第3話

 だたん、と大きな物音と右半身に伝わった痛みで意識が覚醒した。眉間に皺を寄せながら薄く目を開ければ、いつの間にか薄い白い光が細くブラインドから差し込んでいた。部屋はしんと静まり返っている。床から起き上がって伸びをすると、身体の内でごきごきと音がたち身体が軋んだ。

 午前六時半。

 なかなか良い時間に起きられたと思いつつも眠気という超重量が瞼から降りる気配がない。解けかけのぼさぼさの髪はそのままに、デスクに置きっぱなしだったマグをとってドリップマシンに向かう。つい三時間ほど前まで黒いカフェイン飲料を湛えていたマグには渋がついていた。

 最近はカフェインに慣れてしまったのか、コーヒーを飲んでもあまり目覚ましにはなっていない。だからといってカフェインたっぷりのエナジードリンクを飲むわけでもなし、とどのつまり私はコーヒーを飲むということが習慣になっているだけだ。実際コーヒーの良し悪しなぞ分かりはしないし、このドリップマシンが新品であろうが中古の壊れかけだろうが『コーヒー』が出てきさえすれば私は構わないのである。なら、インスタントコーヒーではなくなぜわざわざドリップマシンを使っているのかというと、それはただ譲り受けたからに他ならない。

 ざばざばと水を入れ、コーヒーの粉をフィルターの上にスプーン一杯落とし込み、案山子のようにドリップマシンの前に突っ立って出来上がるのを待つ。事務所の冷蔵庫にとっくに氷がなくなっていたのでホットだ。最近暑くなりだしたから本音はアイスの方がいいのだが、ないものを欲しがっても仕方がない。事務所に染み付いたコーヒーの匂いをさらに強くするように、マシンがコーヒーを抽出しだした。

 ぐらぐらと湯が沸く音とコーヒーが落ちる音。それだけが布で仕切られた給湯スペースに響き、瞼がどんどん重くなってくる。昨日、いや今朝は少し根を詰めすぎた。昔からそうだが、夢中になるとつい時間を忘れる節がある。しかし人の数だけある、人の持つ深さに魅入られてしまった私に時間なんていくらあっても足りないものだった。

 がく、と一瞬意識が遠のき、はっとして頭を振る。三時間睡眠は中途半端だったか。いやしかし、……と考えるうちに靄の中に入りこんだように、どんどん思考の輪郭が曖昧になっていく。もう一度強めに頭を振ってドリップマシンを見るとコーヒーが湯気を立ててカップに溜まっていた。このまま一気に飲み干せたら、と思いつつ、私はマグを少しだけ傾ける。

 

 

 ——————————

 

 

 午前八時十七分、雨。

 駅から徒歩数十分圏内のマンションの四階から細い煙がたなびいていた。夏が近づいてきたとはいえまだ雨が降れば肌寒いこの季節に、音無郁は薄いタンクトップとジーンズという出で立ちでベランダに寄りかかっていた。手すりには灰皿とライター、キャスターホワイト。下の道路を偶に通り過ぎる郵便のバイクを眺めながら、息を吸うのと同じ要領で煙草を口にあてがう。雨にけぶる鉛色の街にさらに白い煙を足して、音無はゆっくりと瞬きをした。

 八重山澪と会ってから、およそ一ヶ月が経っていた。それはつまり、佐倉八重と会えなくなってから一ヶ月が経ったということでもあった。音無は日毎に喫煙の回数が増え、一ヶ月前には元同居人の吸殻のみがあった灰皿に、それを覆うほどの灰が積もっていた。捨て時とは思うものの、佐倉の居た痕跡がここにまだ少しだけ残っていると思うと音無は灰皿を綺麗にできなかった。もうフィルターだけになった吸殻を灰皿に擦り付けるともう一本煙草に火をつける。そして空いた手でスマホを開き、もう何回見たか分からないメッセージアプリを起動させた。何度も連絡先の一覧をスクロールしても目当ての名前は見当たらない。失意のままスマホをポケットに戻して手すりに頬杖をつくと、無意識に右耳に手が行った。

「……はぁ」

 ここの一ヶ月はインターンやバイトや課題に追われていてすっかり忘れていたが、音無は八重山の事務所に赴かなければならないことを思い出した。今日は久しぶりの全休で、のんびり煙草を吸ってどこか買い物にでも行こうと思っていたが、生憎の雨で暇を持て余していたのだった。眼前の街に降り注ぐ雨はちっとも弱くなる兆しが見えない。音無はこの雨の中新宿の事務所まで行くのが億劫になった。しかし背に腹は変えられない。音無は昼頃向こうに行くことを決めて、まだ九時にもならない今は、この雨模様に心を寄せていようと思った。

