脱出
「最初はひとりで、屋敷周囲のことを調べていたんです、先生とミカが来る前に、ちょっと時間があったので、自分だけで調べられることがあれば、調べてみようって…。それが、いきなり後ろから押さえつけられて、気を失ってしまったんです。目が覚めて気が付いたらベッドの上に寝かされていて、ここはどこだろうと思っていたら、その女の人が目の前に現れて、少しの辛抱だからと言って、わたしを、こうやってロープで縛ったんです。そのときに、わたしが屋敷の周りを詮索していたのかを聞かれたので、嘘を言っても始まらないと思って、その理由をすべて正直に話してしまいました。」
「ぼくは、おそらくその女の人だと思うのだが、その人から連絡を受けて、君がこの屋敷に捕らわれていることを知ったんだ」
「本当にすいませんでした、勝手なことしてしまって。でも…」
「でも?」
「嬉しいんです、先生が来てくれて…」
「北原さん」
「はい、先生」
わたしは先生の目を見つめていた。そしてその瞳が、それを見る者の平衡感覚さえも奪い取る威力があることを悟った。
「ここでの会話は全部聞かれていると思った方がいい。だから、極力小さな声で話そう」
「えっ、そうなんですか?! わ、わかりました!」
わたしは頓珍漢な返答をしたが、朝霧先生はそれに対して、優しく頷いて言った。
「君はこの屋敷の中をいろいろ見たりしたのかい?」
「いいえ全然。わたしは別の部屋のベッドに寝かされていて、そのあと、その情勢に頭から袋を被せられて、手を引かれて階段を上がって、この部屋に移されてきて、にロープで縛られたんです。だから、この建物の中のことは全然わからないんです」
「なるほど」
「先生は? 何か見つけたんですか? ここにひとりで来られたんですか?」
「実は、ぼくはひとりで来たんじゃない。連れがいたんだ」
「誰なんですか、それは?」
「ぼくの家にいた男だ。しかし、途中で引き離されてしまったんだ」
わたしは、先生の邸宅を訪れた際、その帰り際に庭で寝そべっていた、極端にやせ細った男性を目撃したことを思い出した。
「あの人のことですね。わたし、何だかあの人のことが印象に残っていて、何か今回の事件に関係があるんじゃないか、そんな気がちょっとしていたんです」
「詳細はここを出てから話そう。まずは君の安全確保が最優先だ。なんとか屋敷の外に、君を無事に脱出させなければならない」
***
そう、確かにここは、いつも自分が鬱々とした気分で通っている、学園の中でしかないのだ。しかし、何故それが、身の安全とか、脱出するとか、そんな非日常的な、まるでゲリラがどこから襲ってくるかもしれない、常に緊迫しているジャングルの中の戦場のような、そんな事になっているのか…。そのあまりの乖離に、無重力の中に身を放り出されたような、身を支える術のない不安感に襲われた。
そんなわたしの精神状態を知ってか知らずか、朝霧先生は話を続けた。
「ぼくには他にやらなければならないことがある。一緒にここに来た大地…、という名前なんだが、彼も救出する必要がある。吾妻先生の目的は、あくまでも大地だ。ぼく達よりも、より大地のほうに危険がある。詳しくはここから脱出した後では無そう。まずは、何とか君をまず救出することを最優先に考える。だからまず出口を探そう」
「いえ、わたしだってここまで来たら、最後まで一緒に行動をともにしたいです。今起こっていることが、一体何なのか、わたしも知りたいんです。だから、わたしだけ外に出すなんて言わないでください」
わたしはつい大きな声を出してしまったが、盗聴されているかもしれないという危惧を、この瞬間は忘れていた。
「とにかく、この部屋をまず出ることにしよう」
朝霧先生はそう言うと、わたしを抱き寄せて耳もとで囁いた。
「ありがとう。でも、ここから先、会話は控えよう。すべて聞かれていると考えたほうが良いからね」
わたしは、黙ってうなずいた。
***
わたしたちは、部屋を出て、地下に続く階段を、朝霧先生が先導して降りた。階段には所々小さな照明がついていて、少なくとも階段を下りるだけの視界は保たれるようになっていた。
階段を降りたところに扉があり、朝霧先生はそれを開けた。そしてその開いた向こう側は、やはり薄暗い部屋のようだった。
その部屋に入ると、暗闇の中から人影が姿を現したので、わたしは驚いて小さく飛び上った。影の主は、あの女性だった。
「君は、出版社の秘書・山本恵梨香と名乗っていたが、本当は、滝沢美来さんだね」
わたしには朝霧先生の問いかけの意味が、この時点ではさっぱりわからなかったし、本名は滝沢美来だと呼ばれた山本恵梨香は、表情を変えることもなく、何も答えずに、自らの要件だけを抑揚なく発言した。
「ここから先へ、おふたりを案内しますが、それにあたり、御承諾いただかねばならない条件があります。朝霧先生、先生が不慮の行動を起こさないために、ある程度の身体的な拘束を行うことを御了承ください。拒否される場合は、相応の対応を取らざるを得ません」
「わかった。言うとおりにしよう」
わたしと顔を見合わせたあとで、朝霧先生はそう言った。
***
「では、その場に跪いて座って、手を後ろにまわしてください」
美来さんの言うとおりに、先生は膝をつき、両腕を後ろに回した。
金属同士がぶつかりあう音がした。先生は、後ろ手に手錠を嵌められ、自由が利かなくなってしまった。わたしの不安感が急激に上昇したのは言うまでもない。
「御協力いただきありがとうございます。では、立っていただいてかまいません」
やはり美来さんは何の感情も込めずに言った。
わたしは、自分もそのような拘束を受けるのではないかと思ったが、しかしわたしに関しては、特にそういったことは行われなかった。その点に関しては少しだけホッとしたが、唯一この場で頼れる人である先生の自由が奪われていることに変わりはなく、状況が改善したわけでは無いことを自覚し、わたしの中の絶望感は、より深く沈降していった。
