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ガタンと体全体を揺らす衝撃を受けて亜美は飛び起きた。
瞬間、まばゆい光が亜美の目を差し、とっさに顔を覆う。何がどうなっているのかわからず手の隙間から様子を伺うと、亜美の耳に「公園前ぇ。お降りの方はお足元にご注意ください」という間延びした声が届く。
ああ、バスか。
状況を理解して一息ついたところでハッとした。
「お、降ります! すいません!」
慌てて立ち上がり、バスの運転手に叫びながら人をかき分けていく。閉まっていたドアが開き亜美をそこから吐き出すと、バスはすぐさまその場を去っていった。
真っ暗な公園の目の前に一人取り残された亜美は、胸の前で抱えたままだったカバンを肩にかけて歩き出した。
何だかやけに疲れている。体がだるいし頭も重い。動くのが億劫で、座り込んでしまいそうだ。
何だろう。何だか……。
ふらふらする体にふわふわする頭。パレットの上に出したいろんな色の絵の具を混ぜていくみたいに、目の前の世界の色がだんだん互いに溶け合ってしまいそうな感覚。
立ちくらみってやつ……?
妙に冷静に考えていると、突如足元を何かが撫でる感覚。
「うわ!」
びっくりして足を上げると足元からぴょんっと影が飛び退いた。影の正体は「にゃー」と鳴く。びっくりしたようなまんまるの目で亜美を見つめたそれは、次の瞬間には公園の茂みへと姿を消していった。
あれ、これって……。
黒いそれを見送って、その既視感に不安を覚える。
公園前の通り。自宅へ帰るにはまっすぐ進むだけ。でも目の前には無視できない曲がり角がある。
覗き込んだ暗い路地の向こう。突き当たりに開かれた店。ガラス張りの戸から眩いばかりに漏れる光。そしてその奥に見える人影がこちらに手を振ったような気がして心臓がどきりと跳ね、亜美はとっさに路地から身を隠した。
これは夢? それともさっきのが夢? どこからが?
混乱したまま、もう一度路地を覗き込む。もうあの人影はどこにもない。そのまま誘蛾灯に誘い込まれる虫のように路地へと足を踏み出す。
店の前まで辿り着き、ガラス戸上部の庇のさらに上に掲げられた毒々しい紫の看板を一度見上げる。記憶通りだ。
ガラス戸の向こうに見える雑然とした店内。今度は自分でガラス戸を引き開け中には踏み入れず店内を見回すが、記憶の中の少女はどこにも見当たらない。
恐々店内に踏み込むと、奥からゆらりと人影か現れた。
「あら、あなた」
銀色が店の電灯に反射して輝く髪は、スポーツ刈りとでも言うのだろうか、短髪の中でもかなり短い。男性の中でもおそらく上背がある彼は、モデルと言われても納得できるほどにバランスの整った体躯をしている。普通のTシャツの上からでも筋肉質なのがよくわかる体つきだ。色黒の肌に、翡翠の瞳。瞳と同じ翡翠色のピアスがその肌に良く映える。
「店長さん……」
知らずつぶやいた亜美に、店長は困ったような笑顔を見せた。
「危ないわ。引っ張られすぎてる。戻れなくなるわよ。『
言いながら店長がまるで指揮棒でも振るように指で中空に何かを描く。
ガンッと膝に何かがぶつかった衝撃で、亜美は半身を思い切りのけぞらせた。
「大丈夫?」
目に入る光に瞠目しながらパチパチと何度も瞬きをする。
「爆睡じゃん。すっごい音したけど」
驚いたり笑ったりしている友人たちの顔を見て何が起こっているのか分からずぽかんとする。
「何回呼んでも全然起きないから焦った。寝不足?」
亜美の背に手を置いて心配そうに顔を覗き込んできた友人に「ああ、うん」と曖昧に答える。
ようやく自分が予備校の教室にいることを把握して亜美は息をついた。膝の衝撃は机の裏にぶつけたものらしい。ジンジンする膝に手を当てる。
「まじ大丈夫? 今日何曜かわかる?」
「木曜? あれ? 水曜か」
「だめだこれ」
別の友人がおどけたように言って笑いが起こるのに、亜美の背に手を当てた友人だけが深刻そうに見つめてくる。
「いや、ただの寝不足。大丈夫大丈夫。そんな心配しないで、
努めて明るく亜美が言うと、他の友人が「そうそう」と言を継ぐ。
「亜美の居眠りなんてよくあることじゃん。栞菜は亜美に過保護すぎ」
言われて栞菜は苦笑いして、亜美からようやく離れた。
今の夢は何だったんだろう。どこからが現実でどこからが夢だったのか判然としない。本当にぐっすり眠っていたらしく、手の甲には額の跡がくっきりと赤く残っている。
