ピアスホールは埋まらない
只森戯狼
第1話
東京の夜景を望むある橋の欄干にて。
月もない都会の夜に、無機質な人工灯が人々を照らす。欄干に寄りかかって、ひとり暗い海を眺める女も、等しく人工灯に照らされていた。女は20代前半と見える若さで、深緑の髪が目を遮っている。左耳には痛々しく思えるほどのピアスと、そして手には強く握られてくしゃくしゃになった煙草の箱が握られていた。箱の中身はなかった。空き箱だけを握って、女はただ呆けたような顔で遠い海を眺め続けていた。
月はない。ただ時間の経過を表すものは夜景を構築しているビルの明かりが少しずつ、減っていくことだけだった。
何時間こうしているかは女には分からなかった。ただ女には時間が必要だった。何も考えず、何も思わず、ただ呆けているだけの時間が。
「…………、……サク」
呟いて、煙草の箱が落ちた。何も受け止められるものがない煙草の空き箱はそのまま下へ落ちていき、川へ落ちて不法投棄のひとつとなって流れていった。女は少しだけ、この箱のように落ちていけたら楽だろうかと考えた。が、もう自分が底なしに落ちていける人間など、もう目の前からいなくなってしまったんだったと頭を振る。口の中に苦い味が広がった気がして、ずきりと胸が痛んだ。
突然、女の後ろ、つまり道路側に一台の車がやってきた。車は女の傍で止まるとエンジンが切られ、運転席のドアが開いて中から何者か出てくる。しかし女は振り向きもせず、ただ視線は海に向いたままだった。車から出てきた人物はゆっくりと女に近づいて声をかけた。
「おーい、大丈夫ですかあ。飛び降りようなんて思っちゃだめですよお」
自殺を呼び止めるには随分悠長な口調で、その人物は女の隣まで近づいた。さびれた暗い街灯の下に二つの影が並ぶ。
「……誰か知らないけど、余計なお世話だよ」
女が粗野な物言いで言葉だけ投げかえした。すると隣に立った女は懐から名刺を取り出し、何者か尋ねられるのを待っていたと言わんばかりに黄昏れたままの女に名刺を突き出した。
「ええ私としたことが。初めまして、わたくし八重山澪と申します!何かご相談がございましたらこちらに連絡を。ああ、基本暇なのでいつでも連絡はつくと思います。貴女のお名前を伺っても?」
名刺を差し出されて女はようやくそっちの方に顔を向けて、相手のその身長の高さに少しぎょっとした。ヒールを履いているにしても高い。身長161センチの女が見上げるくらいの身長だ。街頭に照らされるミルクティー色の髪は後ろでまとめられ、長い前髪は彼女の左目を覆い隠している。パンツスタイルの黒いスーツのジャケットは羽織られ、その下には白いシャツとサスペンダーが覗いた。
一方的にべらべらと喋る、その八重山と名乗った人物に不快感を抱かないわけでもなかったが、女は名乗られたら名乗り返すのが礼儀だと思った。
「音無……郁。べつに、死ににここに来たわけじゃない」
「それは結構ですね。でもひどく憂いた背中をしてらして気になりました。それにここは暗いし人通りも少なくて危ないですよ」
音無は鬱陶しいと思った。失恋の痛みを忘れるためにここにわざわざ長い間歩いてきたのに、急に現れた素性も知らない女に説教される謂れはない。あ、いや。素性といえば、名刺を貰った。
音無が半ば押し付けられるように渡された名刺に目を通してみると、八重山探偵事務所、などと書かれている。はぁ、と間抜けた声を出して八重山を見ると、左耳にピアスがついているのが目に入った。音無は思わず顔をしかめる。
「そんなに探偵らしくありませんかねえ。まぁそれもそうですよね、私の事務所、依頼がほとんどこないんですよ……」
名刺を見た後顔をしかめたのが探偵であることを疑ったのだと受け取った八重山は、わざとらしいため息をついて音無と同じように欄干に寄りかかった。音無はあんたの事情なんか知るかと言いたかったし、もう帰りたかった。
「で、何。何しに来たの、あんた」
