決意

吾妻という男が美来の前を通り過ぎてから、数日が経過していた。あれ以来、彼女が考えることと言えば、ただ一点にのみ集約されていた。

それは、事件とはいったいどのようなものなのか、という疑問であり、美来にとっては、自分は一体何者なのかという問いと、同義だった。

自分がその事件に関係していとするなら、何故その記憶が全くないのか?

過去に大きな空白を抱えていることを自覚した以上、それを取り戻す必要があった。空白を埋め合わせなければ、自分は本当の自分とはいえないと、時間が経つにつれて、そう思うようになっていた。

吾妻の意図が自分にとって有益なのか有害なのかは未だに不明だが、人間としての最も根源的な部分である、自分自身に対する認識が、美来の場合は、まったく土台として成り立っていないことを、彼が自覚させてくれたのは、間違いなかった。


***


彼女にとって問題となるのは、その探索方法だった。まずは節子先生に事情を聞いてみるべきだろうか?

事件があったとするならば、節子先生が知らないはずはなかった。知っていて、それを自分には話していないのだ。そして、それには何らかの理由があるはずだった。

だから、事件のことを含めた自分の過去についての質問を、いきなり節子先生にぶつけたところで、正しい事実を確認できる保証がなかったし、正しい事実を確認できなければ、自分の空白を埋めるという本来の目的を達することも、まるで覚束ないだろうと、彼女は思った。

それに加えて、自分が問い詰めることで、節子先生に負担をかけてしまうかもしれないという、彼女自身の心理的な抵抗も大きかった。

やはり、節子先生に自分の過去を聞くことは、自分が事件の概要をある程度把握してからにしたほうが良いだろう。

美来は吾妻の名刺を手に取って、そこに記載されている電話番号を見た。すぐにその番号に電話をかけたい衝動にかられたが、なんとか自制した。自分が何も知らないままに相手の懐に飛び込んでも、あの男の意図のままに操られるだけになるように思えたからだ。

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