第4話 賢者モード

「はじめまして、あやねといいます」

 と、カーテンがオープンされると、そこには、

「少しケバいのではないか?」

 と思うようなお姉さんが立っていた。

 その顔は、無表情で、軽くニコリとはしているが、落ち着いていたのだ。その表情に、こちらを興味津々で見るような感じも、変に人懐っこさも感じられなかった。おかしな言い方をすれば、

「事務的」

 にも見えなくもないが、下手に興味を持たれてしまうと、緊張しているだけに、興ざめしてしまわないとも限らないと感じた。

 もちろん、先輩から話が言っているはずだろうから、そのこともわきまえてのはずだ。

「こちらへどうぞ」

 といって、さりげなく、腕を組んできてくれた時は、正直、ドキッとしたのだった。

「だいぶ待たれました?」

 と、差しさわりのない話から入って、気が付けば、お部屋の中に入っていて、ベッドに横座りになって、世間話をしていたのだ。

「何か、飲まれます?」

 といってくれたので、

「じゃあ、ウーロン茶を」

 と答えた。

 正直、こういう店では、いきなりプレイが始まるものだと思っていたので、少しビックリした。まるで、仕事を終えて、新婚の家に帰ってきたような雰囲気が味わえたのだ。世間話であれば、緊張することもなく、できるというものだった。

 佐久間は人と話すことは嫌いでもなく、相手が女性だから、緊張するということもなかった。

 だから、普通に会話ができている自分を、

「この人、本当に童貞なのかしら?」

 と、あやねさんは思ったかも知れない。

 そう感じると、こちらも緊張が次第に薄くなってきて、待合室で感じた緊張感とは少し違った。それでも、密着して女の子がそばにいるのだから、冗談抜きの緊張感が違った形で襲ってきているのを感じた。

 当然、下半身は反応していた。

 あやねさんは、そんなことはちゃんとわかっているだろう。そばにいて、佐久間の胸のドキドキが分かっていると思われたからだ。

 なぜなら、自分で感じる胸の鼓動と、あやねさんの呼吸が合ってきているように思えた。

さすがに胸の鼓動と同じリズムであれば、息切れっぽいので、心拍数2に対して、呼吸1くらいの割合を示していたのだ。

 そのことを佐久間が分かったと感じたのか、あやねは、怪しく笑みを浮かべたのだった。

 その笑みが、妖艶に感じられ、すっかり、あやねのとりこになっている自分が感じられた。世間話に花が咲いたところで、

「じゃあ、お風呂に行きましょうか?」

 といって、服を脱がせてくれた。

 恥ずかしいという気持ちはなくなっていた。

 最初から、童貞喪失というのは覚悟の上であったし、このあたりの流れは頭の中でシミュレーション済みであった。

 だからこそ、そこから先は、彼女の流れにしっかりと乗ることができ、違和感のない時間を過ごすことができた。

 童貞ではなくなった瞬間、正直、

「こんなものなんだ」

 という思いがあったのも、事実だった。

 ただ、それが、今まで、ずっと一人で悶々としていたこと。そして、我慢できなくなったら、自慰行為をしていたことなどから、比較してしまうのだった。

 確かに、一人だと、自分のリズムで自由なのだが、やはり、相手がいるのといないのでは、まったく違ってくる。肌のぬくもりというのは、快感のレベルというよりも、寂しさを埋めてくれる、癒しという意味でも、最高のものだった。

