第2話

 くそう、なぜこんなにも金がかるんだ。

 別の探偵事務所で依頼の見積もりをしてきたけれど、なんというか、舐めていた。人探しと素性を調べるだけでこんなにかかるのか?一番評判がいい探偵事務所にとりあえず足を運んでみたはいいものの、事務所がでかいせいなのか価格も価格だった。今度はしっかり安価で評判がいい場所を探すことにしよう。ビルから出た私はそのまま適当なフランチャイズのカフェに入った。幸運なことに、昼時にも関わらず店内は空いていた。

 新作の看板が出ていたフラペチーノと、追加でレモンケーキを頼む。お昼だしなにかサンドイッチでも食べようかと思ったが、変な時間に朝食をとってしまったのでケーキにしておいたのだ。それに甘いものはどれだけあっても困らない。クリームとキャラメルソースがたっぷりかかったそれを吸い込みながらケーキを口に運べば、とりあえず今までのモヤモヤなんかはすっかりなくなってしまった。我ながら単純だと思う。

「お隣、よろしいですか」

「どうぞ」

 聞かれて反射的に答えてしまったが、席なんて他も空いてるのにわざわざ隣なんて、と声のした方向に顔を向ける。途端、口が勝手に「うわ」という声を出した。正直少し気味が悪い。いや、かなり。

「今朝はお電話ありがとうございます、音無郁さん。いや、朝というより午前と表現したほうが合っていますかね?」

「……なんなの。もしかして尾行でもしてる?」

 初めて会った時と同じ、嫌な雰囲気の笑顔をその整っているだけの顔に浮かべて、八重山澪が平然と隣の椅子に座っていた。カウンター席だから当然テーブルは繋がっているし、椅子を寄せようと思えば距離も近くなる。気色悪いと思いつつ私は身を引いて距離をとった。隣にはアイスコーヒーが増えていた。

「変なことを仰りますね。いえ、たまたまカフェに入っていくのが見えたんですよ」

 だとしてもついてきてわざわざ隣の席に座るか?私はぐっとフラペチーノを吸い込むと、また湧き上がったモヤモヤを一緒に飲み込んだ。やっぱり糖分にはストレスを軽減する機能があるんだろう。ありがたい。でなきゃさっさと席を立っている。なにはともあれ、用向きはなんだと尋ねると八重山はのんびりした手つきでテーブルのアイスコーヒーを取った。

「そう警戒せずに。真面目な話をしにきたんです、私の事務所のことを少し知っていただきたくてね。参考にはなると思いますよ」

 高いでしょう、あそこ。今しがた出てきたビルの方向に顔を向けて八重山はコーヒーをすすった。私ももう一度ストローに吸い付きながらビルを見る。担当として出てきた男がパンフレットと電卓を差し出してにっこりと微笑んでみせたのを思い出して、また不快感が込み上げた。あの目は金蔓としか客のことを見ていないんじゃないかと思った。こう、客との信頼関係を甘く見てるんじゃないか……とも思ったけど、そうであったならあんな沢山の調査員を抱えて経営するほど儲かってないな。少なくとも目の前にいるこいつの経営する事務所よりは大きいだろうし。そんな失礼なことを考えているのが伝わったのか、八重山はちらりとこちらを見た。

「貴女が今何を考えてるか当ててあげましょうか」

「いい。話するなら早くして」

 八重山はわざとらしく肩をすくめてみせると、軽く咳払いをして笑みを消した。すっと目が開いて、ぞっとするような深い蒼が覗く。一瞬にして引き締まった空気を纏った八重山は、探偵だと言えばすとんと納得してしまう鋭敏さを感じた。どのくらい探偵をやっているのかは知らないが、人を調べ上げることに関して随分と手練であることが不思議とその雰囲気から理解できてしまう。対峙していると知らぬ間に心の奥底まで暴かれてしまいそうな、見透かされてしまうような居心地の悪さに私は椅子に座り直した。やはりこの女からは、何か異質なものを感じる。

「では、本題に移らせていただきます」

 結論から言うと、八重山の言う話は怪しいくらいに美味かった。まず依頼料があの事務所の約三分の一。私が思わず目を見開くと八重山はにっこりとして関東圏なら今提示した金額からほぼ上乗せがないとまで言った。北海道や沖縄までの国内なら諸々含めておおよそ二倍の金額、つまりあの事務所で東京都内しか探し得なかったところを八重山探偵事務所はそれより少ない金で日本国内探し回ってみせると言ったのだ。どう考えても何か裏があるとしか思えない。それにだいたいの相場を調べてみても異様なほど安い。素性調査を含めてみてもどこよりも魅力的な金額であった。今の私は懐が特段暖かいわけでもなし、なんならこの間サクの誕生日に割と値の張るコスメをプレゼントしたから余裕があるとは言いきれないのだ。当然それなりの額を使う覚悟を決めて事務所に足を踏み入れたはいいものの、金額のせいで心が折れかけていた節があった。そんなところで目の前にこの提案をぶら下げられて、私は正直相当傾いていた。実際首が傾いている。

