第7話 夢幻

 佐久間が、飽きを真剣に感じたのは、かつてよく行っていた、風俗遊びだったのだろう。お金を払って、

「遊ぶ」

 ということは、そのこと自体に興奮を覚える。

 別に興味のない人から見れば、

「お金を払ってまで、どうして通うんだ? 努力して彼女を作ればいいじゃないか? その方がよほど健全だ」

 と言われるに違いない。

 確かにまさしくその通りであろう。お金を払って、

「女を買う」

 というような行為は、どこか後ろめたさがあるもので、しかも、興奮を通り越してしまうと、そこに待っているのは、

「賢者モード」

 ではないか。

 後ろめたさのような罪悪感のようなものが、

「お金を払って女を抱くということに対して、お金がもったいないと思うのか、セックスという行為自体、お金で買うというのが、いかがわしいとでも思うのか?」

 と考えてしまった。

 しかし、一度起きてしまった興奮を抑えないと、自分がどうなるか分からないと言った場合、女を買うことに何が悪いというのか、そもそも、昔から、遊郭であったり、慰安婦というものは、公営であったではないか。

 その頃は法律的には認められていなかったブラックだったものなのだろう。

 今の時代は、逆に、

「法律で禁止されている部分もあれば、認められている部分もある」

 そういう意味では法律が整備されたといってもいいのだろうが、その境目は、昔よりも曖昧だといってもいいだろう。

 法律が整備されていない時代は、決め事がしっかりしていないと、統制が取れていないということになり、境目のところはハッキリとしていたのだろう。

 しかし、今のように法律がしっかりしていると、何と言っても、境目を曖昧にはできない。

 だから、逆に見た目を曖昧にしてしまうしかないということで、

「いかにグレー部分をハッキリさせるか?」

 ということが重要なのだろう。

 そう思っていると、戦後の状況を研究してみたくなり、調べてみた。

 そもそも、戦後は、赤線、青線などと言って、遊郭に近いものが残っていたりしたが、

「豪華な銭湯」

 というか、

「きれいなお風呂場」

 という意味で、トルコ石などを使った、いわゆる、

「垢すり」

 のようなものを、女性が施術してくれるというサービスがあったようだ。それが、微妙な人気として起こっていたようなのだが、そのうちに、

「売春防止法」

 というものが施行され、赤線、青線が、立ち行かなくなったようだ。

 そこで、考えたのが、

「豪華なお風呂で、女性が、身体に泡を縫って、身体を密着させる」

 という、昔でいうところの、

「泡踊り」

 というサービスから、トルコ風呂というものが始まった。

 その頃に、失業した赤線、青線の女性が、このサービスと合体して、今のソープの原型である、

「トルコ風呂」

 という業界に発展し、それまでの、

「豪華なお風呂」

 の衰退期を何とか乗り切ったのだ。

 ここからが、トルコ風呂の世界であり、昭和の終わりに、トルコ人の学生が、

「いかがわしい場所に母国の名前を使うのは、やめてほしい」

 といって提訴するまで、続いたのだった。

 しかし、その問題が出てきてから、風俗営業の問題とも絡みあってきて、

「トルコ風呂」

 という名前を変えることと、法律を整備するということで、落着した。

 トルコ風呂は、やはり、

「泡」

 というイメージから、

「ソープランド」

 と呼ばれるようになった。

 昭和末期くらいのことだったので、トルコ風呂という名前を言っても、すでに知らない人の方が多いに違いない。

 ただ、ソープランドというのも、名前が変わり、風営法が整備されてからというもの、いろいろな形に変化や派生していったのは、今の業界を見れば分かるだろう。

 佐久間が、風俗遊びに興じていた頃は、すでに、いろいろな派生型が出てきていて、ヘルスであったり、キャバクラなどと呼ばれる業界もできてきた。

 ヘルスは以前からあったが、

「男性クリニック」

 などという名前の時もあったのを、知っている人は少ないかも知れない。

 そして、同じソープランドでも、以前とは違った趣向が多くなってきた。

 まず価格体系として、

「高級店」、

「大衆店」

「格安店」

 などというものができてきた。

 東京などでも昔は、

「高級店は吉原。一般向けは、玉ノ井」

 などと言って分けられていた頃が遊郭の時代にはあったようだが、やはり、昭和から平成に変わってからの、バブルが弾けた時代というのは、なかなか高級店だけではやっていけないということなのだろう。

