旧友
下の階で、インターホンが鳴った気がして、私は我に返った。
誰だろう、今頃?
一階に降り、受話器を上げて、「どちら様ですか?」と訊いてみたが、応答は無かった。通常なら、応答がなければ、玄関は開けないようにしていたが、その時は妙に気になって、ドアを開けて、外の様子を伺った。
街灯の陰に、人影が浮かび上がった。
たった一度しか会ったことがないのに、わたしには直ぐにわかった、それが誰であるのか…。
「美来さん!」
嬉しく、そして懐かしい感じがした。旧友と何年かぶりで、しかも前触れもなく突然再会したときのような新鮮な驚きが、心の中に生じた。
「ご無事だったのですね!」
わたしは美来に駆け寄り、息を弾ませながらそう言った。
「陽子さん、あの時のことは本当にごめんなさい。謝っても、赦されるものではないことはわかっているのだけど…。でも、貴方こそ、無事で良かった」
しかし、わたしはそれには答えず、美来の手を握りしめた。彼女も、その握った手を強く握り返してくれた。
たしかに、あの時は自分に対して、理不尽なことをしたのかもしれないが、しかし、そのことに対する美来への怒りは恨みというのは、不思議なほど湧いてこなかった。むしろ、戦火をふたりでくぐり抜けた、あるいは、戦地から戻った戦友、というような連帯感とでもいえるだろうか、そのような感情を、わたしは彼女に対して抱いていた。
「わたしたちは警察には呼ばれていません。現場にいたことも話していません。まして美来さんのことについても、一度も発言したり、他人に言ったりしていません」
いくら予期せぬ再会だったからとはいえ、自分の口から出た言葉が、そのようなものだったことについては、思慮にかけていたと言わざるを得ないだろう。
「いえ、謝罪が必要なのは、やっぱり私の方だわ」
「そんな…」
「今日は、実は貴方に渡したいものがあって、迷惑覚悟でやってきたの」
美来はバッグの中に手を入れると、何かを取り出して、わたしに手渡した。それは、A4サイズの封筒だった。
「この記録は、貴方と朝霧先生に宛てて書いたものです。私が知っていることをすべて明らかにすることが、おふたりに対する、私の最低限の責任ですから…」
わたしは暗闇の中で、その分厚い封筒を、じっと見つめた。今直ぐこの場所で封を切って、読み出したい衝動に駆られた。
「でもね、私、貴方のことが、なんだかとても好きになったのよ。貴方は私の持っていないものを持っているわ。あのとき、私には、貴方のことがとても輝いて見えたわ、迷い無く突き進むようなところが…。貴方のような女性になりたいと思ったし、今はもっとそう思っているわ」
「いえ、そんなこと…」
その発言は、わたしにとっては意外なものだったが、凄く嬉しくもあった。わたしは自分が落ちこぼれだと思っていたし、少なくとも、自分が輝いているなんて、思ってもいなかったからだ。
「それじゃ、お別れしなければならないわ」
「これからどうされるつもりなんですか?」
「そうね、元の職場には、謝罪して、正式に辞職の手続きをしなければならないわ。今後は借りていたお金を返さなきゃいけないけど、仕事、探さなきゃ…」
「美来さん、もう少しだけ…」
「また会っていただけるのなら、こんな立ち話ではなく、もっと明るいところで、たとえば、お洒落な喫茶店などで、ゆっくり優雅に、友情を確かめ合いながら、貴方と楽しくお話したいわ。私は初めて、心の許せる友人に出会えたような気がしたの。勝手な思い込みかもしれないけど、赦してくださいね。じゃあ、さようなら」
美来は背を向けて去っていった。
呼び止めたくなる衝動に駆られたが、黙って、美来の背中を見送ることにした。
別れはそれほど寂しくなかった。何時かまたどこかで再会できる。そういう確信が、わたしの中にはあった。もちろん、その確信に根拠などなかったが…。
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