「では、これから御ふたりを目的の場所へ案内いたします。少々乱暴なやり方をして申しわけありませんでしたが、安全を保証するためには、おふたりの御協力が必要となります。非協力的な態度や行動を取った場合には、その限りでは無くなってしまう可能性があるので、くれぐれも御注意ください」
***
その部屋のさらに奥側には、もうひとつの扉があった。朝霧先生が身体的拘束を受けた部屋は、中待合室のような小部屋だったようだ。
美来さんはその扉を開けて、わたしたちを中に招き入れた。白熱灯の強い光が部屋全体を照らし、ホワイトアウトした状態が暫く続いたが、目が慣れてくると、そこは部屋というよりも、ホールのように広大空間であることが分かった。
そして、わたしは驚いて、思わず手で口を押さえた。
大きな円柱形のガラスケースに入れられた等身大のマネキン人形が、横一列に並べられていたのだ。数えてみたが、合計10体もあった。ガラスケースの土台はゴムで出来ていて、巨大な真空管の中に、マネキンが閉じ込められているという感じだった。
異様だったのが、そのマネキン達が、全てが全裸で、しかも少年だったことだ。
マネキン達が取っているポーズは、それぞれ違っていた。直立している者もいたし、跪いて手を合わせて、指を組み、まるで祈りを捧げているようなポーズをしているものもあった。そして、座っている者、手を組んでいる者、ダヴィンチの洗礼者ヨハネのように、天を指差している者…。
しかし、奇妙なことに、マネキン人形にあるような肌の人工的なで不自然な光沢が、その少年達には無かった。寧ろ、その背筋の寒くなるようなリアルさ故に、嘗ては人間だった…、ようにさえ思えてくる。
わたしと先生は、あまりの現実離れしたこの部屋の中の状況に思わず顔を見合わせたが、もはや声を発することさえもできなかった。先生は自分が無理に手錠をはめられていることさえも忘れたように、ただ呆然とその場に立っていた。
「これは一体何を意味しているんだ…」
先生は小さな声で、独り事のように言った。
わたし達は、一体のマネキンの足元へと近づいていった。そしてその少年像を、仰ぎ見るように眺めていた。その少年は全裸で、直立した姿勢を保持していた。
やはり近づいてみても、元は本物の人間だったとしか思えなかった。
しかし唯一それが「人間」でないところは、目だった。その目は明らかに本物の瞳ではなく、いわゆる陶器や、或いはガラスの玉を入れているような何やら不自然な輝きを放っていた。
わたしはその時初めて思った。
彼らは、元は血の通った、生きた人間だったのでは…。
***
最初こそ、わたし達は遠巻きに少年たちを眺めていたが、次第に大胆になっていき、その並んでいる11人の少年たちの姿を端から端まで、観察することができた。
「これは、剥製なのか…?」
朝霧先生がそう言ったが、それはわたしたちが抱いていた共通の疑念だった。
もちろん、わたしは人間の剥製なんて見たことなどないし、朝霧先生だって無いだろう。いや、人間の剥製を見たことをある人など、この現代において、一体どれほどいるのだろうか。そもそも、人間の剥製など、この世に存在するのか、そんな存在が許されるのか、それさえも分からなかった。
そして並んでいるその少年たちの前後は、分厚い遮光カーテンが敷かれていた。カーテンというよりも、小さな舞台の横断幕と言ったほうがいいかもしれない。その幕の向こう側は、この時点では、伺い知ることができなかった。
***
「おふたりには大変申し訳ないのですが…」わたしたちが我を忘れて少年達をみている間、背後でその存在を感じさせず、静かに様子を伺っていた美来さんが、この部屋に入って初めて発言した。「ここで更に身体拘束を強化しなければならないのです」
「と言うと?」
「向かい側の壁に、椅子が2つ並んでいますよね。あそこに座っていただきます。陽子さんがこちらで、朝霧先生がこちら側です。」
わたしたちは無言でその椅子に座ったが、わたしのほうが、並んだ剥製に近い椅子を割り当てられた。
「体を椅子に固定いたします」
「やむを得ない。抵抗しても始まらないからな」
美来さんは、床に置いていた白い縄ロープを手に持って、まず朝霧先生から、次にわたしをロープで椅子に縛り付けた。その時初めて気付いたのだが、椅子自体も床に固定されていて、足に力を入れて押してみても、びくともしなかった。
身動きがとれなくなってしまったが、この状況では、彼らの言う通りにして、成り行きを見届けていくしかなかった。
***
数分後…。
「ようこそ、おふたかた」
聞き覚えのある声が部屋に響いた。
「よくここまで、この『真空の部屋』まで、いらしていただきました。そして、この少年たちを直接見ていただいたことに、深く感謝申し上げます」
部屋の入口から、吾妻が姿を現した。
「私は以前から、彼等を御客様に見ていただきたいと、常々思っていました。しかし閲覧いただくにあたり、誰でもいいというわけではなく、私自身がこの人になら見ていただきたいという、それなりの人格、もしくは品格を備えた人、そういう方々をお招きしたかった訳ですが、おふたりはまさにうってつけの客人であると言えるでしょう。あなた方に、最初で最後のお客になってもらうことは、非常に光栄なことです。おふたりが、この美しい少年達のことを、これらの美しい芸術作品を賛美し、称賛することを確信しています。どうです、素晴らしいでしょう」
***
「吾妻先生、教えてください。これは一体どういうことですか。これはもしや、人間の剥製なのではありませんか?!」
「その通りです。さすがは朝霧先生、頭の回転がよろしいですね。説明の手間が省けましたよ」
「貴方はこの少年達を、全員殺害して、こうやって剥製にしたのですか?」
「生命としては、殺害はしましたよ」
「恐ろしいことだ。自分のしていることの意味を、先生は理解しているのですか? 史上稀に見る凶悪犯罪者ではないですか!
