月下美人と月下美人

壬生諦

2023年9月29日(金)

 難攻不落のモラルにより認められないことだが、私は男子生徒に恋をしてしまったようだ。

 大学を出てすぐ教職に就き、教員不足の事情から1年目にして一クラスを受け持つまでに至ったこの星史乃ほしふみのにイケない想いが芽生えている。

 晩冬どころかつい最近まで残っていた学生気分も、喧嘩別れした元カレとの未練も、夏休みが明けた頃には流石に過去の思い出と化した。これでいよいよ私も社会の歯車かぁ……なんて、モノクロの未来を憂いていると、その次には彼の微笑みが脳裏をよぎり胸が苦しくなるなんてサイクルをこの頃は毎日繰り返している。

 彼、中里然なかざとぜんは私が担当する1年A組の生徒。

 女生徒の視線を奪う甘いマスクに、令和の野球部員らしい爽やかな整髪と達観した振る舞い。加えて男女・生徒教員問わず各々に適切なコミュニケーションを取れる処世術に長けたものだから、入学から半年も経たないこの秋口にはみんなから一目置かれる存在になっていた。

 彼と同じ野球部の3年生、来月行われるプロ野球ドラフト会議で1位指名が確約されていると噂の坂部さかべ君に次ぐ話題性と言えばその逸材ぶりがご理解いただけるはず。先生方が彼との交流を自慢げに話し、中里君のいるクラスは愉快そうだと羨ましがられることもある。

 逆に坂部君のクラス担任は世間のプレッシャーを一身に受けるため相当堪えるらしい。彼が1年生の頃から担任を務める重松しげまつ先生は2年前までフサフサだったという髪が今や……。

 坂部君が県の星なら、中里君は学園のアイドルと言ったところ。

 よりにもよって、我が恋心はそんな近づく隙すら滅多にないタレントへと向いてしまったのだから難儀な事この上ない。

 

 いつもの1年A組を相手に現代文の授業中。梶井基次郎かじいもとじろうの『檸檬』を生徒たちが順に読み進めていく。くじ引きでランダムに決まる席替えにより、中里君の席は窓際の前から2番目となっている。前席の女生徒からバトンを受けて起立し、続きを音読し始めた。

『檸檬』というと、楽曲の『Lemon』が連想される時代になった。だから、次回からこの小説を紐解いていくと伝えた際の生徒たちの反応は予想通りだった。

 本校は文武両道を疎かにさえしなければ染髪も認められるほどの自由と個性を尊重する進学校だ。坂部君は異例だけど……。

 特に2・3年生は難なく追試を逃れ、部活動でも結果を残し、遠慮なく制服コーデをイジる生徒が多い。

 勉学と部活動の両成績を全体的に飛躍させたこのやり方は非常に素晴らしいものだと私も感心している。教員も密かにオシャレできる空気だし……。

 ただし、まだ1年生の彼らは殻を破ることができず、真面目な一生徒を演じ続けている者がほとんど。私よりみんなの方がよっぽど大人だと感じる瞬間が多々あるため、人気コンテンツに反応を示す様子などは年相応で、煩わしいなど思いもしなかった。

 しかし、中里君だけはクラスの盛り上がりについて行けず、キョロキョロと首を動かしながら困惑していたのを覚えている。知らないのだろうか……『Lemon』を。

 これまでにも何度かその片鱗を垣間見ることがあったが、どうやら中里君は世間のトレンドや若者ウケの良いネタにあまり関心がないらしい。

 この教室内に限った対応かもしれないが、彼は基本的に他者が持ってきた話題を広げることに徹するばかりで自ら話題を発信する様子が見受けられない。

 聞き上手の中里君にみんなが好感を持つのは当然のことだが、おかげで九月も終わるというのに彼の趣味・嗜好は謎のままなのだ。

 私は彼のことを全然知らない。

 大学時代に付き合っていた元カレとはサークルもゼミも一緒で、交際前からお互いのことをよく知っていたから苦労はなかった。もっとも、分かり合えていたのは表向きの好都合な彼とだけだったけど。

 彼は私に内緒で別の女性と結婚前提の交際をしており、私はそのスペアか味変くらいの扱いでしかなかったなんて散々な結果に終わったが、それでも交際自体は苦痛ではなかった。