 大衆店ともなると、昔のように、

「プロの技を味わう」

 というのも減ってきて、

「女の子とイチャイチャできれば、プロの技を求めないという意味で、素人っぽさを求める客も増えてきたことから、大衆店ができてきたのだろう」

 しかも、最近では、昔のように、

「借金のかたに、身売り」

 というような、そんなドロドロしたものではなく、気軽にソープ嬢になる女の子も増えてきているだろう。

 実際に、

「現役大学生」

 という子も少なくはなく、

「業界完全未経験」

 などという女の子がウケるようになる。

 そうなると、店は、それぞれに個性を持つようになり、店ごとにコンセプトを持つようになってきた。

「コスプレ専門店」、

「マット専門店」

「SM専門店」

 などと別に、

 学校や病院の、

「先生と生徒」、

 あるいは、

「看護婦と患者」

 などと言った、イメージソープも増えてきたりしたのだ。

 しかも、今はSNSなどというツールを使って、女の子と客とが繋がると、親近感を増してきて、本指名の客は、週一で通うという猛者もいるくらいである。

「どっからそんな金が出てくるんだ?」

 と思うが、昔に比べて、大衆店というのは、それほど格安になっているということであろう。

 値段も安くて、昔ほどの罪悪感を感じなくてもいいくらいの雰囲気もあり、若い人も気軽に遊べる場所になっている。今から思えば、

「ソープランドのランドの部分がまるで、遊園地のようで、なんだかな」

 と思っていた人も多かったのだろうが、今では、本当のランドという雰囲気なのかも知れない。

 さらに、最近では、お店に行かなくても、相手が来てくれる、いわゆる出張してくれるという、

「デリバリーヘルス」

 略して、

「デリヘル」

 なる商売も増えている。

 こちらは、店に行くわけではないので、ソープ街を歩く必要も、最近では減ってきたが、

「ポン引き」

 と言われる、客引きの連中に捕まることなく、気軽に楽しめるというものだ。

 自宅に呼ぶこともできるし、同居人がいたり、アパートなんかで、近所に見られたり、声を聞かれるのが嫌な人にとっては、ありがたいものだった。

 しかも、こちらは、風営法によれば、業務時間に制限はないのだ。

 箱型、つまり、店を構えている場合は、基本的に、午前6時から、午後12時までが営業時間としていいことになっていて、それ以外の時間の営業は違法である。

 しかし、デリバリーに関しては、24時間365日、無休であっても、問題はない。実際に、それをうたい文句にしている店もあるようだが、実際に、女の子が出れる時間があるなしで、開店休業の時間帯が生まれるのは、仕方がないと言えるであろう。

 昔から、店舗型しか使ったことのない佐久間は、デリバリーヘルスには、抵抗があった。

「気に入らなければ、チェンジができる」

 ということなのだが、逆に、

「それだけ、女の子に自信がないということなのか?」

 という風に勘ぐってしまうのだった。

 しかし、実際に写真を見る限りそうでもない。ただ、店舗型にしても、デリバリーにし

ても、

「パネマジ」

 というのは、しょうがないことだと言えるだろう。

「パネマジ」

 というのは、パネルマジックのことで、いわゆる、

「看板に偽りあり」

 と言われるものである、

 宣材写真を加工して、可愛く見せたりする、あのやり方である、

 それには二つの理由があった。

 一つには、

「お客さんにいいイメージを与えて、選んでもらおう」

 という昔からありがちなもので、人によっては、

「詐欺じゃねえか」

 と言いたくなる人もいるだろう。

 しかし、重要なのは、もう一つであり、

「パネル写真から、身バレしないようにするため」

 ということである。

 ただ、これは、箱型の店舗であればできることであり、なぜなら、待合室をマジックミラーのようにすればいいだけだから、何とか部屋に入る前に、

「今日は、お休みになりました」

 という苦しい言い訳もできるだろう。

 だが、デリバリーの場合は相手のところに行くわけだ。知っている家であれば、まずいとも思うだろうが、ホテルなどの場合はそうすることもできない。ある意味、デリヘルというのは、そういう危険も含んでいるということだ。

 しかも、部屋に入れば密室で、どうすることもできない。店舗型であれば、女の子が自部で危ないと思えば、ベッドわきなどにナースコールのような非常ベルがあったりして、すぐにスタッフがやってきて、対応してくれるのだが、デリバリーのように、出張型ではどうすることもできない。

「女の子は本当にそれでいいのだろうか?」

 考えただけでも、怖いというものだ。

 ただ、風俗遊びをする中で、佐久間は、デリヘルの利用をしたことがない。どういうものなのかは、テレビドラマやAVなどで、基礎的なことは分かっていたが、それを見れば見るほと、

「何が楽しいんだろう?」

 と、思っていた。

 確かに、自分も若い頃であれば、デリヘルの方がよかったと思うかも知れない。しかし、若い頃、そのようなものはなく、店に通うことだけしかなかったことで、楽しみも、賢者モードもすべてが、お店に通うことでしか味わうことができなかった。

