事件

その翌日、朝9時、予定の時刻になっても、希美達は現れなかった。

別荘地内のすべての物件には内線電話が設置してあったので、管理事務所に内線電話で連絡しようと思えば、すぐにでも電話をかけることが、希美たちにはできたはずだった。

もしかしたら夕べは遅くまで起きていて、まだ、寝ているのかもしれない。あれこれと、希美さんたちが予定の時刻に現れないその理由を、窪川は自分なりに考えてはみたが、そうだとしても少し遅れるとか、電話で連絡でもしてくれれば、少しは安心できるのだがと、窪川は少なからぬ焦燥感を抱き始めた。

何かおかしいと思う気持ちは、窪川を刺激し続けた。とにかく直接コンタクトを取るのが一番手っ取り早いわけで、まずは希美達が泊まっている区画に行ってみることにした。


***


希美達の泊まった別荘は、外から見たところでは、何も変化はなかった。しかし、窪川は不気味さを感じざるを得なかった。聞こえてくるのは、蝉の鳴き声だけで、人がその中にいる気配を、全く感じなかったからだ。

ドアをノックしてみたが、何の反応もなかったので、ノブに手をかけてゆっくりとまわしてみたところ、鍵はかかっていなかった。窪川は恐る恐るドアを開けた。

そして部屋の中を玄関からのぞいてみた。この別荘は、玄関のドアを開けたら、直接応接間が見えるようになっていた。しかしそこには、誰の姿も見いだすことができなかった。

部屋の中は綺麗に整理整頓されていて、ゴミも散らかっていなかったし、脱いで捨てられた衣服が散乱しているようなこともなかった。

紺色の大きなボストンバッグが、向かいの壁に置かれていた。このバッグは、弟の大地が最初に管理棟に現れた時、肩から担いで、いかにも重そうな様子で持ってきた、あのバッグに違いなかった。


***


窪川は次にどう行動してよいのか見当もつかず、かなり長い時間、ただ呆然と立っていただけだった。

高槻美来という少女も家の中には姿がなかったので、そのことについても、窪川はとても嫌な予感を覚えたが、なんとか良い方向に考えようとした。たとえば、帰宅前に、少しだけ歩いて遊びにでも行ったとか…。

ドアに首を突っ込んだまま、しばらく中の様子を伺っていたが、やはり三人の姿はなく、やむを得ず一旦その別荘を出て、管理棟に戻ろうとした。

しかし、ドアを閉めて建物に背を向け、歩き出そうとしたその瞬間に、背後から得体のしれない不気味な雰囲気が迫ってくる、窪川にはそんな気がしたのだった。虫の知らせとか、第六感とか、そのような類のものかもしれない.


***


窪川は別荘の背後に廻ったが、そこに納屋があることは知っていた。納屋とはいってもかなり大きく、公営住宅の一軒家と比べても遜色のないレベルだと思われた。ただし南側、つまり、窪川から見える側の壁には窓がなく、それがこの建物が倉庫であることを印象づけていた。もちろん、その中にまで入ったことはなかったし、その背後に廻ってみたこともなかった。

オーナーの尾崎さんは、将来的には、自らの趣味としてカヌーをやろうとしていたらしいことを、窪川は事件後に聞いた。千葉に別荘を購入したのも、そういう目的があったためとのことだ。そのため、カヌーやボートを収納しようとして、敷地内に大きな納屋を作ったらしい。

ただし、その納屋から海まではかなりの距離があるので、実際にカヌーを担いでそこから海まで行くことは、かなり大変だったのではないか、おそらくリヤカーを使うか、或いは車で海岸まで運ぶか、いずれかの方法が必要だっただろう。つまりは、現実性の乏しい計画だったということだ。

納屋の背後、つまり北側は、山の斜面で、その先は行き止まりになっていて、見るべきものなど何も無いはずだったが、窪川は念のためそこも確認してみようと思った。

そして、納屋の背後を見てみたが…。

まったく異質のものが、その視界の中に入ってきたような、そんな感覚だった。その正体は、クヌギの木の幹に取りついている「人間」だった。

とても現実の光景とは思えなかった。全裸の人間が、背中を木の幹につけて、立ったままうなだれている。手首には銀色の光沢を放つ手錠のようなものをはめられ、それに付随している鎖は、木の幹を周回していた。つまり、両手首に手錠をはめられ、鎖で樹に縛られ、その場からは動けなくなっていたのだ。

それが、男であり、次に少年であり、そして最後に、希美と一緒に別荘に来ていた、あの少年であることを、窪川はようやく認識した。

 

***


大地は後頭部に外傷を受けていて、その出血痕を窪川は発見した。

大地は手首には手錠が嵌められていたが、足首には嵌められていなかった。

大地は納屋の裏の木に拘束されていたので、美来が納屋に出入りしていたことを確認できない、という理由になっている。

「大丈夫か!?」

窪川は大地の元に駆け寄り、彼の肩を揺さぶったが、うなだれたままで、何の反応も示さなかった。首筋に、後頭部から流れ出たと思われる。幾筋もの血痕がこびりついていた。

とてつもなく異様なことが起こっていることを、窪川はこのとき初めて理解したのだった。状況が全く把握できないものの、何はともあれ目の前のこの少年を助ける必要性があった。

まず、大地のその手にはめられている手錠と鎖を外そうと試みたが、いくら手で引っ張ってヒンジを開放しようとしたが、鍵なしではびくともしなかった。

『あっ!』

窪川は思わず声を上げて、後ずさりした。少年の右手が微かに動いたのだ。彼が生きていることが、そのとき初めて判明した。しかも、その手は明確な意志を持って動いていた、人差し指が伸び、ある方向を示したからだった。それは、例の納屋だった。

