夢見る少女

1

 ふと気づくと亜美あみは暗い路地に立っていた。


(あれ、何これ )


 困惑して周囲を見回す。なんだかいつも見ている景色よりずいぶん低く感じるし、すべてがぼんやりと透かしガラスを通したような景色に見える。


 目を凝らして見ると路地の向こうが照明で薄暗く照らされているようだ。ぼんやりとしたシルエットが見えるが、やはりそれが何かははっきりと見えない。だがふわりと香る木の匂いに亜美はああ、と心の中で呟いた。


 あれは公園だ。いつも亜美は予備校帰りにあの公園前でバスを降りる。ということはこの路地は公園に面した通りから一本横に折れた道だろう。公園へと足を向けたところで亜美ははたと気づく。いつもは公園前で横道に逸れることはない。この路地はどこだろうか。何で自分はここにいるのだろうか。


(これ、夢だ)


 唐突にそう思い至り、亜美は納得した。同時に嫌な気分になる。夢の中でそれが夢であることを自覚する。明晰夢というやつだ。亜美は明晰夢を頻繁に見る。そしてこういった夢には良い思い出があまりない。


 ふと下を見ると、やはりいつもよりもやけに近い場所に地面があった。まるで急に自分の背が縮んだような感覚。と、突然路地が明るくなる。同時に何か大きな音と気配がして亜美はビクリとそちらを振り返った。


 目をやると亜美のすぐ後ろ、路地の行き止まりになっている場所に建物があった。はっきりは見えないけれど看板が掲げられている。おそらく何かの店だ。


 やけに大きく古いその店。ガラス戸にかけられたカーテンの向こうから明かりが漏れている。上に掲げられた看板を見ようと目を細めたところで、突然カーテンとガラス戸が開いて中から人影が現れた。


 店からの明かりが眩しく亜美の目を焼く。現れた人影は亜美にはまるで巨人のように大きく見えた。驚いて逃げ出そうとすると、その人影が素早く動いて亜美の腰を掴みあげた。


「にゃあ……」


 反射的に出た自分の声に亜美は目をぱちくりさせる。巨人に掴まれて宙に浮いた自分の体を見下ろし、それがふさふさの毛に覆われていることに亜美は気づいた。


(私……猫になってる!)


 驚いて口をパクパクさせていると、猫になった亜美を掴んだ人物は亜美を自分の顔の辺りまで持ち上げた。逆光のせいなのかぼやけていてよく見えない。けれど耳に飾られたピアスが翡翠の色に光るのだけは亜美の目に焼きついた。


「今日も挨拶に来てくれたのかしら? 相変わらず愛らしいわね」 


 その人物は甘い声を出して亜美の顔に一つキスを落とそうとする。それを手、もとい前足で拒みながら亜美は目の前の人物をマジマジと見た。何だかちぐはぐな印象を受けたからだ。


 すると相手は亜美の困惑を感じ取ったかのように「あら、あなた……」と首を傾げた。両脇を抱えられて宙ぶらりん状態にされているのが何だか亜美は息苦しいように感じて呼吸が少し荒くなる。


「あなた、中身が違うわね」


 そう言ったその相手は、訝しがるように亜美にまた顔を近づけた。


「あら、あなた、もしかして……」


 翡翠の色がさらに近づく。


?」


 耳元でそう囁かれた瞬間、ガタンと体全体を揺らす衝撃を受けて亜美は飛び起きた。


 瞬間、まばゆい光が亜美の目を差し、とっさに顔を覆う。何がどうなっているのかわからず手の隙間から様子を伺うと、亜美の耳に「……公園前ぇ。お降りの方はお足元にご注意ください」という間延びした声が届く。


 周りの人々は亜美の様子にはお構いなしにスマホをいじったり本を読んだりぼーっとあらぬ方向を見つめたりしている。


 あ、バスだ。


 そう思い至って一息つく。いつの間にやら予備校帰りのバスで居眠りしてしまったらしい。講習の途中からバスに乗るまでの記憶がなんだか曖昧だ。まだ夢の中にいるような気分で膝の上のカバンを抱え直し、暗い窓の外に目をやる。