吾妻の顔に勝ち誇ったような笑いが浮かんだ。
「しかし、彼等は真の意味で殺害されたということでは、決してありません。少年としての美しい肉体を永遠に、このままの姿で保存したいと、自らそう願っていたのです、全員がね。ですから、私は彼等を、彼等の願いどおりに、永遠の少年の姿に封印することにしたのです。そのまま無為に時間が経過すれば、彼等のような抜きん出た美少年でさえ、1分1秒毎に、ただの醜いオヤジ、いや、腐乱した肉塊へと、変わっていくのです。ここにいる全ての少年たちは、それが我慢できない、そういう崇高な理想を持ち合わせた少年達だったのです。ですから、彼等は自身の希望によって、このような姿になったわけであり、ここに作られた彼等のひとりひとりのポーズも、彼等自身がまだ生きている時に、自分自身で決めたものを採用しています。もちろん、多少私がアレンジした所もありますが、基本的には彼等の意思が最大限尊重されている形になっているのです」
吾妻のその発言に対して、私は言葉としては確かに理解できたが、その意味を理解することは到底できなかった。自分が剥製になることを望む人間、そしてその望み通りに剥製を作る人間など、本当に存在するのだろうか?
「少年を殺害して伯製にしたのは、そのすべてが、吾妻先生、貴方ひとりで行ったことなのですか?」
吾妻はその質問に対して、声を出して笑った。
「もちろん、概ね私ひとりで行いましたよ。彼らの体を清めた後で、内臓と体液を除去します。脂肪はほとんどありませんから、その点は作業時間が省けます。そして彼らが希望だったポーズを作り、真空冷凍乾燥機で…、それは、海外から工業用の大きな機械を直輸入したものですが、それでフリーズドライしたあとで、今こうして彼等が入っている、真空容器に入れ、天井の穴…、ほら、見えますよね、あそこを開けて、ワイヤで吊り下げて、この部屋に安置するのです。凄まじい労力であり、情熱と献身がなければ、とても成し遂げることはできない仕事です。ある意味、私は彼等の下僕であるわけです。しかし、私の苦労話など、どでも良いのです。それよりも、この少年たちの美しい姿をぜひじっくりと味わい、見てあげてください。それが彼等の最大の願いでもあり、私の最大の願いでもあるわけです。彼等は、究極の美少年として歴史に名を残すであろう、そういった少年界のスーパースターの集まりなのですよ」
***
しかし、いくら吾妻の自説を承ったところで、その少年達を美しいと思えるかどうかは、全く別問題だ。彼は本気でこの剥製達を美しいと思い、そして私たちにその美しさを見て感じて欲しいと本気で思っているのだろうか。
わたしはといえば、吾妻の説明を聞いた後では、ただ不気味な、不自然なポーズを強要された、哀れな、薄汚れた、単なる標本にしか見えなくなってしまった。これらの少年が生きているときに、どの程度美しい少年だったのか、本当に彼等が群を抜くような美少年だったのか、この剥製のみだけではまったく想像することさえできなかった。
しかし今この場で、彼の『芸術作品』に批判や難癖を与えることは、あまり得策ではないと思われた。
***
「吾妻先生、自身の趣味嗜好のために彼等を殺害して、こうやって地下の密室に彼等の死体を並べて、そしてそれを眺めて楽しんでいるとは…、自分のやっていることを理解しているのですか?!」
「彼等が自らの意志で自らの美を封印した、その理由は先程申上げた通りですよ。できれば私の言葉をそのままとらえていただきたいものですね。北原陽子さん、貴方は私たちの生徒であり、そして、朝霧先生、貴方はかつては学園の生徒だったし、今は、私が招き入れた結果として、当学園の職員となったわけではないですか。ですから、きっと我々は良い仲間になれると思いますよ。それに、貴方だって少年時代は、それはとても美しい少年でしたからね。今のその醜い姿からは想像もできませんよ」
吾妻は声を上げて笑った。
この間、美来さんはこの部屋の入口のところで、立ったまま黙ってその様子を伺っていたが、まるで吾妻の召し使いのように振る舞っていたのが気になった。
***
「さて、気を取り直してまいりましょうか。美しい少年達はこれで全てではありません。彼等は個々人として、美を競い合ってはいますが、それ以上に、この部屋全体の総合的な美を形成している、ひとつのパーツとしての意味合いのほうが大きいのです。これから、この部屋全体としての芸術について、皆さんに披瀝したいと思います。とても心がワクワクしています。この日が来るのを待っていたのです。では、ようやくこのカーテンをあけることにしましょう。美来さん、よろしくお願いしますよ」
静かに少年達の背後の段のほうに向かい、壁に設置された5段ある階段を、美来さんは登ると、右端に行き、カーテンの奥に手を伸ばして、壁に設置されているスイッチを押した。
***
カーテンが真中から左右に向けて、ゆっくりと、自動で開いていった。
壇に姿を現したのは、やはり動かぬ少年だった。吾妻の説明の通りなら、それも剥製ということになるが、一段高いところに配置されているのは、何か特別な理由、或いは、吾妻の特別な思い入れがある少年なのではないかということは、容易に想像できた。
わたしは朝霧先生を見た。その顔は強い精神的衝撃を受けて、その苦痛に歪んでいるようにさえ見えた。そして先生は呟いた。
「これは、もしや…?」
「そう、貴方の御推察の通り、彼はヒデ君です。このヒデ君が一番高い位置にいるというのは、今までに御覧頂いた少年達の中で、彼が一番高い地位を占めているということに他ならない。つまり私が出会った少年の中で、ヒデが最も少年としての完成度が、この中では高かったと言えるでしょう」
ヒデ、誰のこと…?