 

 

 ゴミ出しを終え、久方ぶりの掃除を終えた頃にはいい時間になっていた。灰皿は、これからのことに期待してすっかり空にした。寝癖と湿気で暴れる髪をどうにかいなし、落ち着かせ、普段と相違ない姿にすると音無は満足げに息を吐いた。その他支度を済ませて靴を履くと傘立てから適当に一本引き抜く。三本あるうちの二つはビニール傘で、音無が手にしたのもそれだった。音無はドアを開けようとして、ビニール傘を持ったまま立ち止まった。静かに傘立てに残った布製の傘を一瞥する。

 傘立てにはビニール傘が二本残された。

 山手線に揺られ、誰かの傘で服が濡れる不快感に若干顔を顰めつつ新宿に降り立つ。新宿の雑踏は雨でも相変わらずで、音無は適当に駅前をぶらついて喫煙所を探した。駅前は綺麗だから、そこら辺で適当に吸おうものなら途端に白い目を向けられる。それに世間は喫煙者に風当たりが強い。もしここが渋谷のセンター街なら誰も見向きもしないだろう。通りの汚れようを見れば納得がいくはずである。さて、音無はマップの案内に従って高架下の喫煙所にたどり着くと、煙草を取り出しふっと煙を吐いた。時間帯のせいか、喫煙所には人があまりいなかった。音無はあっという間に一本吸い終えると二本目を咥える。これから人と会うのだし、もしかして煙草は控えたほうが良かったかと思ったが後の祭りである。既に喫煙所の中だ。おまけに朝もたっぷり煙を吸った。音無は、まあ、喫煙者が煙草をたった一人人間と会うためだけに我慢できるわけがないし、などと心の中で適当に言い訳をして、じりじりと煙草の葉を焦がした。

 かり、と右耳にある硬い感触が指先に伝わる。音無は自分の意識しないうちに、煙草を吸う時には必ず右耳を触る癖がついていた。ちゃらちゃらとピアスで遊びながら、ふとまっさらな左耳が気になって、ぐっと耳朶をつまんでみた。佐倉は右耳だけにいつもピアスを通させて左耳には一切針を通そうとはしなかったのだ。右耳だけが金具に覆われていくのに左耳だけが穴すら空いていなくて、それを不思議に思いながらも音無も自分から開けてもらおうとはしなかった。佐倉の左耳には、しっかりとピアスが通っていたから。

 急に胸が締め付けられるようになって、音無はぐっと左耳に爪を立てた。左耳にもピアスを開けたくなった。あの太いニードルで、佐倉に、耳の軟骨を貫いてほしいと願った。今はあの痛みさえもが懐かしくて、愛おしかった。だが今はいくら願っても無駄である。今は。

 音無は煙草のフィルターを噛んだ。

「……絶対、見つけて……話してもらうんだから」

 音無の独り言に、煙草を咥えてスマホをいじっていた男が怪訝そうに顔を上げたが、男は興味無さげに煙を吐くとまた顔をうつむけてスマホをいじりだした。音無は甘ったるい煙を肺いっぱいに吸いながら、今のピアスホールを塞いでしまってもう一度穴を開けるかどうか少し考えた。しかし次いつ会えるかわからない佐倉が折角自分につけた痕を消すのは勿体ない気がしたからやめた。灰は捨てたのにな、と自嘲的な笑いが込み上げた。とはいえ、灰皿の灰と右耳のピアスでは天と地とまでは言わずとも大層な差がある。なにせ身体に開けられた穴と使い回しの灰皿の灰、どちらにより価値を感じるかといえば間違いなく前者だろうからである。

 音無は喫煙所を出た。激しい雨は未だ止まず、たっぷり水を吸って重くなったスニーカーは歩く度に水が染み出した。

 

 

 ————————

 

 

 コンビニへ買い出しと気分転換を兼ねた軽い人間観察を終えると、見覚えのある緑髪が事務所に見えているのに気づいた。経理が伝えるより先に彼女はこちらを向いた。

「やあ、お待たせした。必ず来てくださると信じていましたよ」

 笑みを浮かべてそう言ってみせると、音無郁は元々来る約束だったなどと話して目を逸らした。大方思ったより間が空いてしまってきまりが悪いのだろう。買い物をした袋を適当に経理のもとへやっておくと、事務所にコーヒーとは別の、甘い香りが仄かに漂っているのに気が付いた。これには覚えがあった。音無がよく吸う銘柄の甘い煙草の匂いだ。しかし前会った時より強くなっているのはこの一ヶ月で喫煙量が増えたからだろう。コンビニに繁く通う彼女とベランダから吐き出される煙の回数を見ていれば判る。それとここに来る前にも喫煙所で煙草を吸っていたのがわずかに別の煙草の匂いがしていることから推測できた。この一ヶ月で大層煙草を気に召したらしい。

