September 1985

記憶

夜勤明けのその日の午後、美来は駅前のファストフード店にいた。明日までに看護研究のレポートを提出する必要があった。夜勤明けの体と精神に、デスクワークは予想以上に困難だったが、期日は問答無用で迫ってくる。

レポートを書いたりすることは、決して嫌いではなかったが、下宿部屋にこもっていては、それこそ、そのまま寝てしまう危険性があったので、とりあえず外に出ることにした。

腰を落ち着けて仕事に取りかかれるところとしては、図書館が最適かとも思ったが、図書館も静かな場所だし、やはりそのまま居眠りしてしまう可能性も高く、ちょうどお腹も空いていたので、こうしてファストフード店に腰を落ち着けることにしたのだった。ファストフード店でテキストを開いたりするのは初めてだ。まだ社会人2年目の美来には、たとえファストフード店でも、立派な高級レストランだ。

美来フライドポテトを食べながら、看護の教科書を片手に持ちつつ、レポート用紙をテーブル上に置いていた。既にハンバーガーは食べ尽くしていえ、フライドポテトもあっけなく終了してしまった。あとは冷めたホットコーヒーだけで粘るしかなかった。

もう九月の末だというのに、まだ蒸し暑い日々が続いていた。店の中では冷房が効き過ぎるくらいに効いていて、特に美来が最初に座った席には、直接エアコンの冷気が降り注いできた。はじめのうちは涼しいくらいにしか思わなかったのが、寒がりの美来には、次第にそれが体に堪えてきた。彼女は、冷風が直接当たらない場所に、席を移動した。


***


美来は中学校を卒業後、准看護学校に入学した。将来は看護師として、自分で生活が出来るようになりたかったし、そうならなければという現実的な理由もあった。つまり、経済的な理由から、普通科高校に行くことは、彼女には出来なかった。

准看護学校なら授業料も生活費も出してくれるということは、彼女にとっては大きな魅力だった。その後は最低6年間の病院奉公が必要というヒモつきの援助ではあるのだが、それを考慮しても、彼女にとっては、将来は看護婦になれるということは、この上なく魅力的だった。自分が社会と繋がり、自分が世の中の役に立てる人間になれるという未来への希望が、彼女にやる気と勇気を与えた。

それにしても、なんとか最終学年まで留年することも中退することもなく、ストレートに准看護師資格までたどり着けたのは、自分でも不思議な気がした。留年または中退していく学生も少なからずいたが、そういった学生は、授業料を弁済しなければならなかった。勿論、その授業料は中退した生徒の親が払うことになるのだろが、美来には頼るべき親はいなかった。

他人のお金で学校に通っていたわけだから、あくまでも表面的にではあるが、贅沢は厳禁だった。お洒落も、同年代の少女達から比較すれば貧弱なものだったかもしれないが、その点に関しては、美来はいい意味で無頓着だった。

また、食事も出来る限り自炊することにしていた。食費は経費削減の最有力候補だった。しかしそれは美来にとっては苦痛ではなく、どれだけ節約できたか、それを家計簿につけて、浮いた金額を後で計算することが、大きな楽しみになっていた。

だからこそ、今日のこの外食は、彼女にとっては極めて異例な贅沢でもあったわけで、そこは学生時代とは違い、自分の収入の範囲内での適切な出費ではあるのだが、いずれにしても出費した分はできるだけ有効に使わなければならないと、彼女は気を引き締めてレポートに向き合った。

美来は昨年、神奈川医科大学付属病院に就職が決まり、今年の四月からは精神科の病棟看護婦として働くことになった。はじめはわからないことばかりだったし、精神疾患の患者に接することは、もちろん始めての経験だったので、戸惑うことばかりだったが、しかし持ち前の粘り強さで、困難を乗り越えてきた。興奮して暴れている患者を医者と一緒に取り押さえようとして、殴られたこともあった 

振り返ると、あっという間だった気がする。無我夢中だったので、そんな怖い経験もあったが、しかし今となっては、それも良い思い出となっていた。


***


「滝沢美来さんですね」

美来は教科書を読んでいたため、ずっと下を向いていたのだが、その突然の呼びかけにひどく驚いて、体が椅子の上で小さく飛び上がった。

顔を上げて前を見ると、見覚えのない一人の男がいきなりテーブルの向かいの席に座って、美来ことを無表情に見つめていた。

唐突に声をかけられたうえに、なぜ自分の名前を知っているか、それが疑問だったし、状況が把握できず、ただ狼狽えたまま、未来はその男を見つめ返すしかなかった。

「勉強中に突然おじゃまして申しわけありませんね。はかどっていますか?」

その問いかけにも反応できず、ただ固まっているだけの、美来の狼狽が伝わったのだろうか、男はフフっと小さく笑いながら続けて言った。

「申しわけない、別に驚かすつもりはなかったんですよ」

しかし、美来の驚きと疑いがすぐに解けるわけではない。記憶をたどってみたが、このような男に出会ったという記憶は、やはりなかった。

「実は…」男は断りもなく対面の椅子に座ってから、こう切り出した。「ちょっとした…、いや、重大な話があるんですよ、貴方に関してね。だから、少しだけ自分に時間を貸して欲しいんですよ。あ、失礼しました、自己紹介を忘れていましたね。私、アヅマといいます。『吾妻鏡』の吾妻です、あ、知りませんか? 学校で美術教師をしていましてね」