 点在する街灯に照らされた真っ暗な空間に何かの塊が浮き出ているのが見える。木々のシルエットだ。公園前と言っていたから公園なのだろう。


 そこでハッとして亜美は立ち上がった。


「あ、降り、降ります! 待って!」


 出発しようとしたバスの運転手に向かって大きな声をあげ、慌てて後方の席から迷惑そうな顔をする人々をかき分けて出口まで行く。閉まっていたドアが開き亜美をそこから吐き出すと、バスはすぐさまその場を去っていった。


 真っ暗な公園の目の前に一人取り残された亜美は、胸の前で抱えたままだったカバンを肩にかけて歩き出した。


 何だかやけに疲れている。体がだるいし頭も重い。少し前にバレー部にいた頃は家路につくときの疲労は亜美にとって心地いいものだった。しかし部活を引退し予備校通いが本格化してから溜まる疲れは精神的にきつい。


 まだ高校三年生になったばっかりなのに、こんなことで受験乗り切れるのかな。


 鬱々と考えながら歩いていると、目の前に黒い何かが飛び出してきた。


「うわっ」


 思わず声をあげて飛び退くと、亜美の声に驚いたのか相手もビクリとその場で静止する。


 目が合ったその黒の毛むくじゃらに、亜美は思わず苦笑いする。猫、しかも黒猫だ。このタイミングで黒猫を見るなんて、縁起が悪い。


 あれ、でもこの猫……。


 その毛並みに見覚えがある気がして亜美は黒猫をよおく観察しようと近づいた。と、黒猫は華麗なステップを踏んで亜美から離れ、一つ「にゃー」と鳴いた。


「行っちゃった……」


 そのまま公園の方へと消えていった猫を見送って、改めて家路に着こうと歩き出した亜美の目に、たった今黒猫が飛び出てきた曲がり角が留まる。そこから伸びる路地を覗き込む。


 この路地……。


 そう、夢だ。さっきバスの中で見ていた夢で見たあの路地。そしてあの猫。もしかしたら自分は夢の中であの猫になっていたのかもしれない。そんな考えが亜美の頭に浮かぶ。なんとなく路地をのぞいてみると、暗い道のその先にぼんやりと明るく光る建物が見えた。


 夢の中と、同じだ……。


 先ほど見たあの短い夢。暗い路地の最奥に開かれた店。煌々と光るガラス張りの戸の向こうに夢で見たカーテンはひかれていない。そしてその奥に人影が見えて亜美の心臓がどきりと跳ねる。


 好奇心に駆られもっと目を凝らして見ると、その人影がこちらに手を振った気がして、亜美はとっさに路地から身を隠した。やましいことなんて何もないのに胸がドキドキしている。


 びっくりした。見間違い?


 一息つくと、亜美はまたそっと路地を半身で覗き込む。


 なんのお店なんだろう。


 ガラス戸の向こうに見えていたと思った人影はもういない。代わりに店の入り口上部に申し訳程度の庇と、さらにその上にかけられた看板の毒々しい紫が目に入る。看板には何か文字のようなものが書かれているが、くすんでいて何と書いてあるか判然としない。


 こんな路地の奥にあって何のお店かもわからないのにお客さんなんて来るのかしら。もしかして怪しいお店?


 そう思うのとは裏腹に、亜美の足は店の方へと向いている。


 ちょっと覗くだけ。変なお店なら逃げればいい。


 つい先日までバレー部の主将としてコートの中を走り回っていたので瞬発力と足の速さには自信がある。


 近づいてみるとガラス越しに中の様子が見えてくる。大きな棚が雑然と並ぶ店内。手前は低い棚が規則的に並べられていて何か物を売っているようだが、奥は天井まで届くほどの棚がひしめき合っていて入口からでは様子が全くわからない。


 雑貨屋?