「大地君の裁判が終わってから、だったと思いますが、ヒデ君は、自らの美のために、その肉体を捧げることを決意したのです。私はその崇高なる精神に対して、最大級の賛辞を送り、そして彼のお手伝いをさせてもらいました。
『大地君の裁判』という件を、その時のわたしは知らかなったので、そういう事実があったものとして、吾妻の話を聞き続けるしかなかった。
「しかし、御留意いただきたいのですが、私としては、あくまでもこの11人の中では、ヒデ君が最も美しいという意味であって、彼といえども私が求める完璧な少年であるというわけでは決してありません。ところで、これらの少年たちが一律に同じ方向つまり壁のこちら側を置いているというのは偶然ではありません。私がこのように配置したのです」
ここで吾妻は一呼吸置き、肩で大きく息をした。
「私がここで、少年達を皆さんに公開するということに関して、それは、私がようやく目的の少年を、迎え入れることができたからに他なりません。もっとも、時期が少し遅きに失したことは間違いありませんが、彼は私への神からの授かりものであることに、変わりはありません。大地君への感謝と賛美の念は、尽きることがありません。そして、少年の美の結晶が集まったこの部屋の芸術は、ついに完成したとここに高らかに宣言できるのです!」
***
「こちらのほうを見てください」
吾妻が言ったこちらというのは、ヒデと呼ばれる剥製が置かれている台の向い側の壁のことで、やはり幕で閉じられていたのだが、全ての少年たちがその壁のほうを向いていた。
「これからクライマックスが訪れます。皆さん目を逸らさずに、じっと、その決定的瞬間を見逃さないように、御覧になってください」
吾妻は、何やらひとりで勝手に、異常な興奮状態になっているようだった。
「では美来さん、よろしくお願いします、スイッチを入れてください」
吾妻の掛け声とともに、美来さんがもうひとつのスイッチを入れると、ヒデの時と同様に、カーテンは中央から、ゆっくりと開いていった。
そしてそのカーテンが左右に開かれ、徐々にその奥が明らかになろうとしていた。そして、天井からスポットライトが急に点灯された。
まるで幻でも見ているかのような、この世のものとは思えない、不思議な光景がわたしたちの前に姿を現した。おとぎ話でも読んでいて、その中に入り込んでしまったかのようなそんな奇妙な感覚が私を襲った。わたしは自分の目を疑った。自分の見ているものがまったく信じられなかった、既に人間の剥製という、到底あり得ないものを見た後なのに、だ。
幕が開いた段上に姿を現したのは、十字架だった。そして全裸の男性が、手足をロープで巻き付けられてその十字架に駆けられていたのだ。男性の頭は低くうなだれてピクリとも動かなかった。その体は極限までやせ細り、肋骨が無残にもむき出していた。筋肉は衰え、骨と皮だけになっているように思えた。
その姿は、磔にされたキリストに重ね合わせることができた。いや、まさにキリストの姿をモチーフにして、模倣しただけに思えた。しかし、もしそうだとすれば、何という下劣な悪ふざけだろうか。
そしてそこに磔にされている男が、朝霧先生の屋敷の庭で見た男性だったということが、すぐにわかった。
「大地!」と翼は叫んだ。「一体どういうことだ、なんで大地をこんな目に合わせるんだ!」
***
「まあそんなに空回りせずに聞いてください。私は十年間も、彼がこの場にこうして戻ってきてくれることを、一日一日指折り数えながら待ち望んでいたのですよ。こうやってこの場で大地君を中心とした少年たちのこの美しい芸術が、彼等の努力で完成することを、私は夢に見ていたのです。この美しい少年たちの姿を永久にそのままの姿でこの場に残したい。私はそのための捨て石となり、最大限に手助けをしたい。それが私の願いでもあり、彼らの願いでもある。彼らは大人になることを拒否した、そして自らの身体をも、究極の自己犠牲へ捧げた、真に美しく勇気のある少年たちなのです]
「つまり彼らは姿だけが美しいわけではなく、その精神までもが芸術的に美しく、そのうえ、死の苦痛を恐れず、自らの美しさのために、そして他の少年たちとの美しさとの共演の中にこそ自分の存在意義を示すために、こうして自分の身を捧げて彼らと一体となることを望んだのです。もちろんそれはこの場で一緒にいるというだけの意味ではなく、あくまでも精神的に一体となり、その精神を永遠にこの場所に封印する、つまり精神的にも一体となることを彼らは望み、そしてここで、彼らは美の結晶となったわけです。そしてその中心となるのが、この大地君なのです」
「そして、曲折はありましたが、十年の時を経て、ようやくここに戻ってきてくれたわけです。しかも自分の意思で。それはこの大地君が十年間、一度もこの場所を忘れず、ずっとこの場所のことを思い続け、自分もいつかはこの場所で美を継承してその一員となりたい。一体化したいと思い続けていたからに他なりません。私はそのことを非常にうれしく思い、涙なしではそのことを語れないくらいです。崇高なその大地君の精神を、いくら称賛してもしきれないくらいなのです」
***
「大地は既に少年ではない。でもそんなことはどうでもいい、とにかく、貴方の身勝手な欲望のためにこんなことしているのであればまったく許されないことだ!」