「納屋に何かがあるというのか? おい、しっかりしろ!」

窪川は再び少年の肩を強く揺さぶったが、右手は再び力を失い、納屋を指していた人差し指は、もはや力なく垂れ下がり、意志を示すことはなかった。

 

***

 

窪川はやむを得ず少年をその場に残し、再び納屋の正面に戻った。その時初めて、扉にかかっている閂型の鍵が外れていることに気付いた。

その時、強烈な恐怖が窪川の頭から足の先までを、一直線に貫いた。しかし、その扉を開けない訳にはいかなかった。異常事態が生じていることは明らかだった。だとすれば、躊躇なく中を確認することが、管理人としての責務だ。

窪川はその扉を開けた。

全身に鳥肌が立って、悪寒が走り、胃のほうから、気持ち悪いものが込み上げてくるのを自覚した。何よりも彼を恐怖のどん底に陥れたのは、納屋の中に充満していた、その強烈な腐臭だった。その臭いだけは、今も鼻に焼きついているようで、思い出すたびに嘔吐を催す、映像以上に辛い記憶だ。

納屋の中は真っ暗で、開けた扉から入り込む光が次第にその様子を写し出した。全体にがらんどうとしていて、ほとんど物が置かれていなかったが、単に窪川の記憶から消し飛んでいるだけなのかもしれない。

室内のちょうど真ん中あたりで、外からの光を反射して輝く、ふたつの小さな瞬きがあった。希美の後ろに恥ずかしそうに隠れていた、美来という少女の目だった。彼女はその場所に正座して、扉のほうを見つめていた。しかし、窪川のことを見ていたのかは、彼には定かではなかった。薄い黄色の Tシャツを着ていたが、それは昨日彼女が着ていたのと同じものだった。

すべてのものが、まるで凍ったように動かなかった。そしてその場の静止を規定している中心的存在ともいえる、少女のすぐ正面に横たわっている、巨大な肉塊を、窪川は漸く認識した。


***


そこに横たわっていた屍体は、何かで激しく殴られて酷く損壊され、血まみれとなっている肉塊を、窪川は直視することができないばかりか、反射的に外に飛び出して、納屋の扉を閉めた。

少女をその場から救い出すだけの心の余裕は全く無かった。とても恐ろしかったし、当然ながら、こんな体験をしたことなど、生まれて一度もなかったからだ。

窪川は昭和20年時、19歳だった。陸軍招集後、本土決戦の準備のために九州に配属されて、防空壕造りをしているうちに終戦になった。戦地には行っていないが、空襲で酷い死に方をしている人間は多く見ていた。しかし、その時は死が隣り合わせの生活であり、次第にそんな光景に慣れてしまって、屍体を見ることに何の感情の揺らぎも起きなかった。

しかし、今回は訳が違う。彼にとって屍体は突然襲ってきて、それはあまりにも非日常だった。

生まれてこの方、こんなに全速力で走ったことはないというぐらいに走って、管理棟の中に飛び込み、電話の受話器を手にして、すぐに警察に連絡をした。警察が到着するまでの間、彼は管理室で、ブルブル震えながら、生きた心地がしないまま、立ったまま待ち続けるしかなかった。


***


その後、到着した警察によって、美来は納屋から救出された。身の安全が最大の懸念だったが、身体に何一つけがを負うこともなく、無事に生きていた。ただし、窪川は区画までは警察に同行して道案内をしたが、別荘の後ろ側までは、警察だけで行ってもらったので、彼女が救出された場面を、実際には見ていない。彼が納屋の実況見分に立ちあったのは、すべてが片付いたあとだった。

というわけで、大地という少年もそのまま警察に連行されたが、窪川はその姿を見届けることはなかった。警察から事情をあれこれと聞かれたが、第一発見者である以上はやむを得ないことなので、捜査にはできるだけ協力した。

  

***

 

その後、少年・神山大地は尾崎希美殺害の容疑者として逮捕され、窪川は検察側の証人としてその裁判に出廷することになった。

裁判で大地の姿を再び見ることができた。あの日以来、ということになる。

大地は、窪川が管理室で見た、初対面の時と同じ表情をしていた。ずっと下を向いたまま無表情でうつむいていて、そこに喜怒哀楽の感情を見いだすことはやはりできなかった。

確かに、初対面の時の印象は良いものとは言えなかったが、だからといって、あれほどの残酷な事件を起こすような人間には、再度彼を見ても、とても思えなかった。

暗く影のある雰囲気ではあるが、しかしそれは、世の中にはそういう人間が多少はいるというレベルでの暗さであり、明らかに常軌を逸しているという程の印象では無かった。

あんなに清楚で気品のあった希美さんを強姦した上に殺害するなど、まさに鬼畜でなければ、できない所業だ、奴の姿をこの目に焼き付けて、憎しみの気持ちを極限まで高めなければならない、それが希美さんに対する供養なのだと、この日が来るまで、窪川はずっと思っていた。

少年だからといって罪が軽減されることがあっては、決してならない、自分が見たあの凄惨な光景を、何とかこの法廷で、自分自身の表現として、この法廷に出席しているすべての人に、強く印象づけたい、最低でも大地がそのような極悪な犯罪者だということ、そして強い怒りの気持ちを彼に理解させること、それが、証言する一番の目的だった。

しかし、結果は逆だった。

大地の姿を見ても憎悪が増すことは無く、逆に、この少年があのような凶悪犯罪を起こせたのかという疑問さえ湧いてきた。

これは大きな困惑だった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る