September 1985

音の記憶

美来は、大地の事件を担当した弁護士を訪ねることにした。窪川氏が嘗てその弁護士と面会したことがあったため、連絡先を教えてくれたのだった。

美来が尋ねて来たことに、窪川氏と同様に、弁護士は非常に驚いた。念のために、身分証明として、彼女は住民票、職員証、さらに職場で撮影した集合写真を持参してきたが、提示するには及ばなかった。

「まさか今になってあの時の少女に会うことができるなど、適切な言い方ではないかもしれませんが、感無量ですよ。私はたしかに大地くんの裁判には関わりましたが、貴方の存在は話でしか聞いていませんでした。一度会って話を訊きたいと、ずっと思っていたのですが、なにぶん…」

「ええ、その通りです」

あの時の自分が、言葉も話せない状態だったということを、弁護士が言おうとしたところを半ば遮りつつ、美来は今日の面会の目的を手短に話した。

最近になり、自分が事件に関わっていることを、ある方面から知った。実は事件についての記憶が、今まで自分には全くなかったし、現在もない。周囲の人も、特に節子先生を中心に、という意味だが、自分に対する悪影響を心配したためか、事件のことに触れることはいちどもなかった。自分の目的は記憶を取り戻すことであり、そのために、事件の真相を少しでも知りたいと思っていると、弁護士に説明した。

今になっても事件の記憶がないことに、弁護士は驚いてはいたが、直ぐに冷静さを取り戻し、その後は静かに美来の話を聞き続けた。

「当時から事件現場に少女、つまり貴方がいたことについては、勿論私も知ってはいたのですが、残念ながら証言能力がないとのことで、裁判には出廷しませんでしたからね。判決が下ってからは、私もその事件とは関わりがなくなってしまうわけで、まあ弁護士というのは、そういったところは極めて事務的な面もあるわけですが、その後も、貴方の中で、事件についての記憶がそっくり抜け落ちているなどということは、まったく知りませんでした。裁判は結審し、大地君の刑は確定した。そして、大地君は自分の罪を全面的に認めていた。もはや貴方の記憶が、貴方の証言が必要な状況ではなくなっていた、ということに尽きるのですが…、まあそれはいいとして、とにかく資料を持ってきますので、ちょっとお待ちください」

と言って、弁護士は部屋を出ていき、数分後に、再びその面会室に戻ってきた。右の脇には、ファイルが一つ考えられていた。弁護士は元座っていたソファーに座りなおすと、表紙がクリーム色で非常に分厚いそのファイルを机の上に美来の向きに置いた。

「これが大地君の裁判資料です」


***


「この事案は凶悪性が高く、家庭裁判所が検察官送致と決定して、刑事裁判にかけられることになったのです。私は彼の弁護を担当したのですが、加害者が少年である殺人事件について担当したのは、彼が初めてだったので、正直言って戸惑うところも多かったのです。もっとも、私だけが弁護を担当したわけではありません。他にも有志の弁護士が三人集まりまして、彼の弁護を担当することになりました。その中では、私が一番の若輩で、刑事裁判の経験も乏しかったのです。勿論金銭的な魅力は全くありませんでした。むしろ、裁判が長引く程に、足がどんどん出ていく状況でしたからね。それでも私たちの、彼の弁護に対する情熱は、非常に強かったのです。この事件に関しては、事実関係は争ってはいません。大地君がすべての容疑を認めていたからです。情状酌量と、精神鑑定だけが減刑の手段でしたが、精神鑑定の結果は、責任能力ありとの判定でした。情状酌量という点についても、最終的には、反省の様子が伺えないと判断され、検察の求刑通り10年前後の不定期刑を宣告され、大地君に控訴の意志がなかったため、判決は一審で確定し、刑が執行されました。少年でしたし、なんとか減刑を、というのがせめてもの願いだったのですが、力不足でした」

 

***


次に起訴状に記載された自供の内容をもとに、最初に事件発生時の概要を、弁護士は説明した。

美来が昼寝をしたと確認したところで、大地は希美と二人だけになろうと思い、別荘の裏側にある納屋へと強引に連れ込んだ。大地は性的興奮を抑えられず、希美に性交渉を強要しようとしたところ拒絶されたために、激情にかられ、事前に用意していたロープで彼女を絞殺した。