当たり前のように隣に寄る八重山から距離を取りつつ、音無は八重山を睨む。貰った名刺は音無の機嫌を害したため、かつての煙草の空き箱のように手の中でひしゃげていた。今の音無には『八重山』という言葉は気分を悪くするもの以外の何ものでもなかった。
「私が何をしにきたか?まるで私が何か目的があってここに来たみたいな物言いですね。ただの偶然ですよ。車で通りがかって、貴女を見つけただけ」
さあ、と夜風が吹いた。夏の前の独特の匂いを孕んだそれは、深い緑とミルクティー色の髪を揺らした。温い風だったが、音無はぶるりと身体を震わせてさらに八重山から距離をとった。
音無には、どうもこれが偶然なんかでは全くないと思えて仕方なかった。狙って、この時間に、このタイミングで来た。八重山とは完全に初対面だったが、音無はそう確信した。
音無は踵を返すと早足で欄干から去った。途中、後ろから八重山の車で送るという声が聞こえたが、その声から半ば逃げるようにして音無は帰路についた。
─── ───
音無郁はシェアハウスをしていた。相手は、たまたま不動産屋に居合わせた同じ大学の同期であった。佐倉八重といったその女は傍から見てとても整った容貌をしていて、なおかつ快活な女性だった。音無は、少々強引に自分を振り回す佐倉のことが好きだった。
純粋で美しい佐倉八重が汚れ始めたのはいつだろう。それもただの音無の思い込みだったのかもしれない。音無の中では佐倉八重という女はおしゃれ好きでも派手な格好はしないし、ピアスも開けないし、煙草もやらない人だった。ただ、いつしか佐倉が持ってきたピアッサーが太いニードルになり、ピアスを開けられるのが佐倉ではなく音無に変わっていった時には佐倉は煙草を吸うようになっていた。音無は煙草が嫌いだったが、佐倉に置いていかれるような気がして無理にでも吸うようになった。隣で佐倉よりも多いピアスを晒して、ベランダで煙草を吸っている間は佐倉と相思相愛になった錯覚に陥ったりもした。
そう、錯覚。全ては音無の錯覚、勘違い、思い込みで、佐倉自身は音無のことは良く言えば優しい同居人、悪く言えば玩具のようなものと考えていた。佐倉八重は自分に魅力があることを十分に分かっている人間だった。初心で臆病で照れ屋の音無をその気にさせて揶揄うのが意地の悪い彼女の日課。
佐倉八重は、明言はせず、らしい口ぶりで想像を煽り、結果的に自分の思い通りに操るのが上手い
『あ、郁。彼氏んち住むからここ出てくわ』
そう佐倉が言い放ったのが夕方。瞬く間に荷物をまとめて、使っていた日用品もぜんぶ捨てて。音無が呆気に取られて立ち尽くす間に佐倉は二年間過ごした部屋と同居人にあっさりと別れを告げて出ていった。音無はなにも知らなかった。帰りが日々遅くなっていく理由が男だったこと、自分を好きだと思っていたのはただの思い込みだったこと、所詮自分は女であり、同じ女性である彼女の隣に恋人として立てることなんてただの妄想だったこと。佐倉八重は、自分をあっさり切り捨ててしまう人間だったこと。
音無だけが残された部屋には静寂が染み付いた。佐倉が出ていって数分後、一本だけ残った煙草が箱と一緒に捨てられているのに気付いた。そういえばお揃いにしていた煙草の銘柄はいつの間にか自分のものと変わってしまっていた。ゴミ箱に残った煙草は、煙が重たく音無にはとても吸えないものだった。
「っゔ、お゛ぇ、げほっ……!」
簡単に自分を捨てた佐倉への怒りと、見たこともないその男への憎しみと、悲しみと、悔しさ、苛立ち。たくさんの感情がぐちゃぐちゃに絡まったまま勢いで火をつけた。煙が苦しくて泣いているのか、悲しくて泣いているのか、腹が立って泣いているのか、音無には分からなかった。ただただ気持ち悪い感情の波に抗うことができなくてひたすら吸った。そうして、残ったのが空箱だった。
形が残っているとまた泣きそうだから。握りつぶして、ポケットに入れて、重たい煙の余韻が消えないまま宵の街に繰り出した。
どこへ行っても佐倉が見えた。知らない女の人の後ろ姿も、髪型が同じだけで、背格好が似ているだけで、持っているものが同じだっただけで。そこに佐倉を見出してしまう自分が心底嫌になった。歩き続けてたどり着いたのが、あの人気のない欄干だった。
