精神鑑定
その日の午後、如月は大学に戻っていた。そして図書室や医局で保管している過去の文献を手当たり次第に漁って、事件に関する予備知識を蓄えた時には、既に20時を過ぎていた。
教授室のドアを見ると、「在室中」の札がかかっていたので、ドアをノックして中に入った。
岡元教授は本棚に向かって、製本された文献を手にとって、何やら熱心に読んでいた。
これは如月にとってはラッキーだ。要するに、教授は今、自分の時間を過ごしているということなのだ。その時間を少しだけ彼に割いてもらうだけなのだ。しかも、教授にとっても、彼の話が有益な情報になる可能性だってある。
「突然すいません。先生が以前精神鑑定を依頼された件について、伺いたいのですが」
「と、いうと?」
教授は鼻眼鏡を上目遣いに、如月を見た。60歳過ぎの髪の毛の殆ど抜け落ちている、痩せて小柄な男だった。
「おそらく10年ほど前に、先生が精神鑑定を引き受けていた事件についてです。私も当時は入局して間もない新米でしたので、先生がお忙しい中に、そのような雑用を引き受けておられたので、当時はお気の毒だなと、思っていたのですが…。少女を強姦して殺害した少年の事件です。少年の名前は星野大地と言いまして…」
「ああ、あの千葉の別荘で起きた事件のことだね」と教授は言った。「彼のことは今でもよく覚えているよ」
「実はその事件のことについて、先生の御話を伺いたいと思いまして…」
「君がその事件について知りたいということについては、何か訳があるのかね?」
「実は、若年性犯罪者の精神病理学的傾向、特に、成長期における心理学的諸検査の傾向について、調査したいと思っておりまして、その事件の少年についても、サンプルとして加えられるのではないかと考えているのです」
如月は事前に考えていた、架空の理由を言ったが、因みに彼の専門は、若年性大脳変性疾患の精神病理学的解明だった。
「わたくし、事件の概要については、ある程度理解しております。自分でもある程度は事実関係について調べました。私自身の研究テーマと何らかの関係があるのではないかと思いまして…」
「つまり、犯人の少年が、何らかの器質的な神経障害を抱えていた、と?」
「いえ、その、つまり、当時と違って、今はCT等の検査機器が発達してきているので、現在の視点から再度検証してみると、何らか所見が得られる可能性もあるのではないかと…。もちろん今のところは私自身の推測に過ぎません」
「なるほど、着眼点としては興味深いね。ちょっと待っていてくれ給え、鑑定書は…」
教授は本棚を探り出し、その様子を如月は静観していたが、どうやら興味を抱いていただけたようで、とりあえずは安心した。嘘をついたことは悪いと思ったが、案外、嘘ではなく、新しい知見が得られるかもしれないという学問的興味も、僅かではあるが、芽生えてきた。
程なく、一冊の冊子を、本棚の一番下の段から取り出してきた。その冊子は少し黄ばんでいた。
「ああ、これだよ。千葉県で発生した。少女強姦殺人事件だ。犯人は当時15歳の少年A、本名は星野大地という。起訴前の簡易鑑定では、精神疾患、もしくは人格破綻の所見無しとのことだった。私は起訴後に、被告弁護人の精神鑑定要請に応じて、鑑定人に任命されたんだ」
しかし、今の自分に、教授が躊躇することなく、むしろ積極的に如月に協力する姿勢を見せていることに対しては、感謝せざるを得なかった。やはり自分の上司との関係がうまくいくのは、精神的には大きな安定をもたらすものだということを、彼は改めて実感していた。
「まず、生育歴だが、彼は所謂孤児だったようだ。養護施設の前に、タオルにくるまれて捨てられていたという。そのときの推定月齢は六ヶ月程度。正確な生年月日は、精神鑑定の時にも把握できていなかった。健康状態には問題が無かったようだ。結局、そのままその養護施設が彼の養育を引き受けることになったようだ。」
それがあの若木園のことか、と如月は思った。
「それから、これは彼の精神鑑定には関連の無い話なのだが、実は彼が孤児院の前に捨てられていた時には、彼はひとりではなかったのだよ」
「と、言いますと?」
「実はその日、もうひとりの子供が、同時に、孤児院の前に捨てられていたのだ。そのもうひとりの子供と、大地とに、何らかの関係があったのかについては、大地の正確な年齢とともに、やはり不明だった。その子も大地とほぼ同年齢と考えられたが、やはり正確な年齢は不明とのことだった」
「それで、そのもうひとりの子供はその後どうなったのでしょう?」
「なんでも、数年後に養子縁組の話があって、その養父母の仕事の関係で、数年後に欧州のほうに行ってしまい、そのまま向こうで生活しているらしい」
たしかに、それは興味深いエピソードではある。しかし、教授自身も言っているように、それ自体は大地の事件とは、あまり関係は無いようだった。
「ふたりは保護された時、名前もわからなかったのですか?」