 店のガラス戸に張り付くように奥をよく見通そうと意識を集中していたため、手前への注意がおろそかになっていたのだろう。


 ガラス戸が勢い良く開かれるまでそこに人がいることに気づけなかった。


「へい! らっしゃい!」


「ぎゃっ!」


 思わず飛び退き、足を滑らしそうになってその場で踏みとどまる。


「おっと、すいやせん。そんなに驚かられるとは思いませんで」


 そうおどけたように言って頭を下げたのは、全身を真っ黒なゴシックドレスに身を包んだ黒髪の少女だった。ドレスの裾を軽く摘み足を交差させたその姿はさながら映画やドラマから出てきたようだ。


 ぱっと顔を上げた少女の肌が黒いドレスとは対照的に雪のように白く、亜美は思わず尻込みした。


「あの、いえ。こちらこそ、いきなり……」


 何を言うべきかわからず、まごついている亜美に少女は気にした様子もなく近づいてその手を取った。ひんやりとした感触が手に広がる。


「ささ、こちらへ。遠慮せず」


 下手すると自分より十は下の少女に手を引かれ、流されるままに店内へ導かれる。


「あ、いや、あの、私……」


 別にお店の中まで入るつもりはなかったのに。


 思いながらも小さな少女の手を振り払うこともできない。ガラス戸のサッシを超えた瞬間、体にピリリと何かが走った気がして亜美は硬直した。


 なに? 今の? 静電気?


 痛いと言うほどではなかったが、確実に違和感を感じて思わずガラス戸を振り返る。


「あらま、お客さん、そっちですかい」


 すると少女は、何に納得したのか何度か頷くと店の奥に視線をやった。


「てーんちょ! お客さんでっせ!」


 大きな声で呼びかけた少女は、亜美の手を放す様子もなくそのまま店の奥へと進んでいく。


「え、あの、私、その……」


わざわざ店長まで呼ばれるなんて予想外だ。本格的に何か売りつけられるのではないかと焦った亜美が引かれている手を振りほどこうと力を入れたところで店の奥から大柄な人影が現れた。


「あらあら、こんな時間に珍しいわね。いらっしゃいませ。『記憶の館』へようこそ」


 ふわりとした微笑みとともに現れたその人物は、腰に手を当て気楽な様子で話しかけてきた。


 銀色が店の電灯に反射して輝く髪は、スポーツ刈りとでも言うのだろうか、短髪の中でもかなり短い。男性の中でもおそらく上背がある彼は、モデルと言われても納得できるほどにバランスの整った体躯をしている。普通のTシャツの上からでも筋肉質なのがよくわかる体つきだ。亜美の手を引く少女とは対照的に色黒の肌に、翡翠の瞳。瞳と同じ翡翠色のピアスがその肌に良く映える。


「てんちょ。客引きしてきやした。偉い?」


 亜美の手をパッと放して店長に近づいた少女は、甘えるようにその足にしがみつく。


「はいはい、ご苦労様。でも無理やり連れてきたんじゃないでしょうね?」


 困り顔とは裏腹に、少女の頭を撫でる店長の手つきは優しい。


 オネエってやつなのかな……?


 ジーンズにTシャツという変哲もない装いだからなのか、店長のたおやかな口調と物腰に余計に違和感を感じてしまう。


 テレビではよく見るけれど実際に目にするのは初めてだ。しげしげと二人の様子を眺めていたところで、店長とばちりと目があった。


 失礼だったかも。


 あまりにぶしつけな視線を投げていたことにそこで気づいて慌てて視線を外す。


「あら、あなた……」


 そう言いかけて口を閉じた店長が今度は亜美をまじまじと見つめる。


「あ、あの。その……」


 その視線に緊張し、少女の手が離れたことも何だか不安になり、亜美は自分の手を組み合わせたり放したりせわしなく動かした。おどおどと目を泳がせたところで店長のピアスに目が留まり、亜美は知らず目を細めた。


 見覚えが……。


 電灯からの反射できらりと光った翡翠色に、亜美は先ほどバスの中で見ていた夢を思い出す。猫になっていた亜美を抱き上げた人影も同じようなピアスをしていた。


 あれは、でも、夢だよね。


「あなたは、違うのね」


 店長が確かめるように静かに呟いたのに、その意味が理解できずに亜美は「え?」と首をかしげる。店長の翡翠の瞳が揺れて不思議な色を放ったのを見て、何だか不安な気持ちにさせられる。