「どうです?お気に召しましたか」

 そう言って笑ってみせると八重山はコーヒーを一口、飲んだ。汗をかいたグラスから雫がぱたりと落ちる。さながら私の冷や汗のようだった。一旦冷静になるために私もフラペチーノを飲み込み、ケーキを頬張る。フラペチーノの甘ったるいクリームに含まれた糖分が脳に直接届いてくれるよう願いながら、ケーキが半分ほど減ったところでフォークを置いた。

 こんな話をしながらケーキを食べなくちゃいけないだなんてまったく最高だ、ちくしょう。本来ならゆっくり本でも読みながら甘味を楽しんでいるところだというのに。そんな悪態を心の内でつきながら、私は結局八重山の提案に乗っかることにした。やつといえばニヤニヤ笑みを浮かべてご依頼ありがとうございます、とか言った。他の人から見たら好意的なニコニコ笑いだったかもしれないが、私にとって常に八重山の浮かべている笑みはニヤニヤと嫌味ったらしいものに違いないのだ。常というほど会っていないし会話もしていないが。昨夜出会ったときの妙な馴れ馴れしさが、どうにも感覚を狂わせているように思う。

「さて、では早速調査を……と言いたいところですが、私はこの後依頼があるのでここで失礼させていただきます。また後日事務所にいらしてください」

「ちょっと、私事務所の場所なんて知らないんだけど」

 席を立とうとする八重山に慌てて声をかける。八重山は半分残ったコーヒーを持ったまま止まった。

「おや、名刺に記載がございませんでしたか」

「いや、もう捨てちゃったから」

「……捨てた?はあ、なんという……またお渡ししておきますね」

 名刺を捨てたと言ったとき、八重山が顔をちょっとしかめたのを見て私は少し気分がよくなった。だってもう連絡する気のない事務所の名刺なんてとっておくのが珍しいだろう。二枚目の名刺を受け取ると、そこにはしっかり住所が記載してあった。……新宿。ここからそう遠くない。大学の方向じゃないから足を運んだことはあまりないが、なんとなくそこで探偵事務所を構えていればそれなりに依頼はきそうなものなのに、と思った。例えば浮気調査だとか借金抱えて逃げたやつの捜索とか。実際がどうか知らないが、歌舞伎町はただ漠然と治安が悪い場所だと思っているからあまり近寄りたくない。怖いし。まぁ、マップで確認したところ、幸い事務所は歌舞伎町と反対方向にあったのだが。

 八重山は名刺を渡した後さっさと店を出ていったらしく、隣の机には水滴だけが残っていた。おもむろに外へ目を向けると、シックな黒いジャケットに包まれた背中とミルクティー色の髪が見えたが、すぐ角に隠れて見えなくなった。ぼーっとストローを咥えながらそのまま外を見ていると、思考は自然とサクのほうへ巡っていく。思えばこのレモンケーキ。サクがよく課題を終わらせた後のご褒美としてよく食べていたものだった。さっぱりとした口当たりのこれはサクの好みだったし、私は向かいでクリームとかチョコソースのかかった糖分過多気味なパンケーキなどを食べていたのを思い出す。サクに太るよ、とか言われたりしてたな。でもこれだけ甘いのは今日だけだから、とかなんとか言って私は食べるのをやめたりはしなかった。レモンケーキに目を落とす。あの下がった眉と呆れたような声がひどく懐かしくなった。癪なことに、八重山に話しかけられず一人で過ごしていたらもっと早くに思い出に呑まれてしまった気がしてならない。今やケーキひとつでさえサクとの記憶の入口になってしまっているから。

「はぁ……」

 私は残りのレモンケーキを口に詰め込むと残ったフラペチーノを一気に飲み干した。どうしようもなく煙草が恋しくなった。足早に店を出ると、駅前の喫煙所に飛び込んで紙巻に火をつける。ウィンストン・キャスター・ホワイト。三ミリグラム。私がせいぜい吸える、サクに置いて行かれないように吸い始めた煙草だった。私も喫煙所の他の喫煙者と同じように項垂れて下を向いてみたら、なんだかとても馬鹿らしいことをしている気分になってひとりで苦笑した。置いて行かれないために煙草を吸い始めたのなら、今の私はなんなんだ。