 若い頃であれば、待合室で長いこと待たされるのは、苦痛でしかなかった。しかも、他の客がいれば、何となく、

「その場が持たない」

 と思っていたことだろう。

 さらに、タバコの煙も結構ひどく、そんなに広くない待合室は苦痛だったこともあった。しかし、最近は待合室も、結構早いうちから禁煙にしてくれていたところもあったし、喫煙ルームを別にしている良心的な店もあった、

 そして待合室を決定的に楽しみにしてくれた店があり、その店では、

「他に待合室に客がいなければ」

 という条件つきの場合もあるが、女の子によっては、待合室までお誘いに来てくれるという、サプライズ的なことをしてくれる店もあったのだ。

 普通であれば、待合室から、番号札順に呼ばれ、受付か階段の近くにカーテンがあったりして、

「カーテンの向こうで女の子がお待ちです」

 とスタッフに言われて、カーテンがオープンになった時点で、

「ごたいめーん」

 ということになるのだった。

 それも悪くはないのだが、サプライズ的な待合室まで来てくれるのは、反則に近いくらいのサプライズだった。それが嬉しかったのだ。

 しかし、これも、あくまでも佐久間という人間の性なのか、これも、実はすぐに飽きてしまった。

 たとえが変かも知れないが、野球観戦が好きな人がいて、今でこそ、日本のプロ野球のフランチャイズの球場の半分近くが、ドーム球場になっているが、最初は東京ドームが開業し、数年あいて、福岡、さらに、名古屋、大阪と続々とドームができてくる。

 場所的にしょうがないのだろうが、札幌もドームである、

 さらには、埼玉の所沢では、元々、屋根なしの球場の上に、屋根を設置するという、ビックリするようなことをやっておけた球団もあった。

 最初は、

「すごい、ドーム球場だ。屋根があるんだ」

 ということで、物珍しさで見に行ったものだが、そのうちに、

「野球はやっぱり、空を見ながら、夕涼みに浸りながら見るものだ」

 という気分にもなってきた。

「フランチャイズのチームが勝利すれば、花火の演出がある」

 という球場があるが、それも、ドームの中では、どうしても、こじんまりとしている。

 花火というと、やっぱり、夜空に打ちあがる花火を見たいではないか? ドームで見る花火のバックは、ドームを支える鉄骨である。しかし、屋根なし球場であれば、天然の夜空なのだ。星がきらめいていた李、月がきれいだったりする。

「どうしても、ドームで花火をみたいのであれば、球場のマウンドのせり上がりを利用して、プラネタリウムの機械を設置するくらいの、大盤振る舞いをしたりすれば、大きな話題になりそうなものではないか」

 と思ったりする。

 花火なしでもいいから、プラネタリウムのような星がみたい」

 という人もいるかも知れない。

 それでも。ファンは、花火が見たいのだろうか?

 とは言っても、プラネタリウムだって、結局は、

「作られた夜空」

 なのだ。

 究極としては、本当の夜空にかなうものがあるはずはないだろう。

 それこそ、真理であり、ひょっとすれば、飽きがこないというものは、

「本物であれば、飽きがこない」

 ということであろうか?

 それが、本当に自分の欲するものなのかどうか、そのあたりが問題といえば問題なのであろう。

 ドーム球場は、確かに最初は物珍しく、皆で楽しもうとしていくものだが、昔の野球を知っている人間には物足りない。

 ドームのまわりは、レジャーランド化してしまって、ホテルがあったり遊園地があったりというのが、普通であろう。しかし、昔のように、ダフ屋が、

「兄ちゃん、券余ったら買うよ」

 とか、逆に、

「安く入れるから、買わんかい」

 などと言って寄ってきた時期が思い出されるというものであった。

 屋根にない球場が、懐かしく思い、屋根がなかった時は、飽きるということがなかった。とにかく野球場の中にいると、座った場所によって、打球の角度で、ホームランになるとっすぐに分かるところもあれば、錯覚して、キャッチャーフライが、ホームランに見えたりする。それが、面白かったのだ。

 ドームであれば、天井は空ではなく、金属の柱のようなものだったり、東京のように、プラスチックのようなものだったりする。次第に面白くないと思ってくるのも、無理もないことだ。