 それに比べて、現在の標的は自分が担当するクラスメイトに在籍する高校1年生ときた。

 中里君の誕生日は四月。まだ教室の空気が重く、私も初任でいきなり一クラスを預かるなんて重責に心底臆していた中、彼がクラスで認められていくスピードだけが迅速かつ円滑だった。

 出会って間もないクラスの女生徒たちから沢山の誕生日プレゼントを貰い、困惑した様子でカバンやロッカーにプレゼントを詰め込んでいた光景を教卓から眺めていた。

 まだ十六歳かぁ……。私も二十三歳になったから、彼とは七つの年の差がある。教師と生徒の境界線を乗り越えたとしても、次の山が聳えて待っているわけだ。

 指示した範囲を中里君が読み終えると、後ろに座る彼の親友にバトンを託して着席した。文字数により延長もあるが、基本は一人につき5行分読んでもらうことにしてある。緊張してやり辛いと嘆く生徒もいる中で彼はいつもミスなく流暢に読み切るのだった。

 彼の成績は学年全体でも中位だが、余裕の佇まいから女子たちが勘違いをして勉強を教えてほしいとアプローチの口実に利用してくるなんて事もあるそうな。進級後、教本を抱えた後輩の女子たちに囲まれる彼の姿は想像に難くない。

 つまり、私には時間がない。彼が卒業した後なら遠慮なくイケるとか悠長に構えていてはきっと誰かに奪われてしまう。彼だって、その方が安全に違いないのだから……。

「私、中里君に相応しくないわ」

 授業後、黒板に記した『檸檬』の要点をクリーナーで削除しながら呟いた。


「星先生、上がり?」

 時刻は十九時。今週中にクリアすべきタスクを片付けて帰り支度を始めたところ、隣の重松先生がその様子に気付いて声を掛けてきた。

 重松先生は本校のベテランながら新任の私にも親切で頼もしい存在なのだが、週のラストスパートをかけるこの時間は疲労困憊により決まって妖怪染みた形相と化けてしまう。つい引きつった笑みで応じてしまった。

「は、はい。キリがいいので。あとはうちの部長が鍵を返すのを確認しないとですね」

つばさか。あいつ、彼氏ができたとか何とかでこの時間まで残るようになったな。2年の頃は帰りのホームルームが終わるとすぐ下校していたくせに」

「彼氏ですか?なるほど、その彼の部活が終わるまでの時間潰しに茶室を使ってるわけかぁ」

 翼さん。私が顧問を務める茶道部の部長で、坂部君と同じく重松先生の生徒。茶道のイメージとは程遠い金髪のショートヘアーで、明るく親しみやすい女の子だが、彼女の学力は3年生の中でもトップレベルのため信用されている。

 また、誰もが振り返る凛とした顔立ちとモデル体型の持ち主でもあるため、数多の男子を無自覚で魅了する高嶺の花でもある。翼さんは彼氏を作らないタイプだなんて根も葉もない噂が蔓延るおかげで男子たちは玉砕を免れてきたわけだが、やはり選ばれし人間とはやることをやっているようだ。

「全くけしからんですねぇ。面倒なことにならなきゃいいけど」

「面倒なことって何です?」

「何って……星先生には言いにくいですけど、若い過ちというか、世間体を顧みない行いというか……」

「はあ……?」

「いや、すまない。引き止めるような形になったね。鍵の返却は私が確認しておくから、構わず上がりなさい」

「はい、ありがとうございますー……」

 始めと同じく苦笑いで重松先生と別れ、残る先生方にも挨拶を済ませて職員室を出た。

「あっ、忘れ物」

 そのタイミングで女生徒から貰ったうさぎ饅頭を教卓に入れっ放しだったことを思い出し、1年A組の教室へ向かった。

 

 廊下は消灯済みでも誘導灯や消火栓のランプを頼りに教室へ辿り着けるはず。

 そう思い込んでいたから意外にも視界良好で驚いた。その理由は、窓の外を一見すれば明らかなことだった。

「綺麗……」

 月。不惑にして不敵の頂点。全人類が平等に憧れ、崇め、見上げる夜の宝玉が……今夜は一段と輝きを増して君臨していた。

 月の美学になど精通していない私がこれほど虜になるなんてよっぽどだ。誰しもへ平等に与えられる天の恵みで心が満たされるならば、これから行き着く場所でいつも会う彼の輝きも、きっと見過ごすことができるはず。

