新興住宅地

話は1970年以前に遡る。

東京の始発駅から40分あまり、沿線の風景に畑や田んぼの割合が増してくるところに、S駅はある。急行が停車するので、いちおう中核駅という位置づけではあるのだろうが、改札を出て数分も歩けば、ネギ畑、里芋畑、それにキャベツ畑が点在していた。幹線道路の舗装も一部しか完成しておらず、開発はまだまだこれから、という印象を、見るものに与えた。

しかし、更に10分ほど南東方向に歩くと、なだらかな起伏が連続する丘陵地帯に、最近新たに開発されたばかりの、大規模分譲住宅街が広がっていた。総戸数は300以上もあるのだが、販売は絶好調で、東京に通勤する大手企業のサラリーマン達が、こぞって買い求めていた。

1959年にこの土地を取得し、その後開発にあたったのが、大薗土地開発という大手不動産会社だった。

大薗土地開発という会社は、不動産業を中心として、鉄道業、観光業を取り扱う、大薗コンツェルンという企業グループのひとつの部門で、鉄道もその中核部門のひとつだった。


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その企業グループを一代で築き上げたのが、大薗裕太郎という男だった。所謂豪腕実業家として、そして政界のフィクサーとして、当時から名の知られた存在だったが、それは決してポジティブなイメージを元にしてつけられたニックネームでは無いことは明らかだ。

大薗は、当時まだ東京の都心にあった明成学園を、その経営権を半ば強引に奪い取るような形で、学園の理事に就任した。それが1967年だった。明成学園は大正時代に創設され、戦後は都内でも有数の進学校として名を馳せていたが、丁度学園紛争がもっとも激しかった時期でもあり、明成学園も、逆に進学校であるがゆえに、高校であったにもかかわらず、そうした影響が広がっていた。当時はそのような社会背景から、学園の運営は、大きく揺らいでいた。

そしてS駅分譲地販売の二年前に、その分譲地に隣接する場所に、学校を移転させた。地域に名門の高校があるということであれば分譲地としての価値が上がることが期待できるし、それに加えて、教育行政に手を伸ばすことにより、大園自身が政界進出の布石とするのではないか、という見解もあったが、その5年後に大園が急逝したため、真実は不明のままとなった。


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1968年の春、トラックが集結したかと思うと、北向きの斜面の2角が切り拓かれ、瞬く間に外壁が総レンガ造りの、巨大な屋敷が姿を現した。

その屋敷の周囲の景観とはかけ離れた奇異な外観に関しては、地元の住民の間で、建設当時から話題になっていた。まずは周囲の全ての家屋を圧倒するほど巨大さと、西洋風なのか、和洋折衷なのか、あるいは極めて独創的なのか、分類困難な建物が、牧歌的な風景の中に、浮き上がっているように、その存在を主張していたからだ。

住民の目に触れやすい屋敷の北側には窓が一つも無かった。屋敷の全長は30メートルはあろうかというのに、だ。外から目に入りやすいもう一つの面は西側の壁だったが、そこも1階と思われる部位に窓は無く、2階と、3階と目される部位に、格子付きの小さな窓がそれぞれ一つだけ付いているだけだった。まるで、それは監獄の獄舎のような建物だと、住民たちは一様に噂した。

灰黒色の瓦で覆われた屋根の東側には、外観からすると、直方体の、やはりレンガでできた煙突が突いていた。屋敷の南側は北側とは違って、窓も普通にあるし、観音開きの巨大な鉄製の玄関ドアもあり、いわゆる洋館風の造りだったという証言もあるが、しかし、その南側の家の状態について確信を持って証言できる人などいなかった。

しかし、その屋敷が人々の目の前に姿を見せていたのは束の間で。その後すぐにベルリンの壁のようなコンクリートの高い塀が張り巡らされ、屋敷はその中に封印されることになった。北側に自動車が出入りできる開口部はあったが、それも常時シャッターが閉められ、中を窺い知ることはほぼ不可能になった。

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