う。

 コツン、コツン。間近からの足音を耳にしながら、人影を目で追っていく。すると、視界の左上から、死神の足元が入り込んできた。

「っ!」

 悲鳴が思わず、漏れ出そうになる。しかし、瞬時に片手で口を抑え、阻止した。

 死神は、明かりが点いている部屋の前に立つ。ドアノブを掴み、ゆっくりと回す。そして、ドアを前に押すと、部屋の中に入って行った。

 バタン。ドアの閉じる音を聞いた小野は、四つん這いの姿勢を取る。

 給湯室を出て、突き当たりの左にある階段。そこを目指して、小野は進み始める。

 死神がドアの隙間からこちらを見ているかもしれない。そんな恐怖が襲いかかってくる。しかし、彼は手と足を止めることなく、進み続ける。そして、階段まで辿り着いた。

「はあー」

 小野は小さな声で、安堵のため息を吐いた。

 死神の追跡から逃れることはできた。しかし、まだ油断はできない。この先、どうするか考えなくてはいけない。

-とにかく、下に降りよう。

 死神がいる階にはいたくない。そう思った小野は立ち上がり、階下へ降りようとする。その時だった。

 ギィという不気味な音。その音は、目の前にある踊り場の女子トイレからだった。

 突然の物音に、小野は肩をびくっと震わせる。そのまま立ち尽くしていると、ドアがゆっくり開かれていく。そして、中から一人の女性が現れた。

 眉を八の字にしているその女性は、辺りを見渡している。そして、階段を上がった先にいる小野と目が合うと、身体をビクッと震わせた。

 大きく開かれた目が、小野を見つめる。互いに何も発せず、沈黙が流れる。

 それから数秒経つと、彼女の強張った表情が和いだ。

「良かったぁ。まだ誰かいたんだ」

「しー」

 囁くような小さな声。小野は人差し指を自分の唇に当て、注意を呼びかける。

 女性は、不思議そうに眉を顰める。しかし、彼女は理解したように目と口を大きく開き、ゆっくりと頷いた。

 小野は3階踊り場へと降り、女性の前に立つ。

「あの。私、坂本と言います。このビルの4階にある事務所で働いています」

 こそこそと話すような小さな声で、自己紹介をする。

「俺は小野。3階の事務所で働いてる」

 小野も小さな声で自己紹介を済ませる。

「それで、小野さん。あの化け物はどこにいるんですか」

「化け物?黒いローブを着た骸骨のことか?」

「そうです」

「あんたも見たんだな」

 小野の確認に、彼女はゆっくりと頷いた。

「トイレに行ってたんです。用を済ませて出ようとしたら、あれが階段を降りて行くところを見かけて。すぐさまドアを閉めて、しばらくしてから男性の悲鳴が聞こえて、怖くなったんです」

「それで、トイレの中に篭ってたってわけか」

 彼女は目を伏せたまま、ゆっくりと頷く。

「ここで一体、何が起きてるんですか」

「分からん。奴が突然現れた、それだけのことだ。とにかく、場所を変えるぞ」

「どこに行くんですか」

「屋上だ」

 小野は真上を見上げる。坂本も彼に釣られ、真上を見上げる。

「屋上?一階から出ればいいじゃないですか」

「一階からは出られない」

「えっ?」

 坂本は唖然とし、口を半開きにする。

「正面玄関はシャッターが閉まってるし、裏口はびくともしないんだよ」

「そんな…」

「外に通じているのは屋上しかない。とにかく、奴に見つからないように行くぞ」

 小野は彼女の反応を窺う。しかし、彼女の顔は青ざめている。それもそうだろう。外に出られないと聞けば、誰でもそんな顔をするだろうから。

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