「身体が重なることの快感については、こんなものかと感じたが、それは、自分が賢者モードに、気づかないうちに入ってしまったからなのかも知れない」

 と感じた。

 賢者モードは、自慰行為の時に散々感じていることなので、予感はしていた。しかし、「さぞや相手がいると、自慰行為とはまったく違った感覚なんだろうな」

 と感じていたのだが、思ったより、近しいものだったことに、少しビックリしたのだった。

 賢者モードに関しては、覚悟はしていたもで、あまり気にならなかった。ただ、自慰行為に比べて、相手の肌を直接感じるということに、正直違和感があった。

「あやえさんに悪い」

 とは、思ったが、肌を感じてしまうと、急に鬱状態に陥ったような気がしたのだ。

 これが、自分だけのことなのか、それとも男なら皆同じなのか、そのあたりが気になるところではあった。

「どうせ、童貞だって分かっているんだから、聴いてみるか?」

 と思って、疑問をあやねさんにぶつけてみた。

「うーん、そうね。私は女なので分からないんだけど、他の人も、いった後には、身体を触ると嫌がる人は結構いるわ。でも、これも、個人差なんだけど、少しの間、時間を取ってあげると、次第にその敏感な身体が落ち付いてきて、ちょうど心地よい時間が来るらしいの。男の人も、触ってほしいって思うらしいのよ。でも、そんな時が来るまで、身体に少しでも触れると、くすぐったいといって、反射的に身体をそらす人もいるらしいわ。それはそれで、可愛いんだけどね」

 といって、あやねさんは、舌を出して、おどけた態度を取った。

 そんなところが、あやねさんの魅力なのだろう。

 あやねさんは確かにおねえさん肌の頼りがいがありそうな人なのだが、時折見せる少女のような純粋さが、本当に魅力だった。

 さらに、吸い付いてくるような肌のきめ細かさと、包み込んでくれる快感は、しばらく忘れられなかった。

 調子に乗って、それから、何度か、あやねさんに通ったものだった。まだ大学生という身分なので、そんなにしょっちゅうというわけにもいかないが、あやねさん目当てで、必死でバイトをしたものだった。

 だが、それも、何度かあやねさんに通い詰めると、急に自分が冷めてくるのを感じたのだ。

「こんなものだったのかな?」

 と感じたのだ。

 通うたびに、嬉しくなって、

「また来よう」

 と考えるのは、最初の3回くらいまでだった。

 それ以降は、何か物足りなさのようなものがあり、

「必死でバイトをしてつぎ込むほどのものなのだろうか?」

 と、考えさせられた。

 確かに、あやねさんは、

「痒いところに手が届く」

 というような、気遣いができる人だった。

 先輩が、

「童貞なら、彼女に入っておくのが間違いない」

 といっていたことが、よく分かった。

 だが、それも、3回目までだったのだ。

 どうして、急に冷めてしまったのか、すぐには理由がわからなかった。しかし分かってしまうと、

「どうして、こんな簡単なことにすぐ気づかなかったんだろう?」

 と思った。

 考えられるのは、

「そんなことを感じることが恥であり、悪いことなのだ」

 と思っていたからだろう。

 それを、

「あの父親から生まれた俺だから、こんな気持ちになったのだろうか?」

 とその頃から、父親の偽善者的なところに嫌気が刺し始めていたのかも知れない。

 どうして、急に冷めだしたのかというと、それは、単純に、

「飽きた」

 からであった。

 どんないい女でも、何回も抱けば、飽きが来るというものではないか?

 ことわざでもあるではないか、

「美人は三日で飽きる」

 とである。

 そんなことに気づき始めると、

「自分の味覚が肥えてきた」

 という感覚になってきた。

 それとも、思春期の時代に、あまりにも、ハードルを上げすぎたのかも知れない。

「セックスというのは素晴らしいものだ」

 ということである。

 正直、相手のいることであり、相手との相性だってあるだろう。自分がしてほしいことを確実にしてくれるわけではない。何十回、何百回と抱き合ったとしても、どこまで相手のことが分かるというのだろうか?

「分かる前に飽きの方が先にくるんじゃないか?」

 といっていた人がいたが、まさにその通りだ。

 しかも、一度、その飽きを我慢してしまうと、余計に飽きがひどくなる。たとえは違うかも知れないが、

「トイレに行きたいのを何とか我慢していると、今度は、すぐに行きたくなる」

 という感覚と同じではないだろうか?

