既視感

9月の下旬を過ぎた別荘地は、通る人も無く、ひっそりと静まり返っていた・・・・・・。

美来は空き地となった区画に足を止めた。

区画番号1976番。

別荘地の入口からこの区画までは、山の斜面にそって登っていく。徒歩で4~5分ほどの距離だ。

50棟以上もの別荘を抱える一大分譲別荘地にあって、この区画は管理棟からは最も遠くに位置していて、敷地も他区画より大きく、孤立した状況で存在していた。

しかし、既に建物は取り壊されているのか、その痕跡すら、もやや認めることさえ出来なかった。雑草が、美来の腰の高さくらいにまで一面生い茂っていて、足を踏み入れることさえ直ぐにはできない状態だった。

敷地はかなり広く、150坪くらいはあるのではないだろうか。しかし、それは更地となり雑草が生い茂っている面積だけの部分を言っているだけで、木立の部分もこの分譲地に入っているだろうから、それを含めた広さとなると、いったい何処までがその一区画なのか、見当もつかなかった。そしてその更地の部分だけが、遮る木立がないために、陽が射していた。

特に理由も根拠もあったわけではないのに、美来はこの場所まで、まるでこの場所に引き寄せされるように、迷うことなくまっすぐに到達したのだった。

それは突然だった。しかし、彼女にとっては例えようもなく不気味な感覚だった。

目の前に建物が立っている映像が脳裏に浮かんだのだった。そしてそれは、いわゆる既視感とは全く異質で、鮮明で立体的なものだった。


***


その建物はまだ新築のようで、日光に照らされて、窓ガラスがキラキラ輝いている。

家の外壁はログハウス調になっていて、材木が丸太の形のままで組合わさっている。

道路側に面して、正面真ん中に緑色の玄関ドアがあり、そのドアノブはレバー式になっている。

ドアを開けて中に入ると、新鮮な材木の匂いが漂ってくる。

すぐに、見たことがないような広大なリビングが姿を現す。

基本的には平屋だったが、リビングの奥には梯子がかけられていて、見上げると、梯子の先はロフトになっている。

東側の壁には花瓶と果物が様々な角度から同一画面に描かれた、油彩の静物画が飾られている。その奥には、オープン型のキッチンが設置されている。

リビングの、向かって左側、方角的には西側の奥にドアがあるが、寝室やバルルームに通じている。

キッチンの手前には、長辺側に大人が対面にふたりずつ、そして、短辺側に対面にひとりずつ、計6人の大人がゆとりを持って座れるであろう、大きな茶褐色のテーブルが備えられている。そのテーブルは、床の材木の色と殆ど同一といってよく、インテリアとしては、統一性がとれていて、見た目にも、非常にスッキリと、ログハウスというどちらかといえば懐古的な建築方法の中で、現代的な雰囲気を醸し出している。


***


この場所にあった家の映像、それは緩徐な回復の過程から辿り着いたものではなく、突然振って湧いたように、呼び戻されたものであり、前後に何の脈略もない、それだけが絶海の孤島のような、断片的なものでしかなかった。しかし、かつて自分はこの場所に来て、その家の中に入ったこともあるのだと、美来は確信した。

それは美来にとっては大きな前進だった。自分の過去がまさにこの場所とつながっているという確信、それは彼女が自分自身を取り戻すことへの第一歩であることに間違いないだろう。

同時に不安も感じていた。記憶を思い出すことによって、知ってはいけない自分の本当の姿を知り、傷つく恐れもあるからだ。しかし、もはや後戻りは出来なかった。自分を取り戻したいという内的要請の方が、遥かに優位を占めていた。


***


更地となったその区画の周囲を、美来は歩いて探索してみたが、残念ながら、それ以外に記憶や映像として蘇ってくるものは何もなかった。

今はオフシーズンのためか、美来以外の人の姿は全く見かけなかった。夏のハイシーズンになると、今の静寂が嘘のように、この別荘地は祭りのような賑わいを取り戻すのかもしれない。彼女はその情景を思い描こうとしたが、直ぐにそれが極めて困難な作業あることを悟った。別荘など、彼女にとって、文字通り「別世界」のことだったのだ。

別荘地の主要路は周回路になっているようなので、美来は行きに来た道とは反対側の方へと進んで坂を下って行ったところ、焦げ茶色の古びた感じの別荘に目が止まった。スイスの山に建っているような、もっとも美来はスイスに行ったことなど当然ないのだが、その可愛らしい、屋根の急峻で、出窓に可愛らしい花が咲いているその感じが、印象に強く残った。

花が咲いているということは、最近ここに所有者が来ていたのだろうか? あるいは、この別荘地の管理人が、個々の建物の花壇まで、丁寧に管理しているのだろうか。

そういえば、この別荘分譲地の中に入るにあたって、小さなプレハブ小屋があった。この分譲地の管理事務所かもしれない。とりあえずその小屋を訪れてみようと、美来は思った。


***


美来は来た道を戻って、そのプレハブ小屋の前に立ったが、外からでは、中に人がいるのか、はっきりとはわからなかった。また、小屋の北側は杉の大木で囲われていて、それより奥側の別荘地を、そこから一望することはできなかった。彼女は意を決してドアの横についている呼び鈴を鳴らしてみた。

