彼の飛行は非常に緩やかで、落ち着いていた。ぼくはもっと不安定で、恐怖に駆られるようなものと思っていたのだが、それは人の目につかない彼方の上空へと翔ぶ、最初の時だけで、それからは雲と会話をするように、緩やかな飛行を続けている。

 ぼくらは数百メートルは上の、人目につかない大きな雲の間にいて、彼は風を縫うようにして、時折身を捻りながら、心地良さそうに空を泳いでいた。

 暫くそうしていると、大海原がやがて、雲間の先に見えるようになった。

 巨大な積乱雲を横目にしながら、彼はそれを悠々と通り抜けて、海のパノラマが一望できる場所で、やがて体を止めた。

 彼の首は、目の前の景色を見るために、微かに持ち上げられている。その時、ぼくの顔との距離が、少し近くなった。

 この高さだと、風や、雲が抱く雷鳴の気配以外に、何も聴こえてはこない。

 ぼくは彼の顔を見る。

 翠色の大きな瞳が、空の色を反射して、今は海原のような美しい蒼色に染められている。彼の瞳は、だが非常に寂しげにぼくには見えた。

 ぼくは言った。

「どうして、言わなかったんだ?」

 彼はすぐには応えなかった。

 風と夏の時間だけが、サラサラと後ろへ流れていく。靴下を剥き出しにした足が、少しずつ冷えていくのをぼくは感じる。

 沈黙に耐えかねたのか、やがて彼は言った。

(その勇気がなかったんだ。僕には。でも、今はちがう)

 風が、彼の言葉を攫っていく。時はそれを吸い込んで、静かに記憶の結晶に変えるのだった。

 ぼくはからかうような声を努めて出した。

「まあ、こんな状況なら、隠すものも隠せないしな」

 陽は少しずつ傾いていた。水平線に、夕方の太陽が茜色を差し込ませ始めている。先にある一日の終わり、そしてその先にある、夏の終わりへとその色の流れは続いている。

「ぼくは」と、唾を飲み込みながら、ぼくは言った。彼の瞳が一瞬、跳ねるように動いた気がした。

 ぼくは言う。

「ぼくは、お前が違うクラスだったころ、自分が大好きだった物のせいで、酷いいじめを受けたんだ。……誰も助けてはくれなかった」

 一時、静寂が流れ、やがて

(うん)と彼は言った。

(それで?)

「それで」と、舌を湿らせながら僕は続ける。

「それで、このままじゃとてもじゃないが、これ以上自分の事が守れないなと思ったんだ。だから、これからは「ぼく」じゃなくて、人前では『俺』にすることにしたんだ。格好悪いだろう? 人前では、大好きだったファンタジー小説も広げなくなった。そんな事をしてると、目をつけられるから。……本当に、不本意ながらね」

 彼は頷くように、瞳を一度大きく瞬かせる。それから、囁くようにこう言った。

(不本意ながら)

 ぼくは答える。自分へも向けて。

「でも、それも今日でおしまいにするよ」

(それで本当にいいのかい)

 ぼくは彼の背中を叩いて、笑った。

「お前の背中に乗ってると、なんか、まあ、色々どうでもよくなった気がするんだ……。これからは、お前の言う通り、「ぼく」に戻すかなって。……お前も、そっちの方が似合うって言うんだろう?」

 彼が大きく目を見開いた。そんな気がした。微かに、小さく唸るような、咆哮も聞こえた気がする。

 やがて、声が聞こえる。

(ああ! 僕はそういうゆいとの方が、ずっと好きだよ!)

 思わずぼくは笑った。

「ああ、そうだろうな。そう言うとぼくは思ってたよ」


 それから、彼とぼくは夏休み中、ほぼ毎日、一緒にいた。

 ぼくは彼の話を聴くのが好きで、彼は本当に色々な物語を知っていた。その中にはぼくの愛する小説の内容もいくつか含まれていて、その事実が分かったときには、お互いに大声で笑い合った。

 夏休みが終盤に近づくにつれ、彼はいつしか、『アラルカ島』という龍の島について話をするようになった。それは人間には決して訪れることが出来ない、龍と龍族だけの島らしい。彼も一度だけ過去に行ったことがあるらしいのだが、どうも記憶はあまり残っていないらしい。

 それから、中学生らしく、好きな異性の話をしたり、将来の夢の話などをした。

 それは非常に幸福な時間だった。

 そして、秋に入る。セミは鳴り終わり、新学期を迎えた朝、ぼくは起きて、自分が涙を流していることを悟る。

 そして、彼がこの世界からいなくなった事を知る。

 身を起こすと、掌の中に、何かの感触があった。あの日の手紙のような、彼の柔らかい鱗が一枚だけ、朝の陽の光を受け桃色に輝いている。

 そしてそれ以外に、彼がこちら側の「現実」に残していった物は、何もなかった。

 彼がいた筈の机は知らぬ間に消え、代わりに知らない誰かが、何食わぬ顔で座っている。

 彼のいた館は、一夜のうちに嵐で吹き飛ばされたかのように、全く跡形もなかった。元々そんな場所には何もなかったかのように。その跡地には既に、雑草まで生えてきていた。

 ぼくはそれでも、たまに、あの校舎裏の水飲み場まで、一人足を運ぶ。

 そして、大事に持っている彼の柔らかな桃色に光る鱗を優しく握りながら、彼の事を、彼の美しい翠色の瞳や、声の事を思い出す。

 そして、別のぼくはこうも思っている。

 ぼくはきっと、アラルカ島に行くだろう、と。

 ぼくが『彼の住む現実』に相応しい人間であり続けられさえすれば、あるいはまた、彼が言った『現実』の事さえ忘れてしまわなければ、ぼくはいつか自分一人でも、アラルカ島を訪れることが出来るだろう、と。

 きっとそこには、まだ彼がいる。

 そこにぼくは行くだろう。

 彼との夏は、まだ終わってなど、いないのだから。





Fin

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龍の落とし子 パラークシ @pallahaxi

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