 風俗でも待合室もそうだった。

 最初は、気が急いているので、待たされていると、10分が一時間くらいに感じられ、イライラしてくるものだった。

 中には、いかにもイライラしているのか、咥えたタバコを、ぷかぷかさせる間隔が非常に狭い人もいる。

 それを見ていると、最初の頃は、

「気持ちは分かるが、他にも客がいるんだから、もう少し落ち着けばいいのに」

 と思い。気が付けば自分もイライラしているのが分かると、待たされていることに苛立ちを覚えたものだった。

 だが、そんなことが何回かあって、自分が店の常連のようになってくると、苛立っている人を見ると、気分的に見下しているように見えていた。

 マウントを取ったという意味で、別に、軽蔑しているという感じではない。

「昔は俺もあんな感じだったんだな」

 と思うと、そんな連中が、

「風俗素人」

 なのではないかと思えてくるのだった。

 ただ、呼ばれた時のホッとしたような感覚はほほえましさがあり、

「皆さん、お先に」

 というような余裕を見せているが、本当は、

「これでやっと自分だ」

 ということで、次第に、まわりのことなどどうでもいいと思ってくることだろう。

 自分も店の常連とまでなってくると、待合室にいるのが、実は楽しくなってくる。女の子と遭ってから、することは決まっているのだ。だから、それ以外に、

「今日はどういうことをしようか?」

 と、会話としての話題をどこに持って行こうかということを考えるのである。

 もう、その頃になると、いつも同じ女の子とは限らない。最初に、

「この子だ」

 と思って入った時、

「ああ、この子でよかった」

 と思ったし、最期には、

「今度はどういう話をしようかということまで決めておいて、お互いに、話題を宿題として探しておく」

 というような、約束までしているのだから、その頃は、

「一人の子で満足だ」

 と思っていたに違いない。

 しかし、そのうちに、

「本当に好きになりそうな自分がいた」

 もちろん、そんなことはダメであり、身を亡ぼすことになるかも知れないと分かっているのだが、危ないところで何とかなった。

 というのも、

「飽きが来てくれて、助かった」

 というわけだ。

 そういう意味で、飽きが来るというのも、悪い意味だけではないということを考えると、自分にとって、いい面と悪い面の両方があることを知るいい機会だったのかも知れない。

 そんな中で最初に気になっていた女の子に夢中になったのは、最初の2回だけだった。そのうちに、えっちな行為よりも、会話の方が楽しくなり、時間が迫ってきて、

「もうこんな時間だ」

 ということで、最期の三十分くらいで、ある意味ドタバタで帳尻を合わせようとするのだが、それが却っていけないのか、うまくいかないのだ。

 焦っているわけではないはずなのに、どうしようもない、きっとリズムが崩れてしまったのだろう、

 たとえば、睡眠時間を8時間は取りたいと思っている人が、結構早めに寝て、

「10時間は余裕で眠れる」

 というくらいに余裕を持っていたとして、実際には、最初の2時間くらいで眼が覚めたとすると、その後、少し余裕があるという思いから、目を覚まして、テレビでも見ていたとすると、次第に、目がさえてきて、それまでの感覚が狂ってしまい、眠れるはずのものが眠れなくなってきた。

 そうなると、後はカウントダウンで、気が付けば、後3時間もなくなってしまった。

「3時間でもいいから寝ておけば、だいぶ違う」

 と考えて、眠ろうとするのだが、そこからは焦りしかなくて、眠ることができなくなってしまう。

 時間が、次第に焦りに変わっていく、このことと、

「飽きる」

 ということとは似たようなものではないかというのは、勝手な妄想であろうか?

 飽きるというと、あまりいいイメージではなく、しかも、自分が意識してのことのように思うことから、

「夢」

 に近いものではないかと思うのだった。

 しかし、時間がどんどん減っていって、それが焦りとなり、意識すればするほど、うまくいかなくなるという感覚は、

 夢というものとは違い、意識してのことではないということから、

「幻」

 のようなものではないかと思うのだった。

 夢と幻は、実際に違うものであるが、一緒くたに考えることもあるのではないだろうか?

 つまり、

「焦り」

 と、

「飽きる」

 ということも、どこかで繋がっていて、夢と幻と一緒にして、

「夢幻」

 という言葉があるように、この二つも似たような言い方があるのではないかと思うのだった。

 そんな中で、この店の、

「クロノス」

 という言葉が、時間をつかさどる神であるのと同時に、

「全能の神」

 に似たものがあるという考えもあるではないか。

 その二つは言葉が似ているが、実際には違うものである。しかし、

「夢と幻」

 であったり、

「焦りと、飽きる」

 という言葉も、違うことのようだが、どこか一緒にしてしまうと、別の形のものになるのではないかということを、この店の名前の、

「クロノス」

 という言葉が教えてくれているかのように思えたのだった。

 そういう意味で、この間、連れてきていたのに、マスターは気づいていないような言い方だったその人を、本当にマスターは意識してないのかも知れない。

「まさか、自分にしか見えない存在なのか?」

 いや、あるいは、

「マスターにだけ見えない存在なのかも知れない」

 と思うと、マスターと自分と竹中老人の三人はトライアングルであり、

「その中で一人がいつも宙に浮いてしまっている、夢幻のような空間と時間が存在しているのではないか?」

 と思うのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る