ほんとうに、しんでしまいたい気分だった。
けれど、下の名前で呼ぶこともできず、同居人という関係に甘えて、終ぞ何も伝えられなかった臆病者にそんなことができるわけもないのだった。
─── ───
嫌な夢から目覚めると、見慣れた白い天井が目に入った。昨夜から開けっ放しだったのか、網戸から風が吹きこんでくる。部屋は明るく、それなりに日が昇っていることを示していた。枕元のひび割れたスマホの画面をつけると九時はゆうに過ぎていた。
「……はぁ」
重い身体をゆっくりと起こすと、豪快に跳ね返った寝癖が視界に入る。そういえば髪を乾かさないまま寝てしまったんだったか。二度目のため息をつくと、ぐしぐしと目をこする。あくびをして伸びをして、それからのそのそとリビングに向かう。
当然ながら、私以外誰もいなかった。昨日の朝までリビングにサクがいて、人をだめにするクッションの上でだらだらしながら『おはよう』とか言ってくれていたのに。悲しいくらい今の部屋にはサクの痕跡がひとつもなくて、本当に二年間一緒に住んでいたのか不思議になってしまう。あの子の突拍子のないところは好きだったけど今じゃそれが恨めしい。どうか明日くらいには何食わぬ顔で帰ってきてくれないかと願った。
「まぁ、……ありえないけどさ」
去り際、サクを一度呼び止めた。そのとき私を見た目は本当にあのサクなのかと思うほどに、冷たく冷えきっていた。多分、あれは、私をもう他人としか見ていなかった。サクの名残惜しい目を期待した私はそれだけにサクを呼び止めた姿勢から動けなくなってしまった。考えてもみてほしい。二年間一緒に生活して、ピアスはお互いに開けるし、一緒によく出かけたし、そこらの友達なんかよりそれなりに深い関係だった、好きだった人にあんな目を向けられて平気でいられる奴がいるならそいつは心を持ってないんだと思う。もしくは狂っているか。私は狂っていなかったし心もちゃんと持っていたから大きな穴が空いてしまった。お揃いになるために開けていた穴を、突き放すために最後に空けられるなんて皮肉じゃないか。まったく酷い話だ。笑い飛ばせもしない。
乱暴な手つきでテレビをつけるとビーズクッションにどすんと沈む。サクの匂いか何か残ってないか顔を埋めたが、一緒に住んでいたのが裏目に出た。私と同じシャンプーを使って私と同じ洗剤で服を洗っていたんだから、『サクの匂い』なんてものは知覚できようもなかった。
「今日は初夏らしい夏日となり、……」
テレビの中で気象予報士が何か言っている。うるさいな。暑いのなんて昨日も一昨日もそうだったじゃないか。一昨日の暑さのことを思い出そうとしたら、またサクの顔が浮かんできてやめた。昨日聞いたばっかりだから、まだ声も鮮明に再現できてしまう。苛苛した。佐倉八重。おまえなんか大ッ嫌いだ。おまえみたいな女を天地が逆さになっても誰が愛すもんか。サクなんか、大、大、大嫌いだ。一生恨むね。
心の中でこっちを見ているサクに中指を立てて強がってはみたものの、やっぱり寂しくて仕方がなかった。寂しいし、ムカつくし、悔しいし、寂しかった。昨日の夜からずっと胸の内がまとまらないまま重たい。胃もたれみたいな気持ち悪さが嫌で、とりあえず水を一杯煽った。寝起きの身体に染み渡る感覚がする。
ふと、散らかったテーブルの上に見慣れない紙くずが転がっているのが目に付いた。広げてみて、「げ」と声が出る。八重山探偵事務所、社長、探偵、八重山澪の文字。昨夜のあの妙に馴れ馴れしく気味の悪い女のことを思い出して口がひん曲がる。まだ捨ててなかったのか。もう一度丸め直してゴミ箱に放り込もうとした、けれど。
『何かご相談がございましたらこちらに連絡を』
『基本暇なのでいつでも連絡はつくと思います』
「……探偵って、何するんだろ」
人探し……でも依頼すれば、サクの居所とか分かったりするんだろうか。ついでにその彼氏とかいう男の素性も。いい加減で蔑ろにするような奴なら絶対許せない。いや、許さない。私からサクを奪った男な時点でもう許す気なんてなかったけれど。私は身体を感情が追い越すような感覚に襲われながら、素早く数字のタイルを叩いた。