殺害後、大地は被害者を屍姦し、さらにその後、滑り止め付きの軍手を嵌めて、彼女の顔面を金属バットで殴打して遺体の損壊に及んだ。

ここまでの犯行は、自らの欲望を満たすための、衝動的な行動という要素も含まれてはいたが、犯行の隠ぺい工作については、彼なりの冷静な判断と計画に基づいて行われた。

その隠ぺい工作の要諦は、自身を被害者に装うことだった。希美との性交の直前に謎の侵入者に襲われ、希美は殺害され、彼自身は暴力を受けた後に納屋の外で拘束されたという脚本だった。

まず大地は、希美の遺体を放置したまま、全裸で納屋の外に出た。

そして、予め用意していたものが、鎖と手錠だった。鎖を木に巻き付け、手錠の片側をその鎖に通して左手首に、反対側を右手首に嵌めた。

自分で自分の体を束縛した時刻について、大地は、犯行の直後であると、自供している。

事件の翌朝、管理人によって、木に手錠で拘束された大地が、そしてその直後、納屋の中で希美の遺体と、少女だった貴方が発見された。

被害者の首を占めたとされるロープ、遺体を損壊した金属バット、一連の犯行時に着用していた滑り止め付きの軍手は、いずれも、納屋に放置されていた。

現場に到着した捜査員が、その状況に不信を抱いて、大地を問い詰めたところ、速やかに犯行を自供した。希美を殺害後に、その後木に自らを束縛して、自分も被害者であることを装ったと認めたのだった。

後の死体見分と司法解剖によって、希美の膣内から精液が検出された。その精液には若干の血液が混濁しており、それが大地と同じO型であることも判明した。


***


「このように、犯行動機自体は短絡的かもしれませんが、凶器を用意するなど、計画的な面も十分にあり、隠蔽工作も行っていました。もっとも隠蔽工作としては稚拙な印象は否めませんがね。ちなみに、美来さん、貴方のことも証言していますが、大地君は自分が事件を起こした後は、貴方とは会っていないと証言しています。おそらく、貴方は犯行後にあの納屋に入ったと思われますが、大地が自身を拘束したのは納屋の裏側にあった木だったため、貴方が納屋に出入りするところを、見ていなかったのだろうと推測されました。そのうえで、貴方は裁判での証言能力はないとされ、出廷を求められることはなかったわけです」


***


「先生の大地さんに対する印象は、いかがだったのでしょうか?」

弁護士が説明を終えた後に、美来が質問した。

「公判前に大地君と初めて面会したのですが、年齢の割に非常に落ち着いているな、という印象を受けました。起訴状の事実関係については、すべて間違いありませんと答えました。ある意味、毅然とした態度でした。強姦殺人などという犯罪は、極めて短絡的で衝動的な事件です。一時の性欲を満たすために、相手を殺害するのですから、これ以上に刹那的な犯罪はないと言ってもいいでしょう。彼はとてもそんなことをするような人間には思えなかった。もっと思慮が深く、知的にも優れた人間に思えたからです。真犯人は別にいて、その犯人を何らかの理由で庇っているのではないのか、そんな穿った見方さえせざるを得ないほどでした」

窪川氏が語った、大地の初対面での印象とは、若干違うようだと、美来は思った。しかしその窪川氏でさえ、最終的には、大地があのような罪を犯すような人間には見えないと思っていたわけで、そういう点では、二人の大地に対する見方は、極めて近いと言えるのではないだろうか。二人の人間の印象が近いということ、それは取りも直さず、彼らが大地の真の人間像を適格に言い当てていると考えて良いのではないだろうか。


***


「でも、どうも大地さんの行動が奇妙といいますか、自分としては納得できないのです。うまく表現できないのですけれども。何かやっていることがちぐはぐな感じがするというか」と美来は言った。