 煙を吸い込む。

 ついていくことも煙草をやめることすらもできずに、ただ有害物質の依存性にされるがままになっている。じゃあサクは私にとって有害だったんだろうか。適当なことを考えて、また煙を吐き出した。

私は結局一本だけ吸うと、たくさんの副流煙に巻かれて喫煙所を後にした。煙草のせいなのか、それとも違う何かなのか、胸のあたりが詰まったような苦しさがあった。いや、違う。この胸の空虚な寂しさと息苦しさは、間違いなく煙草のせいだった。これは、三ミリグラムと八ミリグラムの、煙草のせい以外の何物でもないのだ。


─── ───


「いや、はは。実に傑作だった。あれが別室でモニタリングできていたなら私はビールの缶を開けていたよ。惜しいものだ」

 まるで映画を一本見たかのように満足しきった声でそう言った八重山は、デスクの革製の椅子に沈みこんだ。来客用ソファの傍にある簡素な仕切り板は無惨に割れ、プラスチック製のコップが床に転がっている。経理はうんざりした顔で額に手を当てた。そして、現実を見たくないとでも言いたげな、疲労の色濃い憂鬱なため息をついた。

「社長、……依頼の度に備品を壊すなと。分かりませんか」

「分かっているとも、また買い直せばいいだろう?ほら、今回の依頼人のおかげで新しい仕切りが買えるじゃないか」

 今日のは成功、大成功だった!と腕を広げて喜んでみせる。確かに、場合によっては上手くいかず喧嘩どころか「依頼人の気持ちを軽んじている」と言われ、数少ないレビューに最低評価がつけられる始末である。だが、八重山はそんな評価を気にも留めたことがなかった。

 八重山は依頼人のマダムから壊してしまったお詫び、と称して差し入れられた高級焼菓子をつまみながらコーヒーをすすった。そして傍の棚から取り出したファイルをパラパラとめくり、満足げに閉じてデスクに置いた。傾き始めた太陽の光が仕切り板の破片に反射していた。

「まぁ、本当に事務所の金がなくなったのなら私が懐から出すがね。こう見えて金には困ってないのさ」

 依頼料の値上げは検討しないらしい発言に、経理はこのまま広告でも打とうかと思案した。それでも依頼が来ないのが現状ではあるのだが。

「それじゃ、そのうち事務所が社長の私物で溢れかえることになりますね」

「溢れかえるってことはないだろう、私は多趣味じゃないんだ」

「なりますよ、社長の唯一の趣味のせいでね」

「これがか?」

「そうですね」

「だとしたら、精々棚が増えるだけだろう」

 どうもこの社長は事務所を私物扱いしている節があるな──────と経理は思った。経理は八重山澪という人物について詳しく知っているわけではない。だからといって興味があるわけでもなかったので、自分の給料が滞りなく支払われ事務所が脱税しない限り、八重山のことを若干法に抵触するような危ない趣味を持った人物であるという認識のまま放っておくことにしていた。どうせ深く関わっても禄なことがないと直感で理解していたからである。

 八重山は椅子から起き上がるとぐいぐいと身体を伸ばし、椅子にかけていたジャケットを羽織った。ポケットに入った鍵が小さく鳴る。経理はごみとなった元仕切り板を片付けながら、事務所を出ようとする八重山に声をかけた。

「どこか行くんですか?」

「ああ、ちょっとね。今日はもう帰って構わないよ。帰る時は鍵をかけておいてくれ」

 ばたん、と事務所のドアが閉まるのを見送ると経理はごみ袋を別室の物置に置きに行った。物置として使うくらいなら依頼人との相談スペースとして活用した方がいいのではないかと提言したこともあったが、その翌日に大量のダンボールが運びこまれたせいでここが物置部屋以外のものになることは終ぞなかった。おかげで狭い事務所は給湯スペースを区切るとさらに狭くなり、簡素な仕切りでしか相談場所がなくなってしまっている。一度別の建物の会議室を借りて報告会をしたことがあったが、その時に起きたトラブルのせいで事務所でしか相談も報告もできなくなった。元凶の社長はというと、常に浮かべている笑顔に喜色をいっぱいに湛えて止めることなくそれを眺めていたのだが。まだ経理が調査員も兼ねていた頃の話である。

「はぁ……辞めたい……」

 重い頭を垂れながらそう呟いた声は部屋のダンボールに吸収されて消えた。

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