─── ───
八重山澪は上機嫌でコーヒーを淹れていた。ケバケバしい化粧のマダムに依頼された不倫調査が終盤に差し掛かっていたからである。報酬も楽しみであったが、何より八重山が楽しみにしているのは、つまるところ『喧嘩』だった。午後の報告ではなるだけ感情を煽るような情報を全面に出して知らせるつもりだし、不貞旦那と不倫相手を連れてこさせてサプライズ。感動の再開だ。きっと大乱闘になるに違いない。あの依頼主は都度の報告で毎回顔を赤らめながら憤っていたし、多分どっちも殴るな。そう考えるとどうしても口元が緩んで変な笑い声が出る。気づけばパソコンを叩いている経理が呆れた顔でこっちを見ていた。
「あの。また喧嘩起こそうと思ってますね?備品壊されても買い直すの事務所なんですよ」
「いやいや。喧嘩が起きちゃうのはもう仕方ないことじゃないか。それに人間は感情が爆発した瞬間が一番人間らしいからね」
「私利私欲のために探偵始めたって世に知られたら評判ダダ下がりですよ」
「人聞きの悪いことを言うんじゃない。私は困っている人が放っておけないから探偵をしてるんだ」
経理は、それもどうせ『色々情報を引き出すのに弱っている人間につけ込むのが一番手っ取り早い』とか思ってるんだろ、と言いかけたがやめた。社長に対する下がりきった評価がさらに下がると思ったからだ。八重山は経理からの冷たい視線を気にもとめず、のんびり淹れたてのコーヒーを啜った。
「あ、そうだ。今日のうちに多分音無って奴から電話がくる。依頼だったら受けてほしい」
「……はあ。分かりました」
経理が返事をしたのも束の間、事務所の固定電話がけたたましい音を立てて着信を知らせた。電話をとった経理が変な顔をしたのを見て、「噂をすれば、だ」と八重山がコーヒーをまた啜る。八重山が言った通り、電話は音無郁からのものだった。
「今日はじっくり喧嘩を見たいから─────あぁ、明日なら特に何も無いな。会うのは明日だと伝えてくれ」
もはや喧嘩を楽しみにしていることを隠しもせずそうのたまう八重山に、経理はやや複雑そうな顔で受話器を八重山に向けた。八重山はコーヒーを手放さずに受話器を受け取ると、返事をし、電話口の相手があまりにも想像通りの依頼をしてきたことに声をあげて笑いそうになった。
「ええ、はい。人探しと素性調査。対面でのご相談は明日でもよろしいでしょうか?」
『だめ。今日にして。あんたがいつでも暇って言ったんでしょ』
八重山は間を空けて、ちょっと渋い顔でコーヒーを含んだ。
「いつでも暇とは申しておりませんが……」
『仕事がぜんぜんないとか言ってなかった?いらないの?仕事』
八重山はコーヒーのカップを傾けた。
「あのですね、音無郁さん。こちらとしても事情がございまして。午後は別の依頼が入ってるんですよ」
『でも仕事がほとんどないのが現状じゃないの?』
「……。申し訳ございませんが、今日ではなく明日に……」
『じゃあいい。別のとこに頼む』
「あっ、ちょっと!」
ブツ、と音が途切れた受話器をぶら下げて八重山は「はあ─────」とため息をついた。
「随分苛立ってるみたいですね」
「いやあ、昨日見た時より格段に『良く』なっている気がする。大人しそうな子だとは思ったが、こういうタイプは得てして素晴らしい修羅場を提供してくれるものだ」
「頼むから事務所ではやらないでくださいよ」
八重山はその言葉には答えず、次のコーヒーを淹れに経理の机から離れていった。中古のドリップマシンが変な音を立ててコーヒーを淹れるのを聞きながら、クライアントと調査対象のファイルが入った棚の下にある、錠が三つ付いた厳重そうな引き出しを撫でる。
「……増やすか」
八重山は新しくファイルを取り出すと、付箋に『音無 郁』と書きつけ、挟むようにして貼った。
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