「たしかに、それはそうですが」

「希美さんを殺害したという犯行は、やはり突発的なものだったのでしょうか?」

「そうですね」といいながら弁護士は少し沈黙を続けて、その後で言った。「希美さんが少しでも抵抗した場合は、暴力的に性的交渉に及ぶつもりが十分にあり、殺害するための用意もしていた…、やはりそういう理解で良いのではないでしょうか。その点についても大地君は特に否定しませんでしたし、その意味では、半計画的犯行と考えて矛盾しないと思いますが…」

「それにしても、本当に大地さんは、自分の犯行を隠すつもりがあったのでしょうか? 先生が先程言われたように、隠蔽の意図があってあのような行動に出たのであれば、あまりにも稚拙だし、でたらめです。現場に凶器のバットを置きっ放しにしたり、全裸になって、自分で自分に手錠をかけたり。架空の犯人を仕立てあげるにしても、誰に罪を置きせるつもりだったのか? 通りがかりの人間にでも、罪を着せることができるとでも、大地は思ったのでしょうか? そんなことはあまりにもナンセンスですし、それはどうもおかしいような気がするんです」


***


「美来さん、もしかしたら貴方は、事件の犯人は大地君ではないと考えている、或いはもしや、貴方しか知らない真相を知っていて、今になってそれを話すつもりになったのではないですか?」

「いえ、とてもそこまでは言えませんし、私が事件の真相を知っているとも思えないのですが、でもやはり心の中では、何か引っ掛かるものがあるのです。やっぱり辻褄が合っていないような気がするのです。架空の第三者による犯行であるとまで偽装しておきながら、直後に、いとも簡単に罪を認めているところが、です。ただし、少なくとも大地さんが犯人であるという物的証拠が残っていたことは間違いないわけなので、どうしようもないのですが」

「確かに自分も、辻褄が合わない、おかしいところもあるとは思いますが、しかし、大地君自身が自分が犯人であると認めているわけだし、証拠も、凶器などの物的証拠は勿論のこと、同じ血液型の体液が、その被害者の中に残っていたということもありますし、大地君が犯人であることを否定するというのはちょっと難しいのではないかと思うのですが…。偽装工作にも関わらず自供したことについては、いくら偽装しても、所詮彼の中での浅知恵でしかないことを悟り、もはや自分の罪を隠すことが出来ないと観念した、という理解で差支えないと思いますがね」

「それは確かに先生のおっしゃる通りかもしれません。大地さんが犯人であること自体は、覆すことができない事実だとは思います。でも、殺害した動機とか、理由というか、そういったものに対して疑問を感じているんです。少なくとも、性的関係を断られたからと言って殴り殺すなんて残酷なことをするような、そんなに激しい性格の人だったのでしょうか?」

「そうですね…、私の印象としては、表面上は、物静かで穏やかでした」

「私は別荘地の管理人さんからも話を聞きましたが、たしかに無愛想なところはあったかもしれないけど、大地さんは、簡単なことで、怒りを爆発させるような衝動的な性格ではなかったように思う、と証言してくれました」

「なるほど、それは確かに、私が受けた印象と同じと言えるかもしれませんね」

「それに金属バットを凶器としてを用意していたと話ですが、とても考えられません」

「それは何故でしょう?」

「事件現場に来る前から現場に金属バットがあることを、大地さんは予想していたのでしょうか。まさか金属バットを持って、三人でこの別荘にやっていたということは決してないわけでしょうし。大地さんはその別荘地を初めて訪れたんですよ。それは管理人の窪川さんの話からも、当時の大地さんのおかれた状況からも、間違いのないことです。別荘に来る計画が持ち上がってから、事前にその場所に来てバットを置いておいたとか? たしかに理論上は可能でしょうが、現実には考えにくいことだと思います」

「それは、まあ確かにそうですね」

「金属バットを準備して、関係を断られたら殺すつもりだったなんて言う理由は、後から付けられる理由であって初めからそんなことを考えて性的な行動に出るということ自体が、矛盾があると思います。私は男の人の性的な考え方というのはよくわかりませんが。どう考えてもちょっとおかしいような気がするんです」