「いや、それぞれに名前が書かれた木札が添えられていたんだ」
「では、誰が名付けたのかは分からないということなのですね?」
「そういうことだ。置き去りにした人だけが知っているのだろう。ただしその木札の文字は筆で書かれていていて、達筆だったという。経済的困窮が理由で子供達を捨てたのだとしたら、その木札の存在感は極めて違和感があるという話を聞いた。あ、もうひとりの子は、たしか翼…、朝霧翼という名前だ。翼と大地。わかりやすいね。対になっているじゃないか」
そして岡山教授は、当時の記憶を如月に語ってくれた。
***
「初対面時の印象だが、まずは落ち着いていたね。外見上は、長身だが痩せていて、とても華奢な感じだった。粗暴な凶悪犯という実感は、まったく湧いてこなかったよ。初対面のわたしに対して、素直に挨拶と、簡単な自己紹介もしてくれた。少なくとも精神疾患を有しているとは思えなかったね。非常に冷静で、抑制が効き、既に大人の対応を習得している様子を伺わせた。淡々と質問に答える大地君に対して、最初はむしろ好印象を抱いた。事件の事実関係については、全面的に肯定していた。自分が罪を犯してしまったことをどう思っているのか、法廷では、事件については反省していませんと言ったらしいが、今でもその考えは変わらないのか、と私は訊いた。それに対して、その発言を撤回するつもりは無いと、明確に答えた。しかし彼は、反省はしていないが後悔はしていると言った。君は自分としては、事件を起こしたことを自分自身として悔やんではいるが、被害者に対して、申し訳ないという気持ちは、あまり無いのかね、と訊いたところ、彼はそうかもしれないと言った。反省していないと発言したことに関しては、私は少しショックを受けたが、私の目的は彼に反省を強いることでは無いわけで、その話はそこまでにした。彼が反省していないことがわかれば、それで十分だった」
***
「鑑定に際しては、当然関係者とも面会を行ったが、その数は10人以上にのぼった。面会者は、養護施設の職員、学校の教職員、友人の友人などだ。施設の関係者として一番重要視された証言者は、えーと、あ、この女性だ。荒木節子さんだったな。しかし、彼女を始めとして、誰もが、大地君がそんな凶悪犯罪を起こすようなことをするとは、とても信じられないという意見で一致していた。彼の性格に対する証言も、ほぼ全員が同じような意見を述べた ― 性格は内向的なほうだと思う、自分から話しかけてくるようなタイプでは無いが、暗いわけではなく、礼儀正しく、思慮があり、キレたりするようなことはない」
***
各種テストの結果は以下のとおりだった。
『身体所見他』
身長175cm、体重55Kg。染色体検査は46XYで、XYYなどの染色体異常は認めなかった。脳波では、頭部外傷の後遺症、てんかん性活動の所見無し。
『ウェクスラー成人知能検査』
知能指数は122と平均より相当高い。言語性知能指数136・動作性知能指数128、検査態度は非常に真面目だった。
『ウィスコンシン・カード・ソーティングテスト』
試行回数128回で正答数128、満点だった。
『バウム検査』
樹木画の発達レベルは、年齢からみて良好だった。枝にも幹にも立体描写されていて、造形性が高い。樹幹部と幹部の比率などから、知的発達は全く問題ないことがわかった。幹は強い筆圧で中央に描かれていて、自我の形成はしっかりしていると思われた。描画は適度に緻密であり、情緒の安定を伺わせた。いずれにせよ、抑制された内的衝動が目を引く特徴だった。自我はしっかりと統合されている。性的衝動に直結する所見は認めなかった。
『ロールシャッハ・テスト』
スコアリングは優秀水準。反応数は36で正常範囲。
反応拒否なし。
反応の独立性は問題無し。
平均反応時間15.5秒、平均始発反応時間は、4.0秒で、極めて迅速かつ簡潔明瞭に解答し、知的生産性の高さを示している。反応領域は、全体反応が75%で、物事を総合的に捉えられているといえる。
反応決定因子は形態反応が22%で成人の正常範囲。人間運動反応は3と正常範囲。動物運動反応は色彩因子はFCで成熟した情緒的適応性。少年性犯罪者は、この反応が悪いとされている。反応内容は人間反応25%で正常範囲内、動物反応28%で正常範囲内。修正BRS34点で適応域。新RSS75点で正常域。
***
「法廷では、自分の犯した罪に対して、何の反省の色も見せていないということから、精神鑑定の依頼があり、私ともうひとりの医師が鑑定を引き受けたわけなんだが、以上より、精神疾患の所見無し、と診断した。衝動的でも、攻撃的でも、粗暴でもない。非常に抑制が効いていて、すべての精神的なテストに関しても異常を示さなかった。同年齢の少年たちと比べても、極めて高い知的レベルを有していて、あのような衝動的な強姦殺人を犯すような人間とはとても思えなかった」
「意外な結果ですね」
