ほの暗い海に消えた
棚霧書生
ほの暗い海に消えた
花嫁さまがいなくなった。この港町で一番のお金持ちである貿易商の一人息子、フィリップさまの花嫁さまが挙式直前に姿を消したとのうわさで町は大騒ぎだった。
私はこの事件に驚きはしたが、正直な話どうでもいいと思っていた。誰と誰が結婚しようとしまいと船の荷下ろしをする下働きの私には関係がないと思った。だけど、多くの人にとってはそうではないらしい。噴水のある広場では「麗しき花嫁の失踪事件!!」と大見出しをつけられた号外が飛ぶように売れていた。こんなに町中で騒ぎ立ててはフィリップさまにご迷惑だろう。ご成婚を祝したお祭りが開かれる予定がなくなり、商売のチャンスを逃したと思う者や、お祭り自体を楽しみにしていて、それがなくなったことに落胆する者の気持ちはまあまだわかる。だが、花嫁さまがいなくなったことにかこつけてフィリップさまのことをよく知りもしないのに、その御心を想像して悲しんだり花嫁さまに対して怒ったりするのはなんだか出過ぎた真似をしているような図々しさを感じてしまう。町のほとんどの人たちはフィリップさまの親戚でも友人でもないだろうに。世間話は元々そんなに得意ではないが今日のは特にダメだった。仕事場である船着き場から自宅までの帰り道に昼間耳にした町の人々の言葉をふと思い出す。
お可哀想にねぇ。きっとなにかご事情があったに違いないわ。花嫁に逃げられるなんてフィリップさまに問題があったのかも。いえいえ花嫁さまがマリッジブルーを起こしただけよ。失踪事件じゃなくてこれは誘拐だよ、花嫁は悪党にさらわれたんだ!
自分の生活に直接関係がないことに議論の時間をさけることはいいことかもしれない。今日明日の生活のことで頭がいっぱいになってはいないということだから。誰かと話すという行為は一種の娯楽、無料でできる贅沢みたいなものかもしれない。会話はキャッチボールなんて、よく聞くたとえだけれど、そのボールにフィリップさまと花嫁さまのことを選ぶのはよろしくはないんじゃないか。なんて考えてしまう自分も結局、花嫁さまのことを気にしているみたいで嫌になってくる。
なにも知らない顔をしていたい。人の会話がよくわからない年頃の子どものように小首をかしげていたい。いや、本当は子どもの時分にだってわかっていなかったわけでもない気がするのだけど、わからないふりが無条件で許されるのだから大人よりもよっぽどいい。
でも、私はもう子どもではない。ため息の似合う立派な大人だ。
自虐的な思考にとっぷりと絡みとられて、昼間の労働で疲れきった体をベッドに横たえても、頭が働き続けてしまい眠気が一向にやってこない。
さざなみの音が鼓膜を撫でている。私は寝ることを一旦諦めて外に出た。海に慰めてもらおうと思ったのだ。毎朝、働きに行くために通る道も夜に歩くと趣が違って見える。誰もいない、私のためだけにある夜道。気持ちのいい海風も柔らかな月明かりもぜんぶ私のものだと思うと私は私自身が世界で一番恵まれている人間であると一瞬だけ勘違いできた。
揚々たる気分で海辺の船着き場に着いたとき、私はそこにある異物を見つけて声を出してしまった。桟橋の端っこに白いなにかがいるのだ。最初は船に積み忘れた荷物かと思ったが、あれは人の形をしている。それもよくよく見れば白く見えるのはウエディングドレスではないか。
脳裏によぎるのは町で散々うわさになっていた花嫁さまのこと。桟橋に腰かける彼女の背後に近づき声をかけようとして、ハッと思い留まる。私はこの女性に声をかけてどうしようというのだろう。もしも彼女がフィリップさまの花嫁さま本人だとしたら、ちゃんとフィリップさまのもとに戻って結婚しろというのか。しかし、私は彼女にああしろこうしろと指図する立場にはない。そんなことをしたら、他人の結婚にとやかく言う失礼なやつになってしまう。
では、彼女が花嫁さまではなかったらどうだろうか。それは、とても怖い。真夜中にウエディングドレスを着て、桟橋にいるなんて変な人に違いない。変な人であればまだいいが、幽霊……なんてこともあるのかもしれない。