「もちろんそういったことに関しては私も事件当初はそのような疑問を持っていましたし、希美さんを殺害する動機に関しては、不可思議な点もあると思っていました。しかし先程も申上げた通り、それを否定するには至らなかった、それだけの物的証拠が残念ながら存在していたということなんです。多少は納得できない点もあると思いますが、殺人の動機というのは一様ではありません。様々な理由があって、様々な感情があり、その複合的結果として犯罪が発生するわけです。それは未成年であっても、同様だと思います。そして、何度も言いますが、本人が犯行を認めています」


***


「わかりました。やはり貴方には写真を見る権利があります。その写真はここのページ、遺体見分調書の写しの部分にあります」

そこには見開き2ページにわたって、数えたところ全部で8枚の写真が、糊付けして貼られていた。すべてカラー写真だった。

特に顔が大きく写されていると思われる1枚の写真に美来は見入った。『思われる』というのは、それが本当に顔でどうかさえもよくわからなかったからだ。激しく損壊され、血糊で一塊となった髪の毛がこびりついて、とても人相など把握できなかった。このとき初めて、美来はその犯罪の残酷さ、おぞましさを悟った。

私は本当にこの遺体の横に座っていたのだろうか?

美来は目を背けたくなるようなそういった衝動に駆られつつも、何とかその他の写真も見続けた。

体のほうにも紫色に広がった痣が多くの場所で認められ、体にも激しく金属バットが打ちすえられ、凄惨な殺され方をしたということが、すぐにわかった。

そしてその中でも、見ていて特に辛く思われたのが、第三者の手によって中が開かれた写真と、器具によってさらに陰部の中がこじあけられた写真だった。

ハッキリとは写っていなかったし、美来の目には確認することができなかったが、この陰部の中から、大地の精液が検出されたのだ。今となっては、それは否定することのできない事実として確定していた。

「ご気分は大丈夫ですか?」弁護士は美来を気遣って言った。

「はい…、大丈夫です」

「何か思い出すことはありますか?」

弁護士はその美来の答え方を聞いて、不安を感じたのかもしれないが、彼女の真実を知りたいという強い気持ちは弁護士にも充分に伝わったようで、少しだけ身を乗り出して、その問いに対する反応を待っていた。

「とても残酷ですね。こんなことするなんて…」美来は一呼吸置いてから、続けて言った。「でも、このような光景を自分が目にしていたとはとても、信じられません」

「この写真のように、被害者の顔面には、執拗に激しく打撃の跡が加えられています。貴方が言われたように、犯人は相当残忍だ。それはつまり、あの大地君がそれだけ残忍な人間であったということに他なりません。何十回も、この凶器で打ち据えたのです」

弁護士は凶器である金属バットの写真を美来に見せながら言った。

 

***

 

突然、耳の奥から鈍い音が響いて来た。

液体を含んだ革袋を、金属の某で叩き付けるような音…。何度も何度も、その音が響き続けた。

狭い納屋の中で、美来はしゃがみこんだまま、柱の陰に身を潜めていた。

今動いては行けない。美来の本能が、自身そう叫び続けていた。

やがてその音の代わりに、ヒステリックな笑い声が、納屋全体を覆った。

とてつもなく長い時間のように感じたが、一瞬、納屋の中が光に包まれると、その笑い声は次第に遠のいていき、やがて途絶えた。

納屋の中を、再び沈黙と暗闇が支配した。

さらに長い時間が経過し、美来は少しだけ緊張が緩んだ。もう動いてもいいのだろうか?

その時、しゃがみこんでいた美来は、突然バランスを崩し、尻もちをついて転んでしまった。そして、その背中が、背後にある木材にあたり、低い音を立てた。

美来の心臓が凍りついた。

そして、あっという間に頭から血の気が引き、意識が遠のいていった。

 

***

 

弁護士は慌てて美来を抱き起こそうとした。

「大丈夫ですか美来さん、しっかりしてください。やはりちょっと無理があったようですね、私も反省しています」

「え、ええ…、でも、もう大丈夫です、ご心配をおかけして申し訳ありません」

弁護士は、美来がその凄惨な遺体の写真を見てショックを受け、意識が遠のいたと思ったようだが、本当の理由を説明する必要性が省けたので、彼女にとっては寧ろ好都合だった。

そして、美来は強い決意を抱いた、失った記憶を絶対に取り戻し、その記憶と正面から向き合い、打ち克ってみせると。


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