「ああ。君に説明するまでもないだろうが、強姦殺人事件を起こすような少年たちに共通している性格というのは、知的レベルが極めて低く性格的に抑制が効かず、攻撃性や突発性や、衝動性というものが顕著に現れるものであるが、それらの全てについて、大地の中からそのような兆候を見いだすことは決してなかった」
「では、先生はその事件が大地による犯行であるということに疑問を感じたというわけでしょうか?」
「疑問は感じたよ、この少年があのような事件を本当に起こすことが可能なのかと。初対面の時、本当にこの少年が犯人なのか。私にはにわかには信じられず、そしてその後じっくり彼と向き合った上で得た結論としても、やはり信じられなかった。私は彼に合計で11回面接している。彼の性格はやはり先程も述べた通りで非常に理性的であり、婦女暴行など彼には最も縁のない事件に思えた。しかし私は警察ではない。事件の捜査はあくまでも警察が行っていることである。事件の物的証拠は揃っていた。この事件の事実として、彼が犯人であるかどうかについて疑問をさしたはさむ余地はまったくなかった。彼が事件において、彼の人格が事件にどのような影響をおよぼしたのか、彼の人格的な問題、あるいは何らかの精神疾患が事件を引き起こす際に、重要な問題として提起されるのかどうか、それを調べるのが私の仕事だった。月並な言い方でしかないが、間が刺したとしか言いようがないね」
「そういう意味では、やはり彼のことを学術的に調べたくなってきますね、何故魔が差したのか、魔が差すような、新たな病因が見出せるのではないかと…」
「そういうことなら、君にこの資料を貸し出すよ。まあ、納得いくまで読んでみ給へ」
「ありがとうございます」
如月自身も、教授の大地に対する意見から、強い疑念を抱いた。
大地は本当に犯人なのか? 事件の真相は、その真相を記載した書物が山奥の湖の奥底に沈められているかのように、誰も気付かないままなのだろうか?
***
鑑定結果は、依頼から約半年後に提出され、精神疾患の兆候はなく責任能力ありと判定された。その後教授は、大地とは一度も合っていないとのことだ。
「ところで、その事件には、当時10 歳弱の少女が関わってはいませんでしたか?」
如月は強い緊張を感じながら、もっとも発したかったひとことを口に出した。
「少女…? ああ、一緒に別荘に行って、遺体の脇に、1人の少女が座り込んでいたことだね」
「やはり、そのような少女が存在していたのですね」
「その子は大地君と同じ時期に、同じ養護施設で育ったのだが、何故君はこの子のことを知っているのかね? その子の存在については、当時報道規制がかけられ、一切報じられていなかったはずだが…」
「いえ、確たる情報ではなく、単なる噂として耳に入っただけです。都市伝説に近いものだと思っていたのですが、まさか本当だとは思いませんでした」
如月は嘘を並べてごまかしたが、当時そのような報道規制がかかっていたことは知らなかったし、そんな中で、その少女の存在を的確に探り当てたであろうと思われる探偵社の調査能力に、奇妙な感嘆を抱いた。
「今言ったように、大地君と同じ養護施設で育ったのだが、そのため、事件が与えたであろう彼女の精神的ショックを勘案したうえで、報道によりそれが取り返しのつかないほどの状態になってしまうことを危惧した養護施設が報道各社に強く要請し、少女については、一切の報道がなされなかったと、私は聞いている」
「少女は、事件の真相と深く関わっていたのでしょうか?」
「被害者も少女だったし、さらに幼いが、その子も少女だし、ややこしいので、殺害された被害者を少女A、今話題になっている少女をBとしようか。少女Bは原因不明の言語障害を抱えていて、会話が不可能だった。大地君と少女Aが出会ったのも、その少女Bがきっかけだ。被害者は言葉の不自由な少女Bの面倒を見るために養護施設にボランティアとして出入りしている時に、大地君と知り合った」
「それでは、少女Bの存在そのものが、事件の真相だった可能性もあるわけですね」
「そうだね。たしか、当時8歳か9歳くらいだったから、今は20歳前語にはなっているのだろうね。君が指摘するまでもなく、本来なら、その少女Bからも事情を訊くべきだったのだろうが、会話が不可能だったということで、証人にはなれなかったんだよ。だから私も少女Bには一度も会ったことはない。事情を訊くことができないからね。私も大地君のことについて、そして事件のことについて、Bに話を聞いてみたいのは山々だったんだがね。Bが大地君に対して恐怖を抱いていたか、親近感を抱いていたかは、鑑定結果に大きく影響する因子だった。今でもそう思っている。今頃はどうなっているのか? 少しでも障害を乗り越えて、成長していることを祈っているけどね」
もはやこの時点で、如月の予感は確信に変わっていた。教授は気づいていないのだ。その少女Bが、彼のすぐそばに居ることを…。
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