 確かに、一度我慢してしまうと、後は、10分も持たないなどということを聞いたことがあったし、自分でも経験があった。

 だから、学校でも、授業の前には、必ずトイレには行くようにしている。要するに、

「我慢は身体のためにも、精神的にもよくないことだ」

 トイレがくせになってしまうのは、肉体的な面よりも、精神的な面の方が大きいのかも知れない。

 そんなことを考えていると、

「美人は三日で飽きる」

 といっていた言葉を思い出した。

 確かに、美人を抱けると、むしゃぶりつくくらいの感覚になるだろう。

 しかし、実際に満足してしまうと、男には、

「賢者モード」

 というのが訪れる。

 男は、一度、性欲を吐き出してしまうと、そこで、急に我に返るのだ。身体は萎えてしまい、興奮状態から遠ざかってしまう。

「性欲の塊」

 で一戦交える気持ちでいくと、賢者モードに入った時、どうすることもできない。人によっては、鬱状態に陥ってしまう場合もあるようで、話しかけられるだけで、露骨に嫌な顔をする男もいるだろう。

 それが、最初、性欲に身を任せるかのように、がっついてくるような相手だったら、余計にそのギャップはひどいだろう。

 身体のどこかを触ろうものなら、敏感になりすぎて、中には、身体がピンと張ってしまう人もいるかも知れない。

 そうなると、賢者モードは最高の状態に陥って、お互いに、男女との、気まずくなってしょうがないだろう。

 だから、AVなどでは、男が果てた後、タバコを吸いながら、瞑想にふけっているような様子を見ることができる。あれは、賢者モードになっている自分を何とかもたせようという気持ちの表れなのではないだろうか?

 中には、服を着て、さっさと帰ってしまうような男もいたりする。

 女の子の場合は、満足感が強くなるようで、果てた後の、けだるい時間も、楽しみの一つだと思っているだろう。

 スポーツで、心地よい汗を掻いたというくらいの気分に違いない。

 だから、女の子は気分的に寂しくなりそうなので、男にすがろうとするのだが、男は、触られるだけで気持ち悪い状態なので、無言で、

「近寄るな」

 というオーラを出しているに違いない。

 これが、男と女の、性と言えばいいのか、これだけ違うのには、何か意味があるのかも知れない。男女の間の不思議なことは結構解決されてきているが、そのほとんどは理由のあることで納得がいくものである。この賢者モードも、男女関係の中で、悪いことだけではない、

「何か、いいことへの意味があるのではないか?」

 といえるのではないだろうか?

 ただ、賢者モードにも慣れてくるという、状況があった。そのうちに、身体が相手に慣れてくるのか、果てた後のあの感覚に慣れてくるのか、きっと、最初は戸惑いのようなものが、身体にみなぎっていたのかも知れない。

 それが、

「慣れていなかった」

 ということで、身体が敏感になることが、どういうことなのか、自分で分かっていなかったということでもあったのだろう。

 正直、最初はビックリした。あれだけ、身体が興奮で高ぶっていて、

「ああ、あそこを超えると、天国に行けるんだ」

 というような気持ちだったのかも知れない。

 果てた後に見える光景がどんなものなのか、勝手にいろいろ想像していたのに、果てた後襲ってきたのは、けだるさだけだったのだ。

「これだったら、オナニーと一緒じゃないか?」

 と、ショックと一緒に落胆が襲ってきた。

 一人で興奮しているのは、ムズムズを我慢できないからであり、男としての本能が、なせる業だった。

 だが、相手がいて、セックスをすれば、この快感はもっとすごいものに違いないと思っていた。だって皆、

「オナニーの比じゃないぜ。女の中に出したら、こんなに気持ちいいことはない」

 と経験者(いや、自称:経験者なのかも知れないが)が、そういうのだから、信じてしまうのも当たり前のことだった。

 そういえば、賢者モードというと、今までにも味わったことがあった気がした。

「そうだ。パチンコをした時のことだった」

 佐久間は、大学に入ってから、パチンコを始めた。それ以外のギャンブルはすることはなく、その時に手を出さなかったギャンブルは、今でも手を出すことはない。

 ただ、パチンコと同類という意味で、スロットは少しかじったが、これも、パチスロという意味で、同じものだととらえていいだろう。

 佐久間は、これをギャンブルという捉え方をしていない。趣味だと思っている。

 そういう意味で、風俗遊びも趣味だと思うようになった。ギャンブル性のあるものでも、むきになったり、深入りしなければ、趣味の範疇でいいのではないだろうか?