「まあゆっくり見て行ってちょうだい。気になったものがあったら声をかけてね」


 次の瞬間、茶目っ気たっぷりにウィンクした店長は亜美たちに背を向けると店の奥へとそそくさと去っていった。


「あ、はあ……」


 何とも気のない返事をしてその背を見送ると、少女がまた亜美の手を引いて歩き出す。


「この辺なんかおすすめでっせ」


 張り切った様子で一つの棚の前までやってきた少女が棚の上を指差す。


 棚に置かれた品の数々は、新品に見えるものや薄汚れているもの、ビニールをかけられているがそのビニール自体が埃塗れで中身がよく見えないものもある。


「ここって雑貨屋なの? それともセカンドハンドショップ?」


 本の横には明らかに壊れたラジオが置いてあり、かと思えばその横には枕がある。カテゴリーもめちゃくちゃな並びに亜美がそう尋ねると、少女は不思議そうに目をパチクリさせた。


「ここは記憶を預けたり売ったり買ったりするお店でさあ。たまーに元の持ち主が買い戻しに来たりすることもあるんですが、この辺はもう大丈夫でございやす」


 記憶を……?


 少女の言っていることがよくわからず、とはいえ尋ね直すのも悪い気がして亜美はまた店内を見まわした。


 年季の入っていそうなボールペンやブリキの玩具が横並びにされている様は、テレビで見た一昔前の下町の雑貨屋のようだ。


 はっきりとはわからないが、要するに質屋のようなものなのだろう。「記憶」というのを元の持ち主の思い出の詰まった品だと解釈すれば、先ほどの少女の説明も何となく納得がいく。


「この辺の物はもう大丈夫ってことは、元の持ち主にはもう必要なくなった物なのね」


 見るからにガラクタのような物もあるが、質屋に持ち込まれるということは亜美にはわからない価値があるのか、何らかの思い入れがあったのか。それを買い戻さない、もしくは買い戻せない事情というのは、何だかそれだけで切ないような気がする。


 亜美は思わず棚の上のピンクのペンケースを軽く撫でた。小学生の頃に自分も使っていたような、鉛筆削りがついている多機能なものだ。蓋にビニールがあしらわれたそれは、表面がぷにぷにしている。授業中によくぼーっとしながら意味もなく撫でていた感触を思い出し、自分のものではないのに懐かしいような気分になる。


 すると亜美の気持ちを知ってか知らずか、横に立つ少女が肩をすくめた。


「まあくだんないものも多いでっせ。お客さんが触ってるそれなんか、好きな子の筆箱を勝手に持って帰ってきちゃって素直に返すこともできずに長年罪悪感だけ募って、その記憶自体を忘れたいって男性が持ち込んだ品なんで」


 告げられた思い出に咄嗟に手を引っ込める。


 盗品じゃん。


 なんだかノスタルジックな気持ちが一気に冷めて、亜美は距離を測るように店の入り口へ視線をやった。と、目の端に何かが引っかかり、そちらに顔を向ける。


 あれ……。


 まるで隠されるように棚の隅で他の物の影に埋もれているその黒い塊に、さっきすれ違った黒猫の姿を思い出す。近づいて手に取ってみると、やはりそれは黒い猫のぬいぐるみだった。


「これ……」


 初めて見たはずなのにひどく懐かしい。今でもときどきテレビで再放映されるアニメ映画に出てくるキャラにそっくりだ。驚いたような丸い目が亜美をまっすぐ見つめている。


「ああ、それはダメでっせ。なんせ引き取りに来る予定なんで」


「引き取りに?」


 聞き返した亜美に、少女は「ええ」と大仰に頷く。


「たまにいるんでさあ。絶対に引き取りに来るから売らないでくれってお客さんが。そういうお客さんは時間がかかっても大抵引き取りにきまさあ」


 事情があって預けながらも、いつかは引き取りたい思い出の品。


 亜美の長いとは言えない人生経験では、それがどんな事情だったのかなんてまだ想像すらできない。


 きみは大切にされてたんだね。


 手の中のぬいぐるみを棚に戻すと、亜美は愛しむようにそのツンと立った耳を撫でた。

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