「どうぞ!」

間髪入れずに、威勢の良い低いしわがれた声が表まで聞こえてきた。

美来は一呼吸置いてから扉を開けた。

小屋の中は4畳半程度の広さしかなく、ちょうどその中央付近に、パイプ椅子に座った一人の小柄な初老の男性が、鼻眼鏡の上方からメガネを通さずに、こちらを上目遣いに見つめていた。頭髪は殆どなく、小太りで、頭から首無しで、直接胴体につながっているような上半身が目に入った。

「こんにちは」

入ってきたのが若い女だったのが予期せぬことだったのか、老人は面喰らったように、美来のことを黙ったまま、じっと見つめていた。

「管理人の方ですか?」堪らずに未来の方が最初に問いかけた。

「ええ、そうですが…」

「やはりそうでしたか、よかった…。ところで、すいませんがちょっとお聞きしたいのです」

「はあ、なんでしょう?」

怪訝そうな管理人の反応を前にして、緊張状態は続いていたが、美来は勇気を出して問いかけてみた。

「10年くらい前に、この別荘地の中で、今見に行ったら、更地になっていて、家はもう建ってなかったんですけれども、そこで殺人事件があったということを聞いたので、それについてお聞きしたいと思ってここに伺ったのですが、ちょうどこの管理人室を見て、中にどなたかがいらっしゃるのではないかと思って、お尋ねしてみました。当時のことを知っている方がいれば、お会いしてみたいと思っておりまして…」

いきなり事件のことを話題にすることは、相手に警戒を呼び起こす可能性が充分にあるため、美来は最初は躊躇っていたのだが、回りくどい言い方をしても、時間がかかるだけで結果は同じだろうと判断した上での発言だった。

そして美来は、次に用意している言葉を発した。

「実は私、その時、事件現場に居た女の子だった…、かもしれないのです」

「なんだって・・・・・・」

老人は明らかにさっきとは違う反応を示した。口をポカンと開けて、一瞬思考が停止したような、顎が外れたような、すべてのものを忘れてしまったような呆けた顔をしながら、低くうなるように呟いた。

「信じられん…」


***


その管理人は、窪川義男といった。

彼は、別荘地の管理会社からの派遣従業員で、事件当時はこの別荘地に来てから数カ月しか建っていない新米の管理人だった。東京で勤務していた大手の建設会社を、定年を一年後に控えて前倒しで退職し、この地に引っ越してきたのだった。ここは彼の生まれ故郷であり、年老いた母親がこの地にまだ当時は存命で、一人暮らしをしていたため、その介護をするため、という目的もあった。

その別荘分譲地一帯は、管理会社が一括して管理するという形態をとっていて、入居のない間、定期的な清掃や、防犯などの業務を委託されているとのことだった。

訪問理由


***


その窪川氏が事件のことを目撃していたという事実は、美来を喜ばせ、そして混乱させた。何をどう聞けばいいのか、心の準備がまったくできていなかった。いずれにしても、まずは自分に事件の記憶が無いことは、伝える必要があるだろうと思った。

「実は、わたしには事件の記憶がなく、つい最近まで、知り合いから事件のことを聞くまでは、自分がその事件に関わっていたことを、まったく知らなかったのです。そして事件の真相を知りたくて、自分自身で過去の報道資料などを片っ端から調べ上げて、事件現場がここであること知り、足を運んだのです。でも、ここに来たことで何をして何を得ようという具体的な計画はありませんでした。とにかく、ここに来れば何かが分かるのではないかという、その程度の根拠でしかないのです」

「あまりにも思いがけないことが起こって、何をどう言えばよいのか、見当もつかんが、とにかくあんなに残酷な事件を、あんなに小さな子が、直接見ていた…、かもしれないわけだから、ショックを受けて当然というもんだ。覚えていないほうが、逆に幸せかもしれないよ」


***


彼は席を立ってテーブルを回り、美来にゆっくりと近寄って来た。間近に、美来の顔を穴が開くくらいに眺め続けたので、彼女としては、恥ずかしさ紛らわすために苦笑するしかなかった。

「確かに、言われてみれば、面影が残っている気がする。勿論、その時に来ていた小さな女の子のことは、今でもハッキリ覚えているよ」

「えっ、と言いますと?」

「おとなしそうで、とても可愛らしい子だったよ。あんたは話しかけても、何も答えなかったし、お姉さんの背中に隠れて、恥ずかしそうにしていたよ。そこんところは、覚えているかい? 覚えていないか…、まあ、仕方ないな、恥ずかしそうにニコッと少しだけ笑ってくれたその顔が、今でも印象に残っとるね。その後の事件があまりにも酷かっただけにな…。それにしても、まさかこんな日が来るとは、つまり、その…、あの時の女の子が、突然今になってひょっこり姿を現すなんて、まったく思ってもみなかったよ。しかも、こんなに大きくなって、こんなに綺麗なお嬢さんに成長していたとはね」