 佐久間がパチンコに嵌ったのは、最初の頃に、爆当たりしたというのもあるのだが、やはり、

「演出のすばらしさに魅了された」

 といっていいのではないだろうか?

 今のパチンコは、リーチがかかりそうなところを、微妙にかからず、連続演出が発生すれば、チャンスなのだ。

 激熱な演出続出し、さらには、オーラの色で期待度が決まってくる。

 しかも、数年前までは、赤保留だと、激熱と言われていたが、今では結構外れたりする。それだけ、他の激熱演出と絡んでいないと、当たらないということだ。

「以前なら、ハンドルが震えれば、ほぼ当たりだったのに、今では、ハンドルが光らないと、結構外れたりするからな」

 というように、一つでは弱いのだ。

 それだけ、パチンコを打っていて、リーチがかかるまでと、かかってからの演出を見逃すことができないというもので、中には、連続演出が発生してから、当たりが確定するまで、1分近くも演出を見せられることもある。

 もちろん、台によっても違うし、演出によっても違う。何しろ、同じ台でも、ノーマルリーチでいきなり当たるということも平気であったりするからだ。

「あれ? 当たっちゃった?」

 と、嬉しいのだが、拍子抜けした気がして、苦笑いをするしかない場合だって結構ある。

要するに当たればいいのだ。

 しかし、逆に言えば、どんなにすごい演出を見せられても、外れてしまえば、ショックは大きい。

 急に我に返った気分になって、

「ここまで打ってきて。会たる思っていたのに」

 と感じるのだが、本当は一緒に違うことを考えている。

「ああ、この次のチャンスは、一体いつ来るというのだろう?」

 と考えるのだ。

 パチンコには、大当たり確立というものが、表示されている。229分の1とかいうあれである。

 だが、パチンコというのは、

「完全確率性」

 を採用している。

 これは当然のことなのだが、299分の1の確率を普通の確率として考えると、大当たりの次に当たらなければ、298分の1になるかというとそういうことではない。

 なぜなら、この確率であれば、

「299回転させれば、その間に確実に当たる」

 ということになる。

 そういう意味で、パチンコ台には、

「前の大当たりから、今、何回転している」

 という表示があると思っていたが、あれは、ただの目安にしかすぎない。

 つまり、パチンコというのは、当たらなければ、

「何回回しても、確立は、299分の1でしかないということだ。それを完全確率性というのだ」

 ということである。

 この理屈の説明であるが、おみくじを例にすれば、分かりやすいかも知れない。

「おみくじでも、筒状の棒を引いて、その番号のくじが当たるというやり方d考えればいいわけで、一度引いた棒を、表に出しておくか、それとも、元に戻すかということを考えれば、分かりやすいだろう」

 要するに、

「299の棒が入っていて、1本だけに当たりと書いてある。それを引いて、外れが出れば、それを元に戻さないと、確率は298分の1になる。逆にいえば、中の棒がなくなるまでの、299回最高でも引けば、それまでに、必ず当たるということになる」

 しかし、一度引いた外れを元に戻すと、

「ずっと、299の中から1を引くという、確率的にはまったく変わらない」

 ということになるのだ。

 これが、パチンコでいうところの、完全確率なのである。

「じゃあ、永遠に当たらない可能性だってあるじゃないか?」

 と言われ、

「ああ、そうだよ。一日中回して、2000回転させたとしても、当たらないなんてこと、結構ある。sりゃあ、そうだろう。ずっと確率は変わらないわけだからね」

 と答えると、

「ああ、あの299分の1というのは、どういうことなんだい?」

 と聞かれて、

「あれは、単純に回した回数から、当たりの回数を割った値の大体の目安さ。機械メーカーが、大体、それくらいの確率で当たるような機械をあらかじめ作っておくというわけさ。だから、ひょっとすると、100回転させる中で、3回大当たりするかも知れない。そうなると、大当たり確立は33分の1だろう? 機械にだって波があるわけだから。それを何度も時間をかけてやっていると、次第に表示の確率に近づいてくるというわけだ」

