April 1986

意識回復

いったい何時間この中にいるのだろうか?

音も無く、光も無く、風もなく、暑くも寒くもなく、真空の中に彷徨っているような、不思議な感覚…。

あの人は、そんなに長い時間ではないから、少しの間だけ、辛抱していてほしいと言っていた。今はその言葉を信じるしかなかった。

30分ほど前だろうか、ドアを開ける音と廊下を歩く足音が聞こえて驚いたが、すぐにそれも溶暗した。その後再度足音が聞こえ、音が次第に近づいて来たため、かなり緊張したが、階段を降りて行ったのだろうか、再び遠ざかり、消えてしまった。

わたしは白いシーツに全身を覆われていた。後ろ手に両手首を、両腕を胴体と一緒に、さらに両足も縛られてれいた。

再び、足音が聞こえた。先程とは違い、その音は次第にそれはあの女性のものとは違う、より重厚感のある、男の足音だ。そして、ちょうど私のいるこの部屋の前で止まったようだ。この部屋に来ることが、足音の主の目的であることは、ほぼ間違いない。

ドアの蝶番が軋む音が部屋の隅々にまで広がった。

わたしは恐怖のために、頭から血の気が引いて意識が朦朧としてきた。身動きが取れないし、逃げることも出来ない。

あの人が言っていた、もう少し待ってというのは、このことを意味していたのだろうか?

わたしを覆っているシーツが白く光った。部屋の照明が点灯したようだ。

新しくやってくる、おそらく男であろう侵入者、それは吾妻のはずであったが、今度こそついに彼に殺される、その瞬間が近づいてきたのだ。

何故吾妻が、塀の外で、わたしをすぐに殺さなかったのか。その理由はすぐに推測できた。自分を生け取りにして、いたぶりながら殺すつもりなのだ。

塀の外で気を失ったときは、吾妻の顔を見たわけではないが、あの場所で、あのときに、自分にこんなことが出来るのは、吾妻しか考えられなかった。

最初にあの事件を目撃してから、もはやこれまで、と観念した状況は、これで3度目、いや、4度目だ。最初は、少年の殺害を目撃して吾妻に追われた時。この時は朝霧先生が偶然登場したことで、難を逃れることができた。2度目は、塀の外で突然襲われて気を失った時。3度目が、意識が戻って、足音が聞こえて、あの人が部屋に入ってきた時…。

そして、今回が4度目だ。2度ある事は3度、あるいは4度ある、ということであれば、自分にも生き延びるチャンスが、まだ残っているかもしれない。しかし、そんなに幸運が続くとも思えなかった。

足音は、3度目のときと同じように、わたしのすぐ脇で止まった。わたしを守っていた白いシーツは、虚しく引き剥がされた。

「北原君!」

それは、明らかに聞き覚えのある声であり、しかも、わたしを絶望の淵に追いやるものではなく、喜びへと導くものであることを、直ぐに理解した。


***


再び、朝霧先生は窮地のわたしの前に、まるで騎士の如く、姿を現してくれたのだ。

わたしは目で助けを求めた。

わたしの背後で縛ってあるロープの結びは非常に固く、先生でも、それを解くのがなかなか困難だった。しかし、わたしは辛抱強くそれを待った。

そしてようやく、その手を縛っているロープと胴体と足を縛っているロープも、ようやく外され、わたしはようやく自由の身になった。

「怪我はないのか? 怖かっただろう。大丈夫かい」先生はわたしの肩に手を置いて言った。

「はい、怪我はありません、大丈夫です」わたしは全く動じていないかのように言った。

「それにしても無事でよかった」

「ごめんなさい、勝手なマネをしてしまって、わたし、ひとりで屋敷を調べてみようと思ったら…」

「そんなことは、今は何も気にしなくていい。私こそ、君の安全が第一だと言いながら、結局はそれを守ることが出来なかった。申し訳ない。しかし、とにかく無事で見つかったことが何よりだ」

 

***

 

後日、朝霧先生は、屋敷にやってきた経緯をわたしに語った。概略は以下のようなものだ。

わたしが行方不明になった数時間後に、朝霧邸に電話があり、コンシェルジュの橘氏が応対した。

実はその時、まだ先生はミカとともに学園内にいて、何も知らずにわたしが来るのを待っていてくれたのだった。

電話の声は女性だった。直ぐに朝霧先生さんに連絡を取って、自宅に戻るように伝えてほしいと言った。わたし、北原陽子に関する情報を伝えたいとその女性は言ったが、相手は名前を名乗らなかった。楠氏は先生から、今日は休日だが用事があるので学園に行ってくると聞いていた。彼は、学校の代表番号に電話をかけたが、休日のためか誰も電話には出なかった。

嫌な予感を感じた楠氏は、自らタクシーに乗って、学園に急行したのだった。それが10時過ぎだった。楠氏は家政婦長に、名前を名乗らない電話が再度かかってきた場合は、現在朝霧様を自宅に連れ戻すために、自分が走り回っていると伝えるように、と言い残していた。

そして学園に到着した。その場には翼とミカがいたが、楠氏は機転を聞かせて、先生の母が急病で入院したと嘘をついて、自宅に戻るように願い出たのだった。

もちろん先生は、それが嘘であることに直ぐに気づいたが、しかしそれがミカを引き離すための嘘であることも直ぐに理解したので、楠の嘘をそのまま信じた振りをした。翼はミカに謝罪して、楠とともに学園を離れ、タクシーで自宅に戻ったのだった。

そして屋敷に着いてから、楠氏から本当の事情を聞いた。


***


その数時間後、再び同じ女性の声で、朝霧邸に電話が入った。内容は以下の通りだった。

『わたし達は今、お客様をお招きしています。北原陽子さんです。ポニーテールに赤いシュシュが、とっても可愛らしい女の子です』

『その陽子さんを迎えに来ていただきたいのです。場所は、学園内の屋敷です。鍵は開けておきます。時間は今から2時間後でお願いします。18時30分です。それよりも早くても遅くても、対応できません』

『それから、星野大地さんの同伴をお願いします。今回屋敷への入室が許されるのは、貴方と大地さんの御ふたりだけです。それ以外の方は、どのような御立場の方だろうと、同伴は禁止しますので御了承ください』

『最後にもうひとつ、腕時計は勿論のこと、時間が判るものを、一切屋敷内に持ち込まないで下さい。これらの約束は極めて重要ですから、くれぐれも厳守をお願い致します。それでは、おふたりの到着を待っております』

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