勘でしかなかったのだが、この男はただの不審人物などではなく、自分に対して、何か重大な情報を持っているに違いないという確信を、既に美来は抱いていた。しかし彼女にとって、敵か味方か、そのどちら側として接近してきたのか、それはまだ分からなかった。


***


吾妻は、細身でやや小柄な、見た目にはおそらく40前後の男だった。

「どうやら少しは私のことを少しは信用してくれたようですね。ありがたいことです」

吾妻は一方的にそう言ったが、もちろん美来が彼を信用したわけでは全くなかった。しかし、そんな彼女の内面を知ってか知らずか、彼は一方的に話を続けた。

「こうしてお話できる機会を与えていただいたことを感謝申し上げます。実を申しますと、私がお聞きしたいのは、あの事件のことなのです」

「ジケン、といいますと…?」

「もちろんあの事件のことです、尾崎希美さんの…」

「オザキノゾミ?」

いったい、この男は何の話をしているのだろうか?オザキノゾミとは誰のことなのか? その名前にはまったく記憶がなかった。もしかしたら、彼は人違いをしているのではないだろうか? だとしたら、自分の名前を知っているのは何故なのだろう…?

「そう、尾崎希美さんですよ。彼女が犠牲になった事件のことについてです」

確信的な口調でそう発言したものの、美来の反応が全くの想定外だったためか、吾妻は次第に妙な違和感に囚われているように見えた。彼女の反応が、まるで見当はずれというか、驚くでも慌てるでもなく、本当に聞いたことのない、どこか遠くの国で起きた事件のことをいきなり聞いたかのような、そんな感じに思えたのかもしれない。

「あの…、すいませんけど、オザキノゾミって、誰のことですか?」

「本当に憶えてはいないのですか?」

最初の怪訝そうな吾妻の表情が、驚愕のためにひきつっていることに、美来は気づいた。

「その御名前は初めて聞きました。思い当たることは…、ありません」

「そうでしたか…、恥ずかしながらこの状況は、まったくの想定外でした。だが、貴方のその反応に嘘がないことはすぐに分かりました。なぜそんなことになったのか…。まあ、その理由は後から考えれば良いでしょう」

吾妻はやや背中を丸めて、顔を美来の方に軽くつきだし、声を潜めて更に言った。

「私は貴方から話を伺うだけの予定だったが、もしかしたら、逆に貴方のお役に立てるかもしれない」


***


中学生だろうか、6~8人の女子達が詰めかけてきて、店内が一気に騒がしくなり、美来は我に返った。すでに吾妻の姿は無く、彼女だけがそこに取り残されていたが、テーブルの上に残された一枚の名刺だけが、彼の存在が事実であることを物語っていた。そしてその一枚の小さな紙片が、彼女にとって、まったく理解不能な現実を突き付けていた。

何故、自分には小学生より以前の記憶がないのだろうか?

美来は自分の過去にブラックボックスを抱えていた。小学生高学年より以前、つまり10歳以前の記憶が、ほとんど、いや、全くなかったのだ。それが普通だと、彼女はずっと思っていた。しかし友人達の話を聞くと、彼等は小学生の思い出を非常に良く記憶している。幼稚園の頃の記憶でさえ、かなり覚えている友人もいた。いや、彼女が仲良くしている友人の全ては、何らかの形で、3歳以降の記憶を持っていた。それが普通のことだと知った時は、強い違和感を覚えた。

しかし、今までは『違和感』までで留まっていた。

自分の過去には、空白の時間があるというのか? 吾妻という人は、オザキノゾミさんが犠牲になった事件のことを、自分に訊きたいと言っていたが、『犠牲』というのは、つまり殺害されたということなのだろうか、そのような忌まわしい事件に、自分が何らかの形で、関わっていたということなのだろうか?

節子先生に自身の過去を問いただしたことは、美来が覚えている限りでは、なかった。節子先生に訊いていなければ、他の誰にも訊いてはいないだろう。

しかし、よく考えて見れば、自身の過去を訊くことに関して、自分の中で、それを無意識に禁忌としていたのではないだろうか。

節子先生をはじめとして、その周囲の人達も、自分の過去をタブーとして、本人から訊かれなければ言わないというスタンスで、誰もそのことをあえて口に出すことをしなかったのかもしれない。

もちろん自分にとって、現在の生活を充実させることが一番の目的であって、過去に囚われている余裕がなかった、という現実的な理由もあったかもしれない。

いずれにしても、吾妻という人の出現によって、美来は動揺を禁じ得なかった。明らかに、彼は自分が知らない自分の過去を知っている、彼女はあらためてそう確信した。

今まで無意識に抑え込んでいた、自分の記憶というパンドラの箱が、今この瞬間に、何の前触れもなく、そして、まったく見も知らぬ男の出現によって、突然開かれた、そんな感覚だった。

美来はテーブルに置かれていた名刺を見た。そこには、電話番号が記載されていた。

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