 というではないか。

 これは、パチンコ番組で、パチンコの確率について、視聴者に分かりやすく説明するための件であった。

 もちろん、文字だけではなく。図解や実機の演出などを交えて話すので、もっと分かりやすいことだろう。

 しかし、おみくじのたとえが確かに一番分かりやすいもので、パチンコをしたことのない人でも、理屈くらいは分かっただろう。

 パチンコをかじったことのある人は、ほとんどの人が勘違いしているだろう。いや、分かっているのかも知れないが、実際にやっていると、299分の1の確率の台をやっていて、

「今、200回転を超えたところだから、もう当たってもいい頃だ」

 と考えることだろう。

 しかし、これも確率で、他の、大当たりして、すぐに客が離れた台には座ろうとは思わない。

「そう簡単に当たるわけもないからな」

 と感じるからだ。

 つまり、当たるかあるいは、大チャンスといえるリーチが来るまでは、都合よく、

「そろそろ当たる」

 と思うのだが、大チャンスを外してしまうと、

「おいおい、今日は当たらないじゃないか?」

 と、パチンコが完全確率だったことを思い出すのだ。

 それが、

「我に返る」

 ということで、下手をすると、その時に、

「賢者モード」

 に陥ってしまうということになるのだった。

 そういう意味で、

「賢者モード」

 になるということは、

「我に返るということと、同じ意味なのではないか?」

 と感じるのだった。

 男が最高潮の興奮の中で、女の中に果てた場合に起きる賢者モード、それは、我に返ることだと思うと、それなりに納得がいく気がする。

 興奮そのものが、本能であり、欲望なのだ。欲望も本能も、夢まぼろしの世界にいることができるから、追い求めるといってもいいだろう。しかし、それが達成されてしまうと、我に返る。しかも、人間には羞恥心であったり、理性のようなものが備わっている。我に返った瞬間、

「待ってました」

 とばかりに、羞恥心や理性が襲い掛かってくる。

 本能や欲望が達成された後に、すかさず入り込んでくる、羞恥心と理性、それこそが、賢者モードの正体ではないか?

 こうやって冷静に考えれば、分かってくるものだ。

 子供の頃から、

「エッチなことや、見てはいけないという本など、大人が隠せば隠すほど、子供は興味を持つものだ」

 といえるだろう。

 R―18であったり、未成年者は見てはいけないなどと言われると、見たくなるのが子供であり、それを好奇心というのではないだろうか?

「好奇心旺盛なのはいいことだ」

 と言われていたのに、どうして、エッチなことは、ダメだというのか、特に思春期には、嫌でも見てしまうのが、エッチ本だったりする。

 法律では禁止なのだろうが、あくまでも建前。

「エッチ本やAVを一度も見たことがない」

 などと言って、大人になるまで、本当に見たことがない人間なんて、希少価値であろう。佐久間も、童貞ではあったが、オナニーだってしていたし、エッチには大いに興味があった。

 ただ、機会に恵まれなかったのと、タイミングの問題だったというだけのことだったのだ。

 賢者モードになるというのは、確かにオナニーで分かっていた。その時、

「我に返るからだ」

 ということも分かっていたような気がする。

 それはなぜかというと、

「果てた後、寂しくなるから」

 だったのだ。

 だから、余計に、女の子をした後であれば、一人じゃないから、

「賢者モードになることはないだろう?」

 と思っていたが、逆だったのだ。

 逆というか、相手が寂しがっているのを、こちらは、構ってあげられるだけの気力がないというか、どうして自分が、そんな心境になるのか分からないほどに、オナニーの時とでは、まったく感覚が違うのであった。

「そんな賢者モードから一体いつになったら、離れることができるのだろうか?」

 と、考えたが、それは、実際に自分が男である以上、無理なことだった。

 パチンコでは、果てしない大当たりまでの道のり、

「永遠に当たらないかも知れない」

 ということが我に返ったことで分かったことで、賢者モードに陥った。

 つまり、賢者モードとの決別を考えることが無理なのだとすれば、

「いかに京善できるかということにかかっているのだ」

 それを、

「ウィズ賢者モード」

 といっていいのかも知れない。

「ウィズコロナ」

 などという単語にもあったようにである。

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