写真

「あら、久しぶりね、来る前に連絡してくれれば、食事でも準備したのに…、とりあえず座って」

「ええ、ありがとう」

いつもと何も変わらずに迎えてくれるセッチ(荒木節子のこと)の姿を見ると、美来は今日ホームを訪れた目的を果たせなくなるのでは、という不安に襲われた。しかし、気持ちを強く持たなければならないと思い直した。

ホームの子ども達が美来のもとにたかってきた。それは美来が訪ねてきた際にいつも繰り広げられる光景だったが、節子は間も無く子供たちに部屋から出るように言いつけた。当然子供たちは、その命令に対して不満を訴えたが、彼女は半ば問答無用で追い返したのだった。

 

***

 

「でも、いつかこういう日が来るとは思っていたわ」

美来はその発言を聞いて直感した。セッチは既にわかっている、私が今日ここに来た目的を…。

「どうぞ」

節子はお茶の入ったコップを、傷が目立つテーブルの上に置いた。

「私、事件のことを聞いたの」

長い沈黙が続いたが、その間も、節子は表情を変えずに、美来のことを見つめていた。

「そうなのね…」

「何故今まで話してくれなかったの?」

「ごめんなさい。何を言っても言い訳にしかならないけど、この日が来るまで、ただ待っていただけだった、自分から事件のことを言い出す勇気がなかった、ただそれだけとしか、言いようがないわ…」

「謝らないで。別に責めているわけではないから」


***


美来は、ある人から、尾崎希美殺害事件のことを聞き、その後自分で事件のことを調べ、自分がその事件の現場にいたことを知ったと、節子に説明した。

「そうだったのね…。今までは、事件のことを思い出すことが、貴方にとってマイナスになるかもしれないという不安を、私は抱いていたけど、でも今の貴方には、もうそんな心配は不要なようね」

「知ってしまった以上、後戻りはできないわ」

「貴方は自分自身のことについて、どこまで思い出したの? つまり、貴方は何処まで自分を取り戻したの? 」

自分を取り戻す。その言葉に美来は身震いした。その一言によって、吾妻が最初に自分の前に登場してから、事件の真相を求めて行動していたその目的が、はっきりと言語化されたのだ。

その上で、現状では具体的な記憶は殆ど戻っていないか、あるいは存在すらしていないか、どちらかだが、事件現場となった別荘地に行った際に、建物内の間取りを、かなり正確に思い描くことができたと、美来は言った。

「まず貴方に、なぜ幼少時の記憶が残っていないのかを話さなければならないでしょうね。いえ、残っているのかもしないけれど、単に貴方の中に封印されているだけなのかもしれない。そのどちらであるのかは、貴方自身が最終的に見出さなければならないでしょう。まずは、貴方がここに来るまでの家庭環境について、説明する必要があるわ」

 

***

 

節子によると、まず第一に、美来の家庭は、経済的に困窮していた。父親は定職を持たず、ギャンブル依存、飲酒癖、妻への暴力と、父親失格の条件をすべて兼ね備えているといっても過言ではなかった。

夫の暴力に耐えかねた母親は、美来の姉と兄、そして美来を連れて、安全を求めて、別の男のもとに逃げ込んだ。美来が4歳の時だった。

しかし、新しい男は、前夫よりもより大きな問題を抱えていた。それは、子供達への暴力だった。

特に男の暴力の標的となり、被害者となったのが、末っ子の美来だった。詳細は不明だが、母親は、見て見ぬふりをしていたようだ。

その後、美来は食事もろくに与えられず、三畳の部屋にずっと閉じ込められるようになった。排泄さえその部屋でさせられるという、人間以下の扱いを受け続けた結果、悪臭に手を焼いた近所の人からの警察への通報で、美来の存在が発覚し、保護されたのが、母の駆け落ちから約2年後だった。

美来は飢餓状態で命の危険もあるような状態で、精神的にも強い障害を受けていたのか、言葉も話せなくなっていた。

救出後、美来は体調が回復するまで約半年にわたり入院治療を行い、退院後に若木園に入所することになった。しかしその時点でも、他者との会話は不可能だった。

因みに、母親は、保護責任者遺棄罪で1年の懲役刑を受け、服役した後に出所したが、出所後は未だにその行方は分かっていない。上のふたりの兄弟は、東北地方の遠戚に引き取られ、現在は自立しているようだが、詳細は不明だと、節子は言った。