そう言うと、老人は初めて笑顔を見せた。その顔には深いしわが何本も刻まれ、さながら小学生が作成した版画の肖像画のようだった。

「わしの中では、あの時の小さな子供のままだったからね。これは本当のことだが、今でも時々思い出していたんだよ。あのときの女の子は、今いったいどうしているんだろうってね。無理に思い出そうとしていたわけではないよ。自然とあの時の姿が、心の中に思い出されてくるんだよ。あの時のあんたの姿は、今でも目に焼き付いていて、ハッキリと憶えておるよ。というのも、わしが、事件の現場を最初に目撃したんだよ」

窪川氏の言葉に、美来は言葉を失った。


***


「随分と驚いておられるようだね」

「ええ、申し訳ありません、驚きのあまり言葉が出てこなくて…」

「こちらこそ、驚かせて申し訳なかった」

「いえ、むしろとてもありがたいのです、事件のことを知っている方にお会いすることができたのですから…。ところで、私、この管理人室に伺う前に、この別荘地の一番奥にある、敷地まで行ってみました。今は更地になっていましたが、その場に行ってみて思い出したのですが、それというのが、そこに建っていた別荘の様子なんです」

美来は窪川に、先程思い出したばかりの、当時の別荘の様子を話して聞かせた。

思い浮かんだ別荘の外観と内部の詳細な様子を、美来は窪川氏に話したが、その間、彼は口を挟まずに、静かに小さく頷きながら、彼女の話を聞き続けた。

「いや、驚いた。わしの覚えている部屋の様子とまったく同じですよ」

当時、窪川氏は点検と清掃のために、定期的にその建物内に入っていた。そして、その見慣れない現代的な内外装に、非常に感心していたのだと言った。

「それにしても、あんたはたった一晩しか、あの部屋にはいなかったはずだ。しかも、まだ10歳にも満たなかった。それなのに、ここまで鮮明に建物の記憶を覚えているとは、そのこともまた驚きだが、にもかかわらず、事件のことは全く覚えていないというのだから、もはやわしの理解を完全に越えておる」


***


いずれにしても、窪川氏は自分のことを信じてくれたようだし、共感してくれているようだったので、その点については、美来は安心することができた。

「あの時の少女、つまりあんたのことをハッキリと覚えているのは、勿論あの事件があったからなんだが」彼はためらいながら言葉を続けた。「実を言うと、事件のことを、出来れば一日でも早く忘れたい、という気持ちも強かった。だが、今日のこの日になるまでその記憶を消し去ることは、ついに出来なかった。忘れたように思っていても、ふとした時に、心の隙間から湧き出てくるように、あの時の記憶が、映画の映像のように、そしてあの臭いが、ハッキリと思い出されるんだよ。たしかに、最近はその頻度は減っているが、事件から数年の間は毎日毎晩、その時の記憶が蘇って、寝るに寝られなかった」

「だとすると、私が来たことで、嫌な記憶をまた思い出させてしまったかもしれないでのですね。そんなつもりは無かったのですが…。窪川さんが、嫌な思いをされることに対して、少しも思いが至りませんでした。本当に申しわけありませんでした」

「いや、そんなことはないよ。少しも気にする必要などないよ」と窪川氏は笑って言った。「というのも、あの事件が起こってしまった原因は自分にもあるのではないかと、ずっと後悔していた。でも、あんたに、あの時のあの少女に、会いたい、というか、何処でどうしているのか、ずっと気になっていたのは間違いのないことだったのでね。だからこうして訪ねてきてくれて、会うことができたのは、今の自分としては、嬉しい気持ちのほうが遥かに大きいんだよ。だから、自分もあの時の記憶から逃げるのではなく、正面から向かっていこうという気に、少しはなれるのではないか、そんな気さえしてきたよ。寧ろあんたには感謝したいくらいだ」

「ありがとうございます、そう言って頂けると、私も気が楽になります」美来はそう言って、窪川に笑顔を見せた。「でも、私、知りたいんです。事件のことというより、自分のことです。自分がどのような事件にかかわり、なぜ関わり、そして、なぜその記憶がないのか。たしかに、覚えていないほうが幸せなのかもしれませんが、でも、このままでは、自分の一部を欠いたままで生きていくことになってしまいます。そのことを知ってから、毎日がもどかしくて不安なんです。自分が何を考えて何をしていたのか、それが良いことなのか、悪いことなのか、取るに足らないことなのか…。私の周りの人たちは、今になるまで、そのことを私には話してはくれませんでした。きっと窪川さんのように、私を気遣ってくれてのことだったとは思いますが、今の私には、その気遣いが逆に自分にとっては障害にさえ感じられてしまいます。たしかに、事件をしることで深いダメージを受けてしまうこともあるかもしれませんが、覚悟はできています」

美来はそこまで言って、言い過ぎたことを後悔したが、窪川氏は直ぐには発言せずに、美来にお茶を淹れてくれ、間を取ってくれた。

「わかった。あんたがそこまで言ってくれたから、わしにも迷いはない。ただし、ワシは見ての通りただの学のない爺さんで、理路整然とは話せないので、そこのところは勘弁しておくれ」

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