「もう授業終わったよ。帰ろ」
栞菜が自分のカバンを肩にかけてその長い黒髪を揺らす。友人たちも次々と立ち上がるのに慌てて亜美も机の上に広げたノートを閉じた。
「模試のために今度の土曜に予備校の後みんなで対策しようって」
帰りのバスの中、栞菜がスマホを見つめながら面倒くさそうに呟く。綺麗に手入れされた爪がスマホの上を踊っているのを横目に、「みんなって?」と聞き返しながら自分の爪を見下ろす。部活を引退してから少しマシになったけど、それでもずっと綺麗に可愛く見えるように手入れを続けてきた栞菜の指先には比べるべくもない。
「澤も来るってさ」
「べ、別にそんなこと聞いてないけど……!」
慌てたように被りを振ると、スマホから目を離した栞菜がニヤけ顔で振り返る。
「あっそ? 気にしてるかと思ったんだけど」
綺麗にリップの塗られた口角が面白そうに上がっている。
小学校に上がる頃、近くに越してきた栞菜とは同い年の遠い親戚として引き合わされた。何となく気が合ったのは、その頃に栞菜の両親も亜美の両親も離婚をしたことから幼いながらに同族意識のようなものがあったのかもしれない。
その後お互い何度か引越しを経験しているし通っている高校も違うが、何の偶然か今も近くに住んでいるので予備校帰りはいつも一緒だ。
「公園前、公園前。お降りの際は……」
気だるい運転手の声に栞菜が降り口へと足を向ける。それに続きながら周囲の目線が栞菜に向いていることに気づいて亜美は心の中で鼻の穴を広げる。
綺麗に毛先を巻いた黒髪に流行りのメイク、小柄で華奢で派手ではないけど人目を引く栞菜は亜美の自慢だ。
背が高くて骨格もしっかりしていて後輩から「バレー部の王子」なんて呼ばれていた亜美からすれば羨ましくもあるが、それよりも自慢の気持ちの方が強い。
「あー、だる。こっからさらに歩くのやだなー。家がこっちに来てくんないかな」
バスを降りてすぐさまそう愚痴をこぼす栞菜。見た目とは裏腹に性格はクールでめんどくさがり屋だ。
「こっから二十分だもんね」
同意しながら自宅へ向かう道を見る。
あの辺りに曲がり角が……。
夢の中で見た場所に差し掛かって立ち止まると、栞菜が不思議そうに亜美を見上げた。
「あのさ、ここに路地なかったっけ? ここの、この辺り」
公園前のこの通り。家に向かおうと歩いていると黒猫が出てきて公園へと消えていく。
この辺りのはずなのに……。
亜美が指し示した場所には塀があるだけで曲がり角もそこに続く路地も何も見当たらない。それどころかこの塀は公園に沿うようにずっと続いていて、かなりの距離を歩かないと曲がり角なんて見えない。
「何言ってんの? ここってあれじゃん。公園前の大屋敷。ずっと切れ目がない塀で囲まれてる大豪邸って有名じゃん」
そうだ。その通りだ。この大豪邸のせいで目的の場所へ辿り着くのに大きく迂回しなければならなくて不便だとこの辺りでは有名だ。
それじゃあ、あれはやっぱり夢だったのだろうか。
雑多な店内。不思議な少女。女性らしい口調の店長。細部まで思い出せるその記憶に冷や汗が出る。
「ねえ、今日なんか変だよ? ほんとに大丈夫?」
栞菜の不安そうな声に「まだ寝ぼけてるみたい」と無理やり笑顔を作る。
「さ、帰ろ。疲れちゃった」
まだ何か言いたそうな栞菜の背を押しながら、亜美は一度だけあの路地があったはずの場所を振り返った。
――――――――――――
高三になって初めての模試を控えているのにまったく勉強に集中できていない。何となく周りより遅れを取っている気がしていたが、それが確信に変わったのは土曜に開催された予備校仲間との勉強会の時だった。
「やばいかも。全然準備不足だ! みんなすごい……」
勉強会後、予備校の自習室近くのトイレで栞菜に愚痴る。模試対策に綺麗にまとめられた同級生たちのノートが輝いて見えたのだ。
栞菜はいつものクールさで「今からできることやるしかないっしょ」と切り返す。
こんなことならダラダラしていないで早く準備始めとけばよかった。
それこそ今さら考えても仕方ないことをぶちぶちと口の中でつぶやいていると、横で髪の毛をとかしていた栞菜が「そだ」と話題を切り替える。
「私、今日はママのとこだから」
普段、父親と二人暮らしの栞菜はたまに母親のところへ泊まりにいく。その時だけは方向が違うので亜美は一人で帰ることになるのだ。
