疑惑

「お前が突き落としたのか?」

怒鳴り声を上げたくなる耐え難い衝動をなんとか堪えしのいで、吾妻は無理に引き攣った作り笑いを浮かべて言った。

「ちがうよ、確かにその時は、オレもその場にいたよ。でも、アイツが勝手に飛び降りたんだよ。オレは止めようとしたんだけど、止める間もなかったね。あっという間の出来事だったから、どうすることも出来なかったんだよ。本当だよ、先生、信じてくれよ」

悪びれる様子も無く、しかもその言い方がいかにもわざとらしく聞こえたため、吾妻はあまりの不快さに吐き気さえ催した。

愛憎半ばするとは、まさにこのような心境のことを言うのだろうか?

ヒデのことを深く愛する程に、憎しみも激しくなる。吾妻にとっては天国と地獄が交互に到来するようなものだ。昇天した時の恍惚感が強いほど、堕獄の絶望感は、死による救済さえ赦されないように感じられた。


***


吾妻がヒデの存在を知ったのは、彼の入学当初からだった。直ぐに好みの少年として目をつけたのだった。吾妻としては、自校の生徒に手を出すことは、極力避けるようにしていたのだが、ヒデに関しては自らの欲望に打ち克つことができなかった。

イチロウの肉体は、吾妻が耽溺するべき対象物だった。しかし、それはあくまでも物として所有することに対する満足であり、彼を人間として愛していたわけでは決してない。それと同様のことが、ヒデにも言えたかもしれない。吾妻にとって、ヒデの少年としての完成度は、比類無きものだった。

イチロウもヒデも、他人の感情に共感しないが、その拒絶のアプローチがそれぞれ異なっていた。ヒデの場合は『無反応』という定義が適切だろう。対してヒデの場合は、他人の感情に対する『否定と蔑視』だ。

あの年頃の少年であれば多少はそういった面もあるかもしれない。しかしヒデの場合はそれが目に余った。問題なのは、吾妻に対してもそういう態度を取ることがしばしば、いや、ほぼ常に、あったことだ。

ヒデは吾妻のことを、完全に見下していた。ただの異常性癖者だと、うすら笑いを浮かべながら、何度も直言された。彼の少年としての完璧性を前にして、多少の我慢はしなければならないと思っていた。しかし我慢の限界を超え、殴り倒しそうになりそうなことも何度もあった。


***


意外にも、ヒデの希望で、上京してきたばかりのイチロウを、前述した都内のワンルームマンションで引きあわせたのだが、さらに予想外だったことは、ヒデが自ら望んで、イチロウの面倒を見たいと言い出したのだ。

その最終形が、イチロウの死だ。

イチロウが『ペット』である以上、誰かが世話をしなければならない。ヒデの申し出は、吾妻が世話する手間を省くという意味では、ありがたい申し出でもあり、ヒデの負担軽減という目的もあって、イチロウをすぐに屋敷で『飼育』することにしたのだった。

しかし、冷静に考えれば、ヒデが良き『飼育者』となることなどあり得ず、あのふたりが友人として仲良くなることは、それ以上にあり得なかった。それは彼らの性格を考えれば、すぐに分かることだった。いずれは潰し合いになる。しかも、ふたりは同等の力を持っていたわけではない。ヒデの方が、相手を叩き潰すという意味で、持っている能力が圧倒的に高いのは自明だった。

おそらく、ヒデには最初から邪悪な企みがあって、イチロウを自分の奴隷、または玩具として、吾妻から奪い取る目的があったのだ。

しかし、イチロウは打たれ強かった。というより、彼は自我の無い人間であり、虐待のような行為に対しての反応が、良くも悪くも乏しかった、と表現したほうが正確だろう。

だからこそ、思慮なくヒデの命令に従うことも想像に難くなかった。おそらく、ヒデにとってイチロウを校舎の屋上に誘い出すにあたり、理由など何でもよかっただろうし、いとも簡単なことに違いなかった。

そして美術棟の物置に置いてあるマスターキーを勝手に持ち出し、イチロウを学校の屋上へと連れ出し、そこから飛び降りろと命じた。そしてイチロウは抵抗することもなく、柵を越えてそのまま飛び降りた。


***


イチロウ殺害事件に絡んでいると疑われるのは、吾妻としては絶対に避けなければならなかった。

吾妻は直接手を下したわけではないし、イチロウのことを殺せと命じたこともない。しかし、イチロウを地方から連れだして屋敷に囲っていたのは、紛れも無く彼自身だった。この一件が、彼の性癖が白日のもとに晒されるリスクを高めることだけは間違いなかった。

問題はイチロウだけではなかった。万が一にも今のこの段階でヒデの存在が露呈したら、彼のすべての計画は頓挫してしまうことになる。

ヒデは、姉の殺害事件以降、家庭が霧散してしまい、この学園も退学してしまったが、実は密かに吾妻が屋敷に呼び寄せて、イチロウと同様に、そこに住まわせていたのだった。ヒデは元在校生であったが故に、屋敷にいたことが露呈した場合の、ゴシップとしての学園内での衝撃度は、イチロウの比ではないことは、容易に想像できた。

もっとも、吾妻は自分の嗜好について、本当は強い顕示欲を持っていたのだ。それを押しとどめるのが、むしろ苦痛なくらいだった。いつかは世の中の人に、広く自分のことを知ってほしいと、彼は本心から思っていたのだ。

だからこそ、その顕示欲がマグマとして噴出したものとして、彼自身が収集した少年から型取りした石膏像を、人目につくように各所に放出したのだが、今に至るまで、そのことに気付くだけの眼力のある鑑賞者は、現れてはいなかった。

それは吾妻にとって、彼の芸術が認められなかったことに対する落胆と、中途半端な形で露呈してしまうことのなかった安堵という、両義的かつ矛盾する感情を惹起することになった。

ただし、イチロウの件が起きてしまった以上、やはり現状では、ことが露呈するタイミングとしては最悪だった。『発表』と『露呈』では、吾妻が彼自身のことを世に知らしめることになるとしても、その質的な意味合いが、全く違うということだ。彼にとって、拍手と喝采を浴びる状況で発表しなければ、全く意味が無かった。

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