***


虐待を受けていたという過去が、現在の自分自身とつながっているという感覚が、美来にはまったく沸かなかった。もっともこの感覚については、自分が事件現場にいたという事実を聞いた時と、同じようなものだったが…。

人から聞いた自身の過去について、強引に自分自身に結びつけようとしても徒労に終わることも、これまでの探求で、美来は経験済みだった。ただし、自身の過去を『史実』として、であれば、特に苦もなく受け入れることができることも、これまでの経験上から把握していた。


***


「星野大地さんという人のことも聞いたわ。若木園に入所していたのよね」

「ええ…」

「大地さんの様子は、他の人たちからも、ある程度は聞いたけれど、最初に、その人がこの施設に来た経緯を知りたいわ」

「若木園の前に捨てられていたのよ。両親の存在は今になるまでわからないわ。だから、彼の本当の年齢もわからないのよ。保護された時の推定年齢は、1歳前後。分かっている彼の出生の情報は、たったそれだけしか無いわ。わたしが若木園に来てから、10ヶ月目のことよ」

「今、大地さんは刑務所に入っているのよね?」

「ええ…」

「面会に行ったことはあるの?」

「いいえ。収監された当初は、私のほうから、何度か面会を希望したんだけど、大地が面会は不要だって、断ってきたのよ」

「何故大地さんは面会を希望しなかったの?」

「あの子の本心は、私にはわからないわ」

 

***

 

「大地さんが出所したら、どうするつもりなの? あるいは、どうなるの? そろそろ、そういう時期なんじゃないの?」

長い沈黙があった。美来にとっては息苦しい時間だったが、耐えて待つしかなかった。

「確かに、私のところに戻ってきて欲しいわ。でもね、私は結局、大地のことを守ることができなかった。だから、私はこれからの大地のことを支える資格というものが、ないかもしれない。その代わり…」

「その代わり…?」

「大地には、彼を守ってくれる大事な人がいます」

「それはいったい誰のことなの? 私の知っている人?」

「大地と、ある意味で一心同体とでも言えるかもしれない、それくらい強い繫がりがある人よ。今は海外に行っていて、日本にはいないわ。でも、いつかは必ず帰ってきて、大地のことを守ってくれるわ。名前? 朝霧翼よ。幼年期までを若木園で、大地とともにしたのよ。大地と同じ日に、若木園の前に捨てられていたの。その後は里親に引き取られ、小学校に入る前に海外に行き、高校生になる頃に、一時戻ってきたんだけど、今はまた外国に、しかも東ヨーロッパに在住しているの。だから、直ぐに戻ってくることはできないのよ」

アサギリツバサ。もちろん美来は一度もそんな名前を聞いた記憶がなかった。

「同じ日に捨てられていた、というのは偶然なの?」

「実はそれは未だに不明だわ。兄弟であるかどうかもね。でも、彼等は兄弟では無いわね。証拠は無いけど、外見も性格も、全く違いますから」

「同じ日に発見されたなんて、とても偶然とは思えないわ。でも、ふたりの分かち難い関係って、具体的にはどういうことなの?」

「それは、私にも、あのふたりにも良く分かってはいないのよ。それを探求するのが、彼等自身の仕事でもあるわ」

「ちょっと待って、意味が分からないわ」

「今は私の言っていることが荒唐無稽に聞こえてしまうのは仕方のないことだと思うわ。でも、貴方だって、必ず翼と再会する時が来る。そう遠く無い時期だわ。覚えていないかもしれないけれど、貴方も翼に会ったことがあるのよ。ついこの前、手紙が来たのよ、彼が出国してから初めて…。半年後には帰国できそうなんですって」

美来には、朝霧翼という人のことなどまったく記憶に残っていなかった。何故その人がそれほどまでに重要な人物なのかも、当然理解しがたかったが、そんな彼女の疑問をよそに、節子は話題を変え、大地について、少年時代から既に自己犠牲の精神を持っていると、節子は言った。そして、大地が小学生時代に起きた、ある事件についての話しをしてくれた。

