3
棚に隠された店の奥に誘われるままに足を踏み入れると、そこはぽっかりと開いた空間になっていた。棚、正確に言うと本棚に囲まれたその空間の真ん中には小さな丸テーブル。
店にはさらに奥があるようだが、やはり本棚に遮られて奥は見えないようになっている。外観からはそんなふうに感じなかったが、この店は亜美が想像していたよりもずっと広いようだ。
「さ、どうぞ」
勧められてテーブルを見ると、湯気のたったカップが二つ。いつの間に用意されていたのか琥珀色の液体がゆらゆら揺れている。
「ありがとうございます……」
お礼を言いながら大人しく椅子におさまると、店長は満足そうに亜美の前に腰を下ろした。
テーブルの隅には重厚な装丁の本が積み上げられている。海外のファンタジー映画で見るような本といえばいいのだろうか。年季の入った革張りの装丁には何かしら彫られているが亜美にはその文字を読み解くことはできない。
「高校生?」
形の良い唇がそう言葉を発したのに、それが自分への問いかけだと理解するのに時間がかかり、返事が一テンポ遅れてしまった。
「あ、はい。そうです。高三です」
慌てて答えたせいで思ったよりも大きな声を出してしまう。しかし店長はそれを気にした様子もなく物憂げにため息をついた。
「最近の学生って大変よね。勉強も受験も昔と違っていろんなとこから情報入ってきて、何が正しいのかわかんないし、もちろん便利になってるとこもあるけど気を遣わなきゃいけない部分も別で増えてるし。みんな大人びてるというか、大人にならざるを得ないと言うか……」
顎に軽く手を当てて小首を傾げた店長は、言いながら自分の目の前の紅茶に手を伸ばす。つられて亜美も紅茶に口をつけ、その熱さにちろりと舌を出した。
「あの、それで、ここは……」
よく知らない人と気の利いた世間話をする技術なんて亜美は持ち合わせていない。性格と一緒でストレートに本題に踏み込むと、店長は「ふふふ」と意味ありげに笑った。
「そうね、あんまり引き止めちゃうのもね……」
そして座りなおりした店長は、「ここはね、記憶を売り買いするお店なのよ」とゆったりと言った。
そういえば、そんなことをあの少女も言っていた。店長の横に静かに控える少女に視線をやると、少女はその陶器のような肌に映える薄く色づいた唇を得意げに上げて見せる。
「ええっと、それってつまり……セカンドハンドショップみたいな感じですか?」
店内の棚に雑多に陳列された商品を思い出す。思い出の詰まった品を売り買いするお店、といえば記憶を売り買いすると言えなくもない。
しかし店長は、一瞬だけ不思議そうな顔を亜美に見せると何か納得したように微笑んだ。
「ああ、そうよね。あなたは知らないのね。ごめんなさい。ついつい知ってるものと思って話してしまったわ」
何に対する謝罪かわからないまま何となく軽くうなづくと、店長は片手を顎に当てて「うーん」と悩むポーズ。
「そうね、どこから話そうかしら……。あのね、記憶には魔力が宿っているのよ。このお店はね、叶える願いの対価として魔力、つまり記憶を受けとっているの。逆のパターンもたまにあるけれど……。記憶は形がないでしょう? だから何かその記憶にまつわる物を依代として形を保つの。つまりこのお店に並んでいる商品は、記憶の依代ってこと」
そこまで一息に話され、亜美はポカンと店長を見つめるしかできない。
魔力って、あの魔力? 魔法とかファンタジーの世界の? 願いを叶えるとか記憶の形とか……。
本気でそんな話をしているのだろうか。それとも揶揄われているのだろうか。