 音無郁という人物は真面目で大人しく、物静かで内向的な性格であり、人懐こくはないが特段初対面の相手を敵視したりするような人間でもなく、どちらかというと友好的に接する人物だ、と私の信頼する情報たちはそう言っている。だが私に対しては例外なようで、あの夜声を掛けた時から態度も愛想もよろしいとは言えない。つっけんどんだったり、私に敬語を一度たりとも使ったことがなかった。別に私は初対面や年上に対して敬語がどうのと気にするたちではないからいいのだが、何となく柄にもない説教をしてしまいそうなのが嫌だった。付け足しておくと、音無郁にはそれなりに頑固なところがある。一度決めたらそうそう意思を変えない。最初会った時から私には警戒心を強くしておくことを決めたのであろう。私のもうひとつの職については知る由もないだろうが、自分に害を与えかねない存在だとでも直感か何かで感じたのか初めて会ったときからこれである。通算で数えればまだ三回しか会ったことがないが、これから相談や報告を繰り返すうちにもう少し柔らかくなって欲しいものだ。柔らかくなってくれればそれだけ、中身を覗くことができる機会が増えるのだから。

「さて。改めてようこそ、我が探偵事務所へ。コーヒーしかありませんが、どうぞ」

「……どうも。……」

 音無は私の歓迎の言葉を軽く会釈して流すと、静かにコーヒーを引き寄せた。甘党だからスティックシュガーをこれでもかと入れ、一口飲んでまた一本足した。コーヒーフレッシュは二つ入れた。見ているだけで胃もたれしそうなほど甘くしたコーヒーをゆっくり飲みながら、私が話すのを待っているようだった。私も今日何度口にしたか分からないコーヒーをもう一度飲み込むと、話を切り出した。

「改めて依頼内容を確認いたします。調査対象は佐倉八重、突然家を出ていったきり音信不通、居所が不明。なので対象の捜索と、佐倉八重と関係があるらしい男の素性調査————ですね?」

「合ってる。その男に関しては、話でしか聞いたことなくて顔すら見たことないんだけど……」

「本当に佐倉さんと関係があるんですか、それは。嘘だとかごまかしの類ではなく?」

「サクが私に嘘————嘘なんて、つかないよ。ちゃんと、他の人からも聞いたし……」

「噂話程度なんですね?一応頭に留めておきます」

 話を進めていくと、こうして相談されるより前から自主的に調べていたのもあって、当たり前に知っているようなことばかりが出てきた。例えば、

「サクのバイト先?ええと……駅前のレストランと、カフェと……」

 知っている。

「サクの地元は四国だったかな。確か、香川だっけ」

 知っている。なお、その情報は虚偽であることも判明している。

「サクがよく行くのは————」

「好きなものは————」

「必ずしていた事————」

 一応全て知っていることは話してもらったが、その全てが私の情報網に引っかかった事柄であった。そうして話をよく聞いているうちに音無はその濃い藤色の瞳に懐旧と悲嘆の色を溜めていった。うちに依頼しにやってくる客の大半は怒りを滲ませながら話すので、なんだかそれが新鮮に思えた。そのような顔を久しぶりに見たような気がした。

「佐倉さんが好きだったんですね」

 気づけば口をついて出ていた。音無は俯けていた顔を上げると、「本当に」とだけ言った。話を聞くに、どうやら音無は佐倉に相当惚れ込んでいたようで、言葉の節々に佐倉を過信するようなところが散見された。この子は自分が好きなものを過度に信頼して絶対と思い込む癖でもあるのだろうか。少し興味が湧いた。確か音無はアニメやアイドルだったりのファンというのは聞いたことがなかったから、間近にいた眩しい存在に当てられてくらりと落ちてしまったのだろう。元々熱狂的なファンになる素質があったのだ。少々行き過ぎとも思える高額な誕生日プレゼントの話を聞いてから確信した。そんな音無を指先でつついて転がし遊ぶようなことを佐倉はやっていたようだ。その気持ちは確かに分からなくもないが……。