「ですから、それは今申し上げた通りですよ。つまり私は、大地君こそが、ここにいる全ての少年たちを超えた最高の存在である、だからこそ彼をこのように一番高い位置におき、他の少年たちが彼を崇め奉るような存在としてこのようなポーズをとさせている訳ですよ。つまり、大地君がもはや単なる少年ではなく、少年というレベルを超えた、つまり神の化身として存在しているということを示したいと思い、美の化身となった他の少年達にも示したかった。ここにいる少年たちは確かに美しく、彼ら自体がまさに芸術であることには、何の疑いもないわけだが、しかし彼らは神ではない。神を名乗ることが許されるのは、大地君だけだ。他の少年と大地君とはそれだけの差でしかないが、しかしその差は、あまりにも大きく、まったく次元が違う。どれだけ巨大な数であっても、それが有限であれば、理論上はコンピューターで計算することができるだろう。しかしコンピューターは無限という概念を計算することはできない。無限は正に神の概念であり、無限は神と同一の言葉である。人間の浅はかな技術ではその本質を覗き見ることはできない。その本質を解き明かすことはできない。つまり、大地君が無限であり、ここにいる少年たちは巨大だが、あくまでも有限の数でしかない。あなた達、そして私もそうだが、私たちは巨大な数でさえなく、ちっぽけな1とか2とか、そういった数でしかない。大地君は神であり、三位一体の一つの姿を具現化しているのです」
わたしには吾妻の理屈が全く理解できなかったが、とにかくこの場で起こった出来事を記憶し、頭の中に一字一句を焼き付けておこうと、その時決意した。
「そんな自分勝手な理由で大地をこんな目に合わせ、これだけ多くの少年達を殺害したとは、貴方は死刑になってもおかしくないほどの犯罪者だ!」
「死刑? 笑わせないでいただきたい。私がそんなものを恐れるとでも思っているのですか? 大いに結構、私は殉教者になれるのですから。まあいいでしょう、気を取り直して行きましょう。実はもう一つ、大地君を自分のもとに置きたかった理由があります。私はこの大地君とヒデ君の姿を、美来さんに見て欲しいと思っていたのです」
部屋の後ろに無言で立っていた彼女に向かって、吾妻は言った。
「美来さん、貴方は大地君とヒデ君がふたりそろった姿を、この場で、その目で見ることで、貴方自身の記憶が取戻されることを、私はとても期待しているのですよ。もしそうなったなら、それが私から貴方への最大の恩返しです」
わたしは大地と呼ばれる人を見た。その体は、不自然な程に青白く、水に濡れたたような光沢を放っていた。所々は茶色の、まるで釜に出る前の陶器の粘度のような土気色をしていた。そして、肋骨が痩せた体から不自然な程に突出していた。
そして、大地は両眼を閉じて、首はうなだれていた。呼吸をしているようにも見えなかったし、まったく動かなかった。まるで死んでいるようだった。
わたしは、彼が本当にもう死んでいるのではないかと思った。吾妻からは大地の生死の情報をまだ聞いていなかったからだ。
***
「いい加減にしろ! こんな茶番劇に、一体何の意味があるというのだ!」
「朝霧先生、貴方も見かけによらずせっかちなひとですね。落ち着いてください。隣の北原さんを見てください。こんなに落ち着いて、彼等をうっとりと鑑賞してくれているではありませんか。少しは見習ってください。それに、北原さんの二度にわたる活躍のおかげで、わたしが最初に想定していてよりも、話が早く進んで早く事件が展開したのですよ。そういう意味では、朝霧先生、貴方も北原さんに深く感謝したほうがいいですよ」
わたしは吾妻の発言に対して憤りを覚えたが、自分が勝手な行動を起こしたばかりに、先生と大地さんに迷惑をかけてしまったことを後悔していた。吾妻はそんな心の内を見透かし、わたしの行動の軽率さを間接的に嘲笑し、挑発しているのだと思い、その挑発に乗らないよう、なんとか無表情を装い続けた。
吾妻はわたしに対する挑発が不発に終わったとはんだんしたのか、矛先を美来さんに変え、そして言った。
「さあ美来さん、近くで大地君とヒデ君の姿を御覧なさい。貴方が自分自身を取り戻すための、最大の、そして最高の舞台がここに整ったわけですよ。特に大地君を先に見た方が良いでしょう。彼はまだ生きているから、話し掛けてもいいんですよ」
そのとき初めて吾妻は、大地がまだ生きているということを認めたのだった。
***
「そういえば忘れていましたよ。北原さん、貴方が森の中で見た事件についてのことを、解説しなければなりませんね。あの時の少年は、この中(剥製)には含まれてはいません。まだ『作成中』と言っておきましょう」
「彼は、私がつい最近までかわいがっていた少年でした。あのとき、彼を見送るために、屋敷の門まで、一緒に歩いていたのです。我が学園の制服を着用してはいましたが、それは私が貸し与えたもので、当校の学生ではありません。制服を着ていれば、裏口からの出入りも、それほど目立ちませんからね」
「彼は15歳で、私が求める少年像としては平均的な年齢でしたので、そういう意味では少年美の頂点を迎えていた時期でもありました。しかしそれは、これ以上は彼の美しさが増すことは無く、下り坂を迎えるということにほかなりません」
「私は、少年たちと接する時に、美の頂点とその衰退、そして破滅を、常に意識せざるを得ません。彼もその例外ではありませんでした。彼に頂点を迎えさせる、私にはその責任がありました。私は彼の後見人であり、親でもあり、友でもあり、そして、恋人だったからです」