なにも聞かず、なにも見なかったことにして帰ってしまおう。そうすることが私にとって一番いいことだ。踵を返そうとしたとき一際大きな波が私たちのいる桟橋に打ち寄せた。頬にぴしゃっと海水が跳ねる。反射で目をつぶって、次にまぶたを開いたときには、振り向いた彼女としっかりと目があっていた。
「あっ……そこ、濡れませんか……?」
彼女の大きな黒い瞳に圧倒されて私はつい当たり障りのない言葉を投げかけていた。
「濡れてもかまいませんの」
大人びて落ち着いた声は凪いだ海のようだった。静かなのにどこかゾッとするような不思議な声。私は早くもこの謎の女性に恐怖を抱いていた。けれど、こちらから話しかけてしまった手前、即座に背中を向けて逃げるわけにもいかない。
「こんな時間にレディがお一人でなにをしているのですか……?」
「あなたもご存知でしょう。逃げてきたのですよ、フィリップさまとの結婚から」
「ええ……ああ、いや……知っているというほどでは……」
やはりこの人はフィリップさまに嫁ぐはずの花嫁さまらしい。幽霊ではなかったことに私は少しホッとした。しかし、異常な状況であることは変わりない。なぜ彼女はお供の一人もつけずに夜の海になんて来たのだろう。
「あら、あたくしを知らないということはあなたはこの町の人間ではないのかしら?」
「いえ、生まれも育ちもこの港町ですよ。その……私は世間に疎くて……すみません」
「お謝りにならないで。あたくしのことを知らなくったって、なにも問題ございませんもの」
彼女は気を悪くしたふうでもなく、にこりと微笑んだ。とても美しい。さすがフィリップさまに選ばれるだけある可愛らしい女性だと私は感じた。
「あの、もっと陸のほうで話しませんか。ドレスの裾が海水で汚れてしまいます」
「先ほども申しましたがあたくしは濡れてもかまいませんのよ。それに陸には戻りたくありませんの」
彼女にはっきりとそう返されて私は困ってしまう。桟橋の端っこにいつまでいるつもりなんだろうか。陽が昇るのはまだまだ先だ。長時間、夜風に当たるのは彼女の華奢な体にはよくないのではないか。
「風邪をひいてしまいます……大事なお体ですから大切になさったほうが…………」
「それはどういう意味かしらね?」
「えっと……」
「体が大事かどうかはあたくしが決めますわ」
「ええ……いやでも……」
彼女が風邪をひいたらフィリップさまは心配なさるだろう。彼女のご両親とかご友人とか近しい人たちもきっとそう。だけど彼女の体は彼女のものなので、どのように扱うのかは彼女自身が決めるという言い分も一理ある気もする。でも、それで本当に風邪をひいたら結局誰かに心配させることになるだろうから、彼女の発言には一種のわがままを感じるし馬鹿らしいとすら思ってしまう。
「私が嫌なんですよ。あなたに風邪を引かせてしまったらと考えてしまうもので。どうか私のためにこちらへ来てもらえませんか」
「あなたって、ちょっとずるいお人ね」
「そうでしょうか?」
「ここであたくしがあなたの言うことを聞かなければ、自分のことしか考えていないわがまま娘のようじゃない」
「いえいえ、そのようなことはございません」
「あら……。それならば、私はここを動きませんわ。あなたに最初に申し上げたとおりに」
「えっ!?」
うろたえる私をよそに彼女はいたずらっ子のように笑っている。ザパンと高い波が打ちつけ、花嫁さまの頬に水滴が飛んだ。彼女は白い手袋をした手でそれを拭う。
「かわりにあなたがこちらへいらして?」
「えっ……」
私のようなものがフィリップさまの花嫁となる女性のお近くに寄ってもいいのだろか。彼女は自分の座っているすぐ隣を手で叩いている。ここに座れ、という意味だろう。しかし、彼女の隣に座ってしまえば、傍からみるとまるで彼女と私が仲が良いように見えてしまうかもしれない。誰かに見られでもしたら、あらぬ疑いをかけられるのではないだろうか。たとえば誘拐犯だとか……。