判別がつかないまま返答に困っていると、こちらの様子を察したのか店長はさらに優しい微笑みを浮かべた。
「あなた、夢を見るでしょう? 明晰夢ってやつ。しかも最近頻繁になってきてる。夢か現実か区別がつかない時もある」
言われてどきりと心臓が跳ねる。
「まだ余裕がありそうだけど、そろそろコントロールする術を覚えないと大変よ。無自覚の魔法使い……あなたみたいな子は、魔力が強くなればなるほど無意識にそれを発散させようと所構わず魔法を使うようになってしまう。結果、自分や周りに甚大な被害を出してしまうこともあるの」
「魔法使いって……私がですか?」
店長の言葉に思わず立ち上がりかける。魔法使いだなんて、そんなわけない。亜美は今まで手から火を出したことも宙に浮いたこともないのに。それに世界を壊すなんて……。
まったく理解が追いつかない。
「ええ。あなたは夢を渡る魔法使い。いえ、正確には夢を通して記憶を辿り時空を渡る魔法使いね」
何を言われているのか理解できず、唾を飲み込む。確かに変わった夢は見る。でも夢なんてみんな見るものだし、変わっていて当然ではないか。混乱したまま店長の次の句を待っていると、店長は困ったように笑った。
「さっきも言った通り記憶には魔力が宿るの。だから記憶に関する魔法を使える魔法使いは総じて魔力が高いと言われてるのよ。でも、そうね。
店長はそう言うと、音もなく立ち上がって亜美の目の前に手を差し伸べる。
「覗いてみる?」
店長の翡翠の瞳が妖しく光り、耳飾りがそれに同調するように揺れる。
やはり揶揄われているのだ。
そう思うのに、その翡翠色から目を離すことができない。
おずおずと手を伸ばし、店長のヒヤリとしたその手に触れる。
突如、テーブルの上にあった本の中の一冊が宙へと舞い踊る。薄く光を放ちながらパラパラとひとりでに捲られるページに、亜美は驚いて身を引いた。
「危ないわ。コトワリの狭間に取り残されてしまう」
離れそうになった亜美の手を店長が強く握りなおした時、宙に浮いた本がぴたりとその動きを止めた。と、突然その本が亜美の眼前へと迫ってくる。
「な……」
何? と言葉にする暇もなく目の前に迫った本のページが、その場で急に大きくなり亜美の体を包み込む。同時に目の前が真っ暗になって店長の手を握る亜美の拳に力が入った。
次の瞬間、大きな地震でも起きたようなぐらつきを感じ、思わず支えを求めて店長の腕に縋り付く。
「う、うわ……!」
ジェットコースターの急降下のときみたいにお腹の奥に浮遊感を感じて怖くなり目を閉じる。亜美が身を守るように体を丸めると、まるで励ますみたいに力強い腕が肩を支える。
「大丈夫よ。ゆっくり目を開けてご覧なさい」
浮遊感はまだあるけれど耳元で響いた落ち着いた声音に固く閉じていた瞼の力を少し抜く。微かな光を感じ、亜美はゆっくりと目を開けた。
「なに……これ……!」
目の前に溢れる光の洪水。光の中を何かが行き交っているのはわかるのに眩い光に目が慣れるまで何が何だかわからない。それでも目を凝らして見ていると、飛び交う光の中にさまざまな色や形や景色や人が垣間見えた。
一つ一つは一瞬で、まるでいろんなアルバムをパラパラと飛ばし見ているような感覚。
「これって……」
飛び交う色たちに頭がクラクラして酔いそうだ。目を瞬かせて何とか平行を保とうとしていると、頭上近くから店長の顰めたような声。
「これはこの店に集められた魔力によって収められている世界の一つ。あなたが住んでいる世界とは違う、どこか遠くの世界よ」
「遠くの……?」
遠くの国、ではなく……?