「しかし何故あの時、あの場所で?と貴方は思っているかもしれません。わたしは、彼が無言でわたしの目を見つめ返した、彼のその瞳を間近で見た時、自分の中から湧き上がる衝動を抑えることができなかった。彼を最高の状態で、その美しさを残してあげたい。そして、彼の美を永遠に後世に残したい。これはわたしのエゴなどではありません。純粋に彼のためを思って行った行為なのです。無償の愛とでも言える行為です」
「怪訝そうな顔をしていますね。わたしの言っていることの意味が理解できない? そんなことは無いはずです。私の考えに、理論の矛盾は、ひとつとして無いはずです。理解できないとすれば、それは貴方達の理解力が悪いのです。もう少し、美と論理について、理解度を増すために、鍛錬する必要があるようですな」
「それはともかく、わたしは気がついていたのですよ、すでに屋敷の裏門を出たときから、そこに当校の女子学生が隠れていたことをね。ただし、それが貴方であることまでは、わかりませんでした。女子学生が隠れている、そこまでは認識出来ていましたけどね。学校の生徒が見ている中で、あのような行動に出ることは、当然私にとってもリスクがあるわけです。しかし、あの時、私はそんなリスクのことなど、考えることができなかった。自分の崇高な使命を、今この瞬間に遂行しなければならないという、強い責務だけが、私を衝き動かしていたのです。あの時の女子高生が貴方であることがわかったのは、今日貴方をここに招いてからのことです」
「実は、最近数年間は、少年を完成させることは無かったのですが、自分としても熱意が低下していたという誹りは免れないでしょうが、大地さんが戻ってくるという話を聞いて、再び私の中の情熱が呼び戻されたことは否定できません」
「もっとも、まだ彼は冷凍室で休んで頂いています。そういえば、彼のシューズを現場に落としてしまいましたが、そのままにしておいたんですよ。簡単な犯行声明といったところですかね。話が逸れてしまいましたね。美来さん、申しわけありません。ここから暫くは、貴方の時間です」
***
「吾妻先生、誠にありがとうございます。ですがこれ以上の御配慮は不要です。私は記憶を取り戻しました。大地さんの姿を見た直後のことです。もちろん、あの事件のことも含めて、すべての記憶がつながりました」
「本当ですか?! それは素晴らしいことです。貴方に協力を仰いだ甲斐がありましたよ。是非事件の話を教えていただきたい」
事件とは何なのか? 何の事件なのか? そのことを、この時点のわたしは知らない。しかし美来さんから発せられる言葉を、一字一句聞き漏らさないように、全神経を彼女のこれからの発言を聞くことに集中させようとした。全ては、自分の記憶力が頼りだった。
***
「あの日の夕方のことです。私は慣れない場所に来たせいか少し疲れて、寝室うとうとしてしまいました。すると大地さんと希美さんは、一緒に部屋を出ていきました。私は、二人が部屋を出ていったことに気付いて、目を覚ましたのです」
「私はひとり別荘に取り残され、不安にはなりましたが、ふたりの帰りを部屋で待っていました。暫くは何事も起こりませんでしたが、突然、納屋の方から女性の叫び声上がりました。私が窓から外を見ると、大地さんが、納屋から出てくるのを目撃しました」
「恐怖のあまりその場でうずくまっていると、暫くして部屋のドアが静かに開いたことに、私は気付きました。目の前に大地さんが立っていました。そして私の手を引いて、納屋まで連れていき、私を一人納屋の暗闇の中に残し、そこを出て行ってしまいました」
「不思議なことに私は全然怖くなかった。それに、暗闇なのに、私にはすべてが見えていた。ただ、そこに横たわっている、『人間』が、たまらなく愛おしく思えたのです」
***
「そうでしたか…」
美来さんが語り終えた後の長い沈黙を破ったのは、吾妻だった。
「本当はもっと隠された真実があるのではないかと、密かに思っていたのです。そしてその隠された真実が、美来さんの口から語られるのではないかという期待を抱いてはいたのですが…。それが真実であるならば、私自身もそれで納得せざるを得ないでしょう」
再びの長い沈黙の後、吾妻は両手を広げて天井に向かって、大袈裟な演劇口調で、大地に向かって語りかけた。
「もはや私に思い残すことはない。そして、私は信じているのです、大地君、貴方の復活を。いよいよフィナーレがやってきました」
わたしは頭から血の気が引いていくのを自覚した。その「フィナーレ」という意味が、何を意味するのかを不明瞭ながら理解していた。
しかし、吾妻は舞台の裏にその姿を消し、美来さんがその後に続いた。彼らがすんなりと立ち去るのは予想外で、その場に不可思議な平穏が到来したように感じられた。
***
突然爆音が響き、直後に部屋の中が激しく振動した。
驚きのあまり椅子から飛び上がりそうになったが、拘束されているため身動きが取れない。朝霧先生が束縛から逃れようと、もがいている様子が目に入った。
焦げ臭いにおいが漂ってきたと同時に、上の階の方から何かが激しく燃える音が聞こえ、熱い空気が入口の扉から入り込んできた。
わたしの体を戦慄が貫いた。吾妻が言っていた『フィナーレ』の意味が、はっきりと認識されたからだ。
美来さんはどこに行ったのだろうか? この場で私たちを救い出してくれるのは、彼女しか考えられなかったが、その希望的観測も、もはや燃え尽きようとしていた。