美来は確信した、これまでの話から、節子が、大地が犯人ではないと確信しているのは明らかだと。


***


「大地さんの写真があれば、見せてほしい」

「そうね…。わかったわ、ちょっと待ってて」

節子は事務室に行き、間もなく古びた1枚の封筒を持ってきた。

「大地が写っている写真は、この中に入っている1枚だけなのよ」

そして、その封筒の中から、裏面が黄ばんだ、1枚のモノクロ写真を取り出した。

「これはね、まだ私達が若木園にいた頃に撮影した写真よ、事件の後で、貴方と私は名取ホームに移ったから、もしかしたら、若木園のことは、覚えていないかもしれないわね。でもね、それによって貴方が事件に巻き込まれたことを身近に知る人がいなくなり、今になるまで、貴方に事件のことを問い質す人がいなかったという利点もあったのよ。これが貴方の幼い時の姿よ」

節子は写真の真中下を指さしながら言った。

そこにはひとりの少女が、真正面を向いて、少しだけ堅い笑みを浮かべながら、後ろから節子の両手がその少女の肩に添えられて、写真に収まっていたのだった。

美来は不思議な感じがしていた。それが自分の姿と言われても、まったく実感がわかなかった。たしかに、今の自分と比べてみても、何となく似ているような感じはしたかもしれないが、あくまでも『そんな感じがする』という程度でしかなかった。

「これが大地よ」

節子は、画面の右奥側を指さした。そこにはひとりの少年が、写真の中に収まっていた。しかし、そもそも写真が鮮明では無く、そこから、外見上の特徴や人柄を推測するのは、ほぼ不可能だったし、美来の記憶が、如何なる形でも喚起されることはなかった。

 

***

 

「貴方は事件後、一ヶ月以上も無表情で、笑うこともなかったの」節子は再び話題を美来のことに戻した。「話しかけても反応がなく、放心状態だった。それ以前は、会話はできなかったものの、とても良い笑顔を見せていたのに、事件後の変貌は一目瞭然だったわ」

そのことも含めて、裁判での証言能力がないとされ、出廷を求められなかったことは、すでに弁護士から聞いた通りだ。

「その後貴方は、本当に突然と言っていいほどに、言葉を話すようになったわ、それも、何の違和感の今まで話せなかったことが、まるで嘘のようにね。名取ホームに移ってから4カ月後、8月27日、ちょうど事件の1年後に。そしてそこからは、今の貴方につながっているのよ」

名取ホームに移り、初めて心安らげる家に身を落ち着けることができた、それが言葉の回復に繋がったのだろうか?

 

***

 

「実は貴方に見せたい、いえ、渡したいものがあるのよ。こういう日がいつか必ずやってくると確信していたから、大切に保管していたものがあるのよ、ちょっと待っていてね」

節子が持ってきたものは、色あせた、茶色の、細い布製のバッグだった。

「これはね、希美さんが貴方にプレゼントとしてあげたものなのよ」

美来は手渡された布のバッグから中身を取り出した。それは、小学校の授業等で使用される、茶色ベースのプラスティック製リコーダーだった。

「希美さんがね、話せない貴方のことを、どうすれば感情表現しやすいかを考えて、この笛を送ることを思いついたのよ。そして一緒に笛を吹く練習もしてくれたのよ」

よくみてみると、吹口には歯型が残り、その部位は削れて凹んでいた。躯体全体には、小さなキズが無数についていた。

節子は、希美と美来が二人で笛を練習している姿を、時々遠巻きに見ていたという。当然最初はうまくは吹くことができなかったが、希美と二人三脚で、根気よく練習を続けるうちに、次第にうまく吹けるになっていった。そして、希美と同じ程度にまで演奏できるまで成長していった。もちろん、楽譜が読めるわけではなく、希美の演奏した『遠い空』という曲をそのまま真似していただけだったが、音楽を演奏することに関しては、まったく遜色なく、普通のこどもたちと同じように演奏することができるようになっていた。

節子先生はそれを見て、大変驚いた。まだ言葉は回復していない。しかし、音楽が先に彼女の元に戻ってきた。そのことに新鮮な驚きを覚えたのだった。

「貴方の回復をそこまで助けてくれた希美さんに対しては、深く感謝したわ。私には、そんなアイデアも浮かばなかったし、アイデアを実行するだけの行動力もなかったでしょうから。希美さんがいなければ、貴方はただ闇の中を目標もなくさまようしか、方法が無かったのではないかしら」

美来はリコーダーの吹口を加え、指を添えて、息を吹いた。

「美来、貴方…、なんていうことなの!」節子は驚きのあまり絶句した。

美来は、まったく滞ることなく、ミスタッチすることなく、スムーズに、そして感情豊かに、『遠い空』を、最後まで演奏したのだった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る