第2話
「おじさん、何してんの?」
僕は、堤防の上で立ちションをしているおじさんに話しかけた。
おじさんは、おしっこの軌道を少しもずらさず、首だけ振り向いて僕を見る。
何本かシワの入った顔。
僕のお父さんよりもずいぶん年上に見えるが、じいちゃんよりは若そうだ。
「......何って、見たらわかるだろ」
僕を適当にあしらうような、そんな反応。
「外でおしっこしたらダメなんだよ?大人なのにわかんないの?」
僕はさっきまでの鬱憤を晴らそうと、できるだけ強い口調で言う。
「......俺はいいんだよ、仕事だから」
「うそつけ、おしっこする仕事なんて無いでしょ。あ、もしかして、おじさんニートってやつ?」
「......なんだお前、生意気な子供だな」
おじさんはトントンと下半身を揺らした後、ズボンのチャックを閉め、高さ一メートルほどの堤防を慎重に降りる。
少し白髪の混じった髪の毛は無駄に長く、サラサラと潮風の思うがままにたなびいていた。
その様子が面白くて、僕はフフッと笑う。
「なに笑ってんだ?」
「笑ってないし」
急いで敵対している表情に戻す。
「で、なんの用なんだ?」
「別に用はないよ。変な人だから話しかけただけ」
「......そうかよ。仮に俺が変な人だったとしても、変な人にはそっとしとくもんだぜ」
おじさんは頭をポリポリとかきながらため息をつく。
「お前はなんだ、この辺に住んでる子供か?」
「違うよ、僕の家はもっと遠くにあるんだ。今はおばあちゃん家に来てるだけ」
「そうか」
自分から聞いたくせに、おじさんはさも興味がなさそうに返事をする。
「で、こんな人気のない場所に何しに来たんだ?迷子か?」
「迷子じゃないよ。じいちゃんとケンカして、家から出てきたんだ」
「あはは、家出か。子供らしいな」
急にカラッと笑うおじさんに、なんだか馬鹿にされているように感じて、僕はムッとした顔を向ける。
「お前、歳いくつだ?」
「教えない」
「幼稚園児か?」
「小学生だよっ!」
「何年生?」
「......一年生」
「ふーん、じゃああれか、今は夏休みか?」
「そうだよ」
「でももう夏も終わるな」
「やなこと言うなよ」
「あはは、夏が好きなのか?」
「別に......」
別に夏は好きじゃない。
でも、じいちゃんとケンカしたまま夏休みが終わるのは嫌だった。
「でもまあ、季節が廻らねえと動物や植物が困るからなぁ」
おじさんはそう言って、堤防の上に腕を置き、海を見る。
「お前、『蒸発』って学校で習ったか?」
「......わかんない」
「簡単に言うと、水を温めると水蒸気っていう気体に変わるだろ?それのことだ」
「すいじょうき?きたい?」
「あー......まあ、空気のことだと思えばいい。水を温めると空気になるんだよ。やかんから白い湯気が立ってるのとか見たことあんだろ?」
「あー、湯気ね。それならわかるよ」
「そうそう。それでな、夏は暑いから水が空気になるだろ。だから海の水の量も減ってしまうんだ」
「へー......」
「つまりさっきのは、減ってしまった海の水を増やすためのお仕事ってわけ。わかったか?」
「......それは言い訳でしょ」
「あはは、やっぱり信じられないか」
おじさんの少しうるさい笑い声が海に響く。
「証拠ってわけじゃないけどな......」
そう言っておじさんが何かをポケットから取り出し、僕の手のひらに乗せた。
ほとんど重さを感じていない手に視線を落とすと、そこには綺麗な青色の貝殻があった。
「え、これ何!?」
僕は受け取った貝殻を手のひらに乗せながら、その宝石のような輝きに胸を躍らせた。
「綺麗だろ」
「うん。おじさんの宝物?」
「あはは、そんなんじゃねえよ。まあ、商売道具みたいなもんさ」
「くれるの?」
「ああ、欲しけりゃやるよ。いっぱい持ってるからな」
「やったー!ありがと、おじさん」
おじさんに笑顔を向けると、少し照れくさそうに「おう」と返事が来た。
「おじさん、こういうのいっぱい持ってるの?」
「まあな。今は持ってねえが、青色以外にも金ピカのやつだってある」
「すげぇー、見せてよ!」
「あはは、今は無いんだって。ほら」
そう言って、おじさんがズボンのポケットを裏返すと、さっきの青色の貝殻が三個と、わずかに砂が落ちた。
おじさんは小銭を拾うように、落ちた貝殻をちょいちょいと拾いあげる。
「......じゃあ、なんか面白い話してよ!」
「困ること言うなぁ。俺そろそろ仕事再開したいんだけど」
「おしっこは仕事じゃないでしょ」
僕がそう言うと、おじさんは諦めたように力なく笑う。
「まあなんにせよ、もう帰ったほうがいいぜ。そろそろ雨雲が来るからな」
そう言って、おじさんは西の空を指差す。
小さな山の上から、山よりも大きな薄暗い雲がずんずんとこちら側に向かってきていた。
「雨が降るの?」
「そうだ。土砂降りのな」
「おじさんは帰らないの?」
「そうだなぁ。夏が終わるまではここにいねえとな」
なんだか話が噛み合っていない気がしたが、おじさんの話が面白そうだったので、あえて指摘しないことにした。
「夏が終わったらどうするの?」
「南の方に行くんだ。オーストラリアとかな。次はそこが夏になるから、そこでまた仕事するんだ」
「へー」
日本とオーストラリアは季節が反対なのだと、以前お父さんから教えられたことを思い出す。その理由までお父さんは長々と説明してくれたが、難しくて覚えていない。
「じゃあ、来年の夏はここに戻ってくるの?」
「うーん、夏の仕事も、いろんな場所を転々としてるからなぁ。ほら、同じところばかりだと海水の量が偏っちまうだろ?」
そう言われても僕にはよくわからない。
「まあでも、夏の終わりは決まってここだな」
「じゃあ、次の夏休みも会いに行くよ」
僕がそう言うと、おじさんは目を細めて微笑む。
「まあ、あんまり期待すんなよ」
僕の頭の上にポンっと手を置く。
「おしっこした後の手、汚いよ」
そう言うと、おじさんは今日一番の笑いを見せた。
「じゃあ、帰るね」
「おう、またな。じいさんと仲直りしろよ」
「うん」
軽く別れの挨拶を交わすと、僕は来た道を駆け足で戻る。
しばらく進んだところで後ろを振り返ると、おじさんは同じところから動かずにいた。おじさんに向かって大きく手を振ると、僕に気づいて軽く右手を上げてくれた。僕はフフッと笑って、後ろから迫ってくる雨雲に追いつかれないように、また走り出した。
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