もはやこのままこの屋敷とともに、息絶えるしかないのだろうか…。わたしは、既に絶望しようとしていた。今度こそ、そう、今度こそ本当に…・
わたしは別れを告げようとして朝霧先生を見た。先生は束縛を逃れようとして必死になってはいたが、決して慌てている訳ではなく、こんな状況であるにも関わらず、冷静に努力しているように見えた
次にわたしは大地に視線を向けたが、彼については、やはり全く動きを見せていなかった。
こげ臭さは、より強くこの部屋に充満していた。加えて、煤交じりの黒い煙も漂ってきた。わたしは呼吸苦さえ自覚し始めていた。そして熱風が入口から吹き込んできた。
朝霧先生は、まだもがいていた。何とかロープを解き放つための最後の努力をしていた。
わたしは思い直した
先生は、まだ諦めていない。こんなに絶望的な状況でも、一縷の望みを捨てていない。それなのに、わたしが一人だけ、勝手に勝負を捨てて諦めるなんて、死んでもできない。先生は、わたしのために危険を負ってしまったのだ。むしろ今度は、わたしが先生を助ける番ではないのか。
***
気が付くと、部屋から姿を消していた美来さんが、再び姿を現していた。彼女にも火の危険が迫っていることは変わりがないのだが…。
背後から黒い煙がこの部屋に入りこみ、それが廊下の薄い灯を揺るがしていた。
美来さんはその右手に、長い木の棒を持っていた。その先端が、背後から迫り来る炎に照らされて、赤い閃光を放った。わたしはぎょっとした。それは槍だった。そしてその槍を手に、煙と熱さを背後にして、わたしたちに近づいてきた。
この槍で刺し殺そうとするのだろうか。そんな残酷なことをするような人にはとても思えなかったのだが、この状況では、常識などまったく通用しないと悟った。
美来さん自身は逃げないのだろうかと、わたしは思った。この屋敷とともに、わたしたちを道連れに、自分自身の身も滅ぼすつもりなのだろうか。
***
既に彼女は目の前に立ち、見下ろしながら、槍の先端をゆっくりとわたしの方に向けていた。
わたしのほうから、刺し殺すつもりなのだろう。思わずきつく目を閉じた。悲鳴をあげそうになったが、そのような見苦しい行為を見せたくないというプライドがまだ残っていたことに、自分でも驚いた。
槍が空気を切り裂く音が聞こえた。
翼と大地が屋敷に潜入する際に、玄関入口の廊下で槍を持ったプレートアーマーを目撃していた。
不思議と痛さを感じなかった。何かが張り裂けるような音がすると、イスの後に回され、縄でつながれていた両腕が急に軽くなった。わたしは自分の両腕を体の前に持ってきた。既にその束縛は解放されていた。
隣を見ると、美来は朝霧先生の縄も、その槍で切断しているところだった。先生の縄はわたしの縄よりも、より頑丈に縛られていたため、わたしを開放する時よりも、やや難渋していたが、最終的に縄は切断され、先生は椅子からすぐに立ち上がった。
そして、美来は先生に何か耳元で囁くと、今度はわたしに向かって言った。
「陽子さん、お願い! 一緒に大地さんを助けて!」
部屋の入り口から、炎が姿を現し、部屋の中を熱で満たした。
美来さんのその呼びかけに対して、わたしの気持ちに迷いはなかった。大地さんを助け出し、朝霧先生と彼女とともに、生きて脱出する、それ以外の選択肢はなかった。
「先生の手錠の鍵を!」わたしは美来さんに向かって叫んだ。
「ごめんなさい、鍵は吾妻が持っているのよ。だから今はどうにもならないわ。とにかく大地さんを助けましょう!」
「わかりました」
「ぼくは構わない。歩けさえすればなんとかなるよ。それより大地を頼むよ」
***
朝霧先生がわたしに向けたその言葉に、心の中に火がついたのを、わたしは自覚した。わたしが、大地さんと先生を、この部屋から助け出すのだ。
「私があのロープを切断するから、大地さんの体を支えてください」
そのように美来さんは言うと、まず大地の両足を縛りつけているロープを十字架の背後から切断した。次に、胸の部分を縛りつけているロープを切断した。体は、両腕のロープだけでささえられることになったため全体がだらりと下にぶら下がった。
わたしはそのぶら下がった大地の体を下から支えていた。そしてその両腕も束縛から解放されたとき、その体は、一気に下に落ちてきた。わたしはそれを何とか支えて、床にたたきつけられないようにした。
「大地さん大丈夫ですか」とわたしはその時大声で話し掛けた。
しかし、大地からは何の反応もなかった。目は半分あいたまま完全に体は弛緩していた。
「大丈夫、生きているわ」と美来は言った。「こちらの扉から逃げて。逃げ道につながっています。早く逃げて。火がもうすぐ目の前に迫っています!」
美来さんは、その場から背を向けて元の扉のほうに向かった。
「美来さん、待ってください!」
わたしは大声で叫んだが、後を振り抜くことなく、彼女は槍を床に捨て去ったまま、その場から去っていった。
***
炎までが、入口の扉から見えるようになっていた。煙はどんどん部屋の中に入ってくる。わたしは自由になったその手で自分の口をふさいだ。朝霧先生はひどく咳き込んでいた。
上方からも熱い空気が漏れてくるのがわかった。やはりこの部屋の真上がひどく燃えているのだ。天井が突然焼け落ちてくる可能性も充分にあると思われた。伝わってくるあまりの熱気に、目が開けられない程になっていた
「大地!」朝霧先生が声をかけた。彼はまだ手錠で後ろに手を縛られていた。「私に捕まって!」