「難しい顔をして、どうかなさいました?」
「いえ……考え事を……お隣失礼します」
私が彼女の頼みを断るほうがあとあと問題になるかもしれない。うちの荷下ろしの依頼の半分はフィリップさまのところから受けていると仕事仲間から聞いたことがある。私は彼女に名乗ってもいないし、身分を明かしてもいないから考えすぎといえば考えすぎかもしれないが、この街でこれからも生きていくうえで彼女に悪印象を持たれるのは得策ではない。
私はそんな小さいことで頭をいっぱいにしながら、彼女の座るすぐ横に腰かけ、とんでもない違和感に気づく。
「花嫁さま……足が、それは、どうなっているんですか……?」
「ふふふ。わたくしのこれは生まれつきですのよ。フィリップさまにも見せたことはないのだけれど」
彼女には足がなかった。ウエディングドレスの裾からのぞくのは二本の足ではなく、魚の尾ひれのようなものだった。大雨が降った翌日の晴れた空みたいに真っ青な鱗が美しい配列で並んでいる。
「人魚?」
思わず口をついて出たのは童話でしか聞いたことがない存在の名称。
「あら、よくご存知ね。人魚に会うのは初めてではないのかしら」
「初めて見ましたよ! いや、そんなことよりも花嫁さまが人魚とは一体どういうことなのですか!?」
波が打ちつける音や海風の通り抜ける感触もわからなくなるくらい私は混乱していた。フィリップさまの結婚相手が人間ではないなんて、あまりの驚きに声が大きくなってしまう。
「陸に憧れる人魚は案外多いものなのですわ」
彼女の瞳が遠くを見つめている。視線は交わらない。
「童話の人魚姫のようにあなたは陸に上がってきた人魚ということですか?」
「あたくしは姫と名乗れる身分ではありませんが、おおむねの理解はそれでよろしいかと思いますわ」
「フィリップさまはこのことを?」
「知りませんわ。ずっと人間のふりをしていましたから」
私が彼女にかける言葉として適切なものはなんなのだろう。彼女の横顔からはなんの感情も読み取れない。悲しんでいるのか、寂しがっているのか、それとも怒っていたりするんだろうか。わからない、なにもわからなくて怖い。人魚の心が人間と同じようなものであるのかも私には判断がつかない。
「フィリップさまとの結婚はどうなるんですか?」
彼女は私の問いになかなか答えようとしなかった。暗い夜が彼女の輪郭をぼやけさせている。沈黙の中にいると自分は夢を見ている最中なのではないかと思い始める。昼間にフィリップさまの花嫁さまのうわさを聞きすぎて、変な夢を見ているんじゃないかと。
「あたくしはフィリップさまを愛しています。それは嘘偽りのない本心です」
彼女の声は凛としている。涙でにじんでもいない、淡々としたものだった。
「けれど、あたくしはさようならを選択したのです」
「そうですか」
私は彼女になにか尋ねるべきなのかもしれない。愛してるのに別れるってどうしてなのかとか、人間と人魚が寄り添うのは難しいということなのか、彼女がどうしてそういう選択をするに至ったのかを聞くなら今しかないのだろう。だけど、私はやっぱり口を開かないままでいた。少なくとも私からは聞いてはいけないと思った。
「最後にあったのがあなたでよかったですわ。静かな月のようなお方、おかげで穏やかな気持ちで海に帰れそうですわ」
「本当に行ってしまわれるのですね……」
「ええ、もう決めたことですから」
辺りが明るくなり始めている。もうまもなく日の出の時間だ。
「良い夜でしたわ! さようなら!」
彼女の決意が陸に海に響いていく。太陽が顔をのぞかせる直前、彼女は海に飛び込んだ。
海面には白いウエディングドレスだけが残されクラゲのように所在なさげにぷかぷかと浮いていた。
終わり
ほの暗い海に消えた 棚霧書生 @katagiri_8
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