「成程おおよそのことは分かりました。それで、これは依頼者全員に聞いていることなのですが。音無さんは、その佐倉八重と会って何がしたいですか?」

 怒る、とっちめる、連れ戻す、等等……並べてみたが、音無はそのどれもに当てはまらないと首を振った。

「まずは、なんで出てったのかだけど……正直、自分でもどうしたいか分かんない。今はただ、サクに会いたいだけ」

 なんだそれは、と思わずため息を吐きそうになったのをコーヒーを飲むことで誤魔化す。ここで絶対連れ戻すだとか勢いの良い言葉を吐いてくれれば一悶着が見られるかと期待できたがそうはいかなかった。特に日常に不満はなさそうで、しかし行先を教えず急に出ていった人間と自分のために取り戻したい人間の一悶着や二悶着は酒の肴にならないにしても満足はできそうだったのに、とつい再びため息を吐きそうになった。だが、いやいや分からないと言っているのならまだチャンスはあるさと己を鼓舞して、私はコーヒーを飲み干す。それに、佐倉八重に関しては調べているだけでも何やら不審な点が多く調べがいがある。のツテや情報網を使っても未だ特定しきれない情報があるのが妙だが、これはこれで長く遊べる玩具を貰ったようなものだからあまり気にせずにいた。嫌な予感はするが私は好奇心には勝てないのだ。

 音無を帰すと、私はしばらく書類の整理をした後事務所を出た。まだ日は出ているが雨雲で薄暗い街を歩くと、ぱらつく雨の雑踏を五百円くらいの透明傘でかき分けて迷宮と名高い新宿駅にするりと進入した。入るのは易いが目的の出口に辿り着くのが困難なここには、いつでもスマホと睨めっこをする迷子がよく見られる。今日もどこぞへ観光にでも行くのかフランス顔をした男女数人が御苑に近いのはどこの出口だの、眠いだの、歌舞伎町で昼食をとりたいだの言っているのが聞こえた。一度覚えたことは中々忘れない私の優秀な頭脳は、たといフランス語を聞いたのが何年も前であったとしてもそつなく彼らの言葉を聞き取ることができた。

 そんな彼らに特に声をかけるでもなく、改札を抜けると上野に向かう。いちいち乗り換えが面倒なので一本で行ける山手線に乗って、そのまま二十五分揺られると自動音声が『上野』と知らせた。観光客たちと吐き出されるように電車を降りる。上野は傘が要らなかった。

 上野で約束していた人物と会うと、大変口の軽くおしゃべりな情報通だということが分かったので、自身に振られた話をそれとなく躱しながら欲しい情報だけをピックアップした。ああいうタイプは一人でもグループに入れておくと勝手に情報を集めてきて勝手に披露してくれるので非常に便利である。もちろん自分で集めることの醍醐味はあるが、全てやろうとすると流石に身体と時間が足りない。使えるものは使っておくことに越したことはないし、誰だってそうするだろう。彼女の友人面をするのがやや面倒だが致し方あるまい。その後もネットカフェで仕事をこなしたり捜索を続けていると時刻は午後八時となっていた。雨はすっかり上がり、新宿の眩しい営みの光は水溜まりに反射する。事務所に戻る前に、歌舞伎町で人間観察と洒落こもう。そう決めて賑賑しい歓楽街に足を踏み入れた。

 見慣れた客引き、引かれる客、見回りの警察官、潰れたサラリーマン。毒々しいほど強い街の明かりは同時に影も色を濃くする。路地裏を覗けば、見慣れた取引相手、唇から血を流すキャバ嬢、この街に溶け込んだ幼い子供、界隈では有名人の裏社会の人間。今日も相変わらずだ。まずはどこか寄って一杯————。

 ぐん。

 突然強い力で路地に引き込まれ、咄嗟に腕を振り払おうとすると背中に何者かが乗る感覚。首筋に冷たいものを感じ、反射的に相手の腕を掴んで引き離すと、後部にあるであろう敵の頭に向かって頭突きを食らわせる。腹に絡みついていた脚の力が弱まるのを感じ取ると敵の脇腹に肘を突き込み、私から完全に離れたところで掴んでいた腕を振って相手を投げ飛ばす。私の背中に乗ってきた時点で相手が小柄なのは分かっていた。それにこれは昔、嫌というほど目にしていたやり方だったから。

 投げた手応えは軽く、相手は暗闇の中でしっかりと着地する音がした。私に使ったナイフは落とさずしっかりと相手の手に握られていた。

「なんだ、意外となまってねぇみたいだな」

 聞き覚えのある粗野な物言いが空気を揺らす。私は驚くことこそしなかったが、彼女がここにいるのがただ疑問だった。かつて飽きるほど見ていた、暗闇に浮かぶ朱のまなこを見つめ、言う。

「何をしに来た?————冬華」

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ピアスホールは埋まらない 只森戯狼 @kagumo_giro

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