先生はしゃがみこんで、自分の背中に大地を乗せようとしたが、彼はただ呻くことしかできなかった。それでもわたしが手助けして、何とかその背中の上に彼を乗せ、立ち上がることができた。
大地の尻をわたしが後ろからささえていた。裸の男性の尻を、後から手で押して支えることなど、平時では決してあり得ない行為だが、この状況で他に取り得る選択肢があるはずもなかった。
爆発音が部屋の中に響いた。それは今までの中で最も大きなものだった。
そして、ヒデと他の11体の剥製を、わたしは振り返って見た。彼等の周りを炎が取り巻いていた。そして、その像は熱せられた空気のために大きく揺らいでいた。そして、ヒデに火炎が吹きつけ、一瞬のうちにその体は倒された。
「北原君、おねがいだ、この扉を開けてくれ!」
わたしは朝霧先生の前に立ち、その扉を目いっぱいに力を込めて開けた。
***
暗くてよく見えなかったが、扉の先は細い通路になっていた。朝霧先生がその身をかなり屈めないと頭がぶつかってしまう程に、通路の天井は低かった。扉を閉めるとその中は真っ暗で、壁に手を当てて進むしかなかったが、その炎の熱気からようやく逃れることができたので、それだけでも身が守られるという安堵があった。
その通路の先はどこにつながっているのかわからなかった。行き止まりになっているかもしれないが、とにかくわたしとしては、大地さんが朝霧先生の背中から落ちてこないように、その身体を下から支え、前進することしか、今できることはなかった。
しばらく進んで、もはや火事からは逃れられたと思った瞬間、閉めた扉が爆風で吹き飛ばされた。思わずわたしは悲鳴をあげた。かなり進んで、扉からは随分離れたと思っていたのだが、それでもその爆風の威力は凄まじく、わたしは前のめりに倒れこみ、先生までも押し倒すところだった。
「大丈夫か!」と先生はわたしに問いかけたが、
「大丈夫です!」とわたしは大声で叫んだ。「とにかく早く行きましょう!」
しかし、いくら頑張って先を目指しているとはいえ、この天上の低さと、背中に大地を載せているという先生の負担は、相当なものだと思われた。わたしもかなり気持ちが焦っていたが、とにかくこのふたりと一緒にここから脱出するということに関しては、迷いは何もなかった。
かなりの距離を歩いたようにも思われたのだが、実際はそうでもなかったのかもしれない。
大地の体が少し上がったように感じた。
「気をつけるんだ。階段になっているようだ」と朝霧先生は言った。
その段差を足で確かめながら、わたし達は上へと登った。
***
朝霧先生は急に立ちどまって言った。
「ここに壁があるぞ」
先生はその壁を足で蹴ってみた。分厚い金属が低く振動するような鈍い音がしたが、暗くて何も見えなかった。
「わたしにも確認させてください、その間すいませんが、大地さんをお願いします」
すれ違うのも大変だったのだが、何とか朝霧先生の前に出て、その扉を手探りで触った。
しかし、その壁をたたいてみたら、軽く揺れる感じがした。この壁の向こうは空間が広がっている可能性も考えられた。
すると、ちょうどその扉の左側の自分の肩の高さのあたりに、私は何かを握りしめた。その形状は、間違いなくドアノブだった。
しかし喜ぶのはまだ早かった、この扉が本当に開くまでは…。
わたしはそのドアノブを、手でまわしてみた。それは意外なほどに軽く回すことができた。
壁はゆっくりと開いていった。
その隙間から、真っ白な光がその通路に差し込んできた。それが希望の光であることを、わたしは確信した。
***
しかし、行きついたところは、決して明るい場所ではなく、薄暗い空間だった。目が慣れてくると、別の部屋にたどり着いたということがわかった。
そこは倉庫のようだった。古い油のような匂いが部屋の中を満たしていた。2メートル以上ある、大きなキャンバスがスタンドに立てかけられていた。手のない、ほぼ人間と等身大の上半身だけの彫像があった。その奥にも別の彫像が無造作に倒れているのも認めた。おそらくデッサン用の石膏像ではないかと思われた。そのほかにも、バケツや、大量のパック入り石膏粉末などが置かれていた。そこが絵画や彫像の作成場所であることは、すぐに理解できた。
その小部屋には端にドアがあり、鍵がかかっていたが、わたしはその鍵を開けると、その先にはもっと広い部屋があった。
床を磨くワックスの匂いがして、少し歩くと木製の床が軋む音がした。その部屋の広さは、一般の教室より少し広い程度だった。そして、その壁には、上のほうに大きな額に入れられた絵画が何枚か展示されていた。
わたしにとって明らかにその部屋は見覚えがあった。
「ここは、美術棟だわ!」
***
わたしたち3人は外に出た。
振り返ると、森から夜の空に向かって、黒い煙が立ち上っているのをハッキリと見ることができた。その時は夜空に雲が覆い、月は隠されていたのだが、雲に赤く揺らめく光が反射しているのがわかった。この位置からでは、直接は見えないが、激しく炎が燃え上がっているのは、間違いなかった。
わたしと先生は、それをただ呆然と眺めていた。
遠くのほうからサイレンの音が聞こえてきた。消防車がこちらに向かっているのだろうか。
そして、大きな爆発音とともに、渦を巻いた火柱が上がった。直後に、空気を揺るがす衝撃波が、ここまで伝わってきたのだった。
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