「オッケー」
答えて二人揃ってトイレを出る。と、「おっせー栞菜」とトイレの前で待っていた男子がうんざりしたように栞菜に文句を言った。
「えー。別に澤に待っててとか言ってなくない?」
肩をすくめた栞菜がちらりとこちらを見る。その目の中に宿る色を汲んで苦笑しながら、亜美はパッと二人に手を上げた。
「私、先生にわかんないとこ聞いてから帰るから。じゃ、また」
二人の返事も待たずに踵を返すと、背後から「じゃあな」という澤の声が聞こえる。一度振り返って手を振り、すぐに廊下を曲がるとそこで立ち止まってはあっとため息。
澤は栞菜の高校のクラスメイトで、この予備校で栞菜に紹介された。爽やかな笑顔と誰にでも分け隔てない彼の性格に、亜美も素敵だなと思ってはいるものの別にはっきりとした恋心を抱いているわけではない。
だけど栞菜はどこか誤解しているようで、ことあるごとに亜美の後押しをしようとする。
応援してくれる気持ちは嬉しいし、澤と付き合えたら幸せかもなんて気持ちがありながらも、亜美に気を使ってくる栞菜を見ると澤には申し訳なくなる。
きっと澤は栞菜が好きだから。
だから栞菜が母親のところへ行く日、つまり澤と同じ方向へ帰る日、澤は栞菜が身支度や先生への質問でどんなに遅くなっても絶対に待っているのだ。
好きなアイドルや俳優の熱愛が発覚した時みたいな気持ち。澤と栞菜が並んで歩いているのを見ると湧いてくるそれが、澤に対してか栞菜に対してか、自分でもよくわからない。
壁に寄りかかってスマホをいじり適当に時間を潰してから出口へと向かう。
澤と栞菜が一緒に帰る日に何となく胸につかえるモヤモヤ。これはもしかしたら、離婚していても離れて暮らす母親に自由に会いに行くことができる栞菜へのある種の妬みかもしれない。亜美は両親が離婚した後、ただの一度も父親に会っていないのだ。
大好きだった優しい父。父が出て行くまでは父も亜美のことを愛してくれていると信じて疑わなかった。けれど父の意向か母の意向か、離婚後の父は一度も亜美の前に姿を現していない。
鬱々と考えながらいつも通りのバスを公園前で降りる。
なんだか頭が重い。色々と考えすぎているのだろうか。ふと違和感を抱いて足元に落としていた視線を進む道の先へやる。
あれ、あそこ……。
公園前の大屋敷。ぐるりを囲む切れ目のないはずの塀。あるはずのない曲がり角。
まただ。また私は夢を見ているのだろうか。
思いながらも亜美の足はひとりでにあの曲がり角へ向かう。路地の先にはやはり、煌々と灯りのついたあの店。
近づくと、店内を歩いていた黒髪の少女が亜美に気づいた。少女は小走りにやってきてガラス戸を思い切り開ける。
「らっしゃい! お待ちしてやした!」
そうして亜美の手を取るとグイグイと引っ張る。
「え、ちょ、ちょっと待っ……力つよっ!」
思い切り踏ん張っているのにずるずると店の奥へ引きずられ、亜美は目を白黒させた。
「てんちょが言ってたんでさ。そろそろお客さんがいらっしゃるって。きっとこの店に用があるって」
亜美を引きずりながら弾むような声で喋る少女に、人違いじゃないの、と言いかけて黙る。この店に用があるわけではないけれど、ここが何なのかは気になっている。
「あらあら、だめよノア。お客様をそんな風に引きずり回しては」
凛とした声に目を上げると翡翠の色を宿した静かな瞳でこちらを見つめる店長が立っていた。
「こ、こんにちは」
何だか妙に緊張して詰まりながら挨拶する。
「いらっしゃい。……今日は大丈夫そうね」
じっと亜美の目を見つめてそう言った店長に、何と答えていいか分からずどぎまぎする。
「さ、こちらへどうぞ。奥でお話ししましょう」
さらに店の奥へを指し示す店長。
天井まで届くような大きな棚が所狭しと並べられて、立っているところから店の奥がどうなっているか見えない。
言われるままに進んでいいものか逡巡していると店長はその長くしなやかな指を自分の手に当てて妖艶に笑った。
「聞きたいことがあるでしょう? このお店のことや、猫のこと。それとあなたの記憶の話」
言われてざわりと背筋が粟立つ。
店長が意をえたように手招きするのに、亜美はゆっくりと足を踏み出した。
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