理解はできないながらも目の前を飛び交う風景は亜美の見知った場所やテレビやネットの向こうで見るものともまるで違う。
「世界は魔力によってその調和を保っているの。もちろんあなたの住む世界もそうよ。だから全ての世界において魔法使いの存在は重要なの」
そう言った店長が虚空に指で何かを描く。すると今まで周りを彩っていた光と色の洪水がふいと消えて、気づけば元の部屋に戻っていた。
「とりわけ、
だから、と一息つくと店長は握っていた亜美の手を離した。
「魔力の制御を学びなさい。きっとこれから必要になるわ」
「ただいまー」
玄関を開けるとそこには静まり返った暗い部屋が広がるだけ。
電気をつけながら靴箱の上に鍵を投げ置き、そのままキッチンへ。冷蔵庫に入れられた作り置きのおかずを適当にお皿に並べてレンジへ。自室で部屋着に着替えて机に出しっぱなしにしていた単語帳を引っ掴み、またキッチンへと舞い戻って手早くそのほかの夕飯の準備を済ませる。
ルーティンになっているそれらの動作を終えるとリビングで夕飯を食べながら単語帳と睨めっこ。一人で食べながらの勉強はいつも通りではあるけど、今日は全然身が入らない。
「ダメだ……」
さっき起こったあれこれが亜美の頭を行き巡り単語が一つも頭に入ってこない。
お箸と単語帳をテーブルの上に投げ出して椅子の背もたれに頭を預ける。白い蛍光灯が目に眩しく手で目を覆い、ふと店長の大きな手を思い出す。
夢を通して記憶を辿り時空を渡る。
心当たりがないわけではない。昔からたまに夢で見たことが、自分では知り得ないはずの事実だったことが何度かある。幼い頃はそれで何度か友達とトラブルになることもあった。
でも、それでも魔法使いだなんて……。
眼前の手のひらを見つめ、「ファイヤ」なんて呟いてみる。当然、手から火なんて吹くわけもなく、亜美は苦笑した。
「あんた何やってるの?」
突然響いた声に驚いて振り返る。と、カバンを肩にかけたままの母親が訝しい顔でこちらを見ていた。
「お、おかえり! 気づかなかった。休日出勤お疲れ様」
誤魔化すように手を顔の前で振りながら立ち上がる。
「本当はもうちょっと早く帰ってこれるはずだったのに部長に捕まっちゃって」
言いながらリビングにカバンを放り出してキッチンへ向かう母親。父と別れてから昔働いていた会社に戻ったらしい母親は、周りに恵まれ今は課長としてバリバリ働いている。小さい頃から片親になっているので細かいことは特に知らされていないが、母親のおかげで経済的に全く困っていないのは確かだ。
母親の後に続いてキッチンへ入り、自分の夕飯の準備をする母親の横に立つ。
「昨日の煮物、味染みてるよ」
「そ? ああ、キムチも食べないとね。酸っぱくなっちゃう」
雑談していた母親が、ふとこちらを不思議そうに見る。
「何? 早く夕飯済ませちゃいなさいよ」
夕飯を放り出して母親の後を追ったことに特に意味なんてない。でも……。
「あの、さ。私って昔……よく夢の話してなかった?」
亜美の言葉に母親は一瞬だけ目線を天井の方へ向けて「あー、そうだったかしらね、うん」と頷いた。ちらりとこちらに視線を寄越した母親に促され、「うーん」と一つ唸って続ける。
「なんかさ、昔は夢と現実の区別があんまりついてなくって……。でもね、やけにリアルな夢も多くて、夢のはずなのに実際に起こったことだったり、知らないはずの情報が頭の中にあったり色々混乱してた気がするの……。その頃のことってお母さん覚えてる?」
言葉を選びながら聞いてみると、母親はまた何かを思い出すように天井を睨みつけた。
「そうね……でも小さい頃ってそんなもんなんじゃない? 人って記憶を都合いいように変えちゃうって言うじゃない? 事実と記憶が食い違うこともよくあるし」
まあ、そうなんだろうけど……。
何か具体的に聞きたくて話を始めたわけではないけれど、何となくはぐらかされた気もする。
「あーお腹すいた」
そう言ってお皿とビール缶を並べたお盆を手にした母親が、ルンルンと追いやるようにお盆で亜美の体を押す。そんな母親に軽く笑ってキッチンを出ようと母親から目を逸らした瞬間、母親が唇を噛んだのが目の端に映った。
あれ……?
チラリと見えた母親のその癖に、ふと不安な気持ちが頭をもたげる。
母親に何か気まずいことがある時の癖。指摘したことはないけれど、隠し事がある時や何かに迷ってる時に見せるあの癖。
母親のこの癖を亜美が最初に意識したのは、おそらく父親との離婚を切り出された時。
「お母さん、魔法って信じる?」
リビングへと歩きながら、なるべく明るく話題を変えるように聞いてみる。
「ええ? なあに、急に。勉強のしすぎじゃない?」
振り返ると呆れたように笑った母親がまた唇を軽く噛むのが目に入った。
黒のマジョと理のハコ 伊月千種 @nakamura_aoi
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