 どうせ届かない想いなら、いっそ手の届かない『遠く』まで飛んでいってしまえ。


 瞳を潤ませながら夜の1年A組に来た。月明かりがあるとはいえ教卓の中に手を入れるには心許ないと思い、おもむろに教室の灯りを点ける。

「あっ」

「え?」

 誰もいないはずの教室から声がした。本来なら仰天する場面かもしれないが、そうはならなかった。

 ……だって、期待していたから。

 窓際の前から2番目の席。自分の机に腰を下ろし、夜空を見つめる男の子がいた。

「中里君」

 いつもの微笑みを私へ向ける彼。いつもより美しいと感じる月を背景に、いつも通りの美貌を誇るこの偶像こそ正に……。

「どうしてこんな時間――」

「先生、電気消してみて」

 言葉を遮られたが不満はない。それよりも今は、彼を夢中にしているものが何なのかを知りたかった。

「月、凄くないですか?」

「……そうね。十五夜、大成功」

 暗い教室で彼と並び、月を見ていた。沈黙が続いたが苦ではない。やっと二人になれたからだ。

 彼の方はどうだろう?教師と一緒より、一人きりでこの満月を堪能したかっただろうか?

 直接聞くのを怖れた私は、別の話題でこの奇跡を繋いだ。

「中里君、どうして教室にいるの?部活は終わったみたいだけど……」

 部活終わりだというのに運動部らしい汗臭さ、野球部らしい泥臭さは微塵も感じられない。それは彼が特殊だからではなく、単に部室棟でシャワーを浴びてきた後だからだというのは、乾き切っていない頭髪から放たれるミントの香りで分かった。とても高一の色気じゃない……。

「忘れ物がありまして。……これです」

 中里君は右手に握るパン袋を振って示した。

「焼きそばパン?」

「期限が明日までだったから。土日も練習はありますけど、教室は閉まって入れないじゃないですか。職員室に行って、焼きそばパンを取りに来ましたなんて言ってここの鍵を借りるのはちょっと……。で、ここに来たら月が凄いなぁって、ここで焼きそばパン食べたらより美味いだろうなぁって思った次第です」

「何それ……アハハ」

 思わず笑いが込み上げた。

 彼は焼きそばパンのためだけに部活の仲間と別れ、この時間、この場所に戻ってきた。そして、荘厳な月に見惚れると、教室の灯りも点けず焼きそばパン片手に一人で耽っていたというのだ。

 何とも男子学生らしい事の経緯があまりにも愛しくて胸が温まる。

 ……それでも。

「もう下校時間よ。満足したら帰りなさい」

 これほどの奇跡を授かってもなお、私は境界線を越える勇気を持てずにいた。

「すみません、もう少しだけ残っていいですか?」

「どうして?外の方がよく見えるよ?」

「いえ、月ではなく……」

 彼は素直な子だから、このように返されるのは予想外だった。

 どうしてこの場所にこだわるのか。私と中里君しかいない月夜の空間に……。

 彼はもしかして……まさか、でも私は、私と中里君は……!


「然君、お待たせー!」


 彼との出逢いを望み、その至高の輝きに諂う女の声が教室に木霊した。勿論それは私の喉から発せられた音ではない。

「星先生!まだ学校にいらっしゃったんですね!鍵、返しておきましたから!」

「……翼さん?」

 どうしてここに彼女が?翼さんもまだ学校にいるのは分かっていたけど……それで、どうしてここに来てしまうのか。


 ――それは単純明快な真実。


「えっと……お取込み中?」

「いえ、帰るように言ってもらったところです」

 中里君は焼きそばパンの入っていた袋を握り潰し、カバンを肩にかけて『遠く』へ行ってしまった。


 ――私が越えられない境界線も、みんなにとっては始めから無いに等しいものだから。

 

「先生、また月曜日に」

「失礼しました!」

 二人仲睦まじく教室を出ていく。視界から二人が消え去るその間際……。

「月が綺麗だねー、然君」

「先輩の方が綺麗ですよ」

「そ……そういうこと簡単に言う!」


 ――彼の心に踏み込む資格を有し、既に獲得を叶えた地上の輝きが、彼のすぐ隣にも在った。


 教室に一人取り残された私はすぐにこの場を離れられる気力がなく、無意識に窓を開いていた。

 遮るものはたった今取り除いたはずなのに、あの遠い光月が朧に映ってしまい、月見すらも儘ならなかった。

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月下美人と月下美人 壬生諦 @mibu_akira

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