反対運動

如月は、名取ホームを出ると、美来が最初に預けられることになった養護施設である若木園に、直行してみることにした。に行ってみることにした。住所は先ほど荒木氏から聞いていた。

荒木氏の話を聞いて、益々美来に対する思いが募ったことは間違いなかった。彼女を幸せにしたいという、強烈な気迫が如月の心中を占めた。もちろん、自分が彼女に迷惑をかけている点は否定できない。自分が既婚者であり、自分の家庭のいざこざを彼女に背負わせる結果になっていることに関しては、申し訳ない気持ちでいっぱいだった。

しかし如月にとって、美来は後から現れた天使だった。出会う順序が、少しだけ違っていただけなのだ。ただそれだけなのに、こんなに話がこんがらがってくるのだから、人生のボタンの掛け違えというのは、やはり厄介だと、実感せずにはいられなかった。

荒木氏の話からすると、美来がその施設から名取養護院に移って、すでに九年が経過していた。彼女が在籍していた時からその施設の職員として働いていた人も、中には居るかもしれないが、たとえ彼女を知っている人に話を聞いたとしても、得られる情報も少ないだろう。仮にその施設の職員と面談するとしても、今の段階では時期尚早かもしれない。

まずはその施設を見てみたいと思った。そのうえで、その時の気持ちで、中に入って話を聞きたくなったら、お邪魔させてもらおう。今この段階で、如月は自分の行動を事前のスケジュール通りには展開できなかった。出たとこ勝負といった状況なのだ。


***


若木園は名取児童ホームよりかなり郊外にあり、すぐそばに山々が迫ってるいようなところだった。民家が数件固まって存在しているその脇に、鉄筋二階建ての、その建物はあった。小さな小学校のようにも見える。白い外壁が、くすんで褐色を帯びていた。

如月が車を降りようとしたとき、施設から道路を隔てた、向いの民家が数件寄り添うようにして建っているそのブロック塀前に、人が群がって、何やら作業をしているのを目撃した。どうやら、壁に横断幕のようなものを掛けようとしているらしかった。

やがて、その白い横断幕はその姿を現した。それは5メートル程の長さの、白い布で、作業に取り掛かっている人たちは、全員で一〇人はいるであろうか、彼らが、それを拡げて紐とテープで固定すると、その中からオドロオドロしい、大きな真紅の筆書きの文字が、如月の目に飛び込んできた。

『星野大地に告ぐ 強姦殺人犯はこの町にはいらない 我々は侵入を許さない! ◯◯町・町内会一同』

離れた壁に、もう一枚の横断幕が、続いて張られた。

『この町に平和を取り戻すまで、我々は闘う!』

ポツポツと、小雨が降り始めたが、そんなことにはまったく気づかないかのように、人々は黙々と作業を続けていた。

「失礼ですが、随分物々しい横断幕ですね」

如月は壁に向かって無言で作業をしていた、白髪の初老の男性に声をかけた。

「オタク、若木園の関係者かね?」

「いいえ、違いますが」

まるでホームの関係者であることが、罪悪であるような印象を受けたので、如月は不本意ではあったが、両手を振って強く否定した。

「園に用があるように見えたが?」

そう言って、男性は不審そうな眼差しを、如月に向けてきた。

「確かにそうですが、今日はちょっとした用件があって、初めてこちらに来ただけです。園の関係者ではありません」

「この辺の人間でもない、と?」

「そうです」

そう答えた如月だが、、男性の不躾な物言いにかなりの不快感を抱いていたのだが、次第に、彼らの行動に対する好奇心が芽生えてくるのを感じた。

「皆さんは何の目的でこのようなことをしていらっしゃるのですか?」

「本当に知らんのか? だとすると園の関係者じゃないことは嘘じゃないようだな。じゃあ教えてやろう、この園に、人殺しが戻って来るんだよ」

男性は鼻の穴を膨らまして、何故か得意げに言った。

「人殺しですって?」

「そうだよ。しかも、罪のない少女を強姦した挙げ句、その場で絞め殺したんだよ」

男の言葉に実感が湧かず、如月は彼の発言が意味するところの理解に苦しんだ。

そんなところで褒められるとは思いもしなかったので、如月は奇妙な気分がした。

しかしそんな如月のことなど眼中にないかのように、男は話を続けた。

「戻って来るんだよ、ムショからね。いくらこの園に居たからって、何でまた、奴を呼び戻さなきゃならんのだ? まったく理解に苦しむな。奴はもう二〇歳をとっくに過ぎているんだから、ここに戻ってくる理由なんて、何も正当なものはないんだ。しかも住民には何の説明もなしだ。黙ってりゃ気付かれないとでも思っていたなら、随分と近隣住民は見くびられたもんだよ、奴が事件を起こした時も、この園をどうするかで、随分揉めたんだ」

「まったく、とんでもないことだよ。私らはね、この園のことを快く受け入れてきたんだよ。殆どの子供達は、皆良い子たちだった。わしらも、よく可愛がっていたんだ。いや、今でも園の子供達は、街のみんなで可愛がっているんだよ。だが、奴だけは違った。ここに来た時から、ヤバい奴だと思っていたんだ」

「つまりは園の閉鎖を求めた、と?」

「その、『奴』というのが、此処に書かれている大地と人物というわけですね」

「いや、閉鎖を含めて、どうするかを話し合った、ということだ。だけどその時は、園を存続させることで納得したんだ。まあ、たまたま運悪く質の悪い奴が、園に入ってきてしまったということで、住民は納得した。他の子供達には、罪はないからね。しかし、奴が戻ってくるとあっては、絶対に容認できん。また犠牲者が出るぞ、絶対に」

「そうだよ。アンタは物分かりが良いね」

何人かの「仲間達」が、ふたりの会話に気がついて、興味深そうに、近づいてきた。

「つまりは、『戻ってくるな』、と?」

「まあ、そういうことだ。でも、あんただって、自分の家の隣に、強姦殺人犯が住むって知ったら、いったいどういう気分がするか、ちょっと考えてみてくれよ」

近づいてきた、おそらく皆この近隣住民であろう仲間達は、その言葉に一斉に相槌を打った。

「しかし今伺った話から推察すると、まだ実際にはその星野大地という男は、ここに来てはいないのですよね?」

「それはそうだが、園長が匂わしたんだよ。出所したら、奴を引き取るかもってね。だからこうして立ち上がったんだよ。暮らしを守る闘いだよ」

「では直接若木園に要求すればいいのではないでしょうか? なにもこんなところからデモなんかしなくても、直接話し合う方がよほど効率的だと思うのですが」

「言われなくてもわかっとるよ、そんなことは。勿論、直接交渉も行っている。でもそれだけでは不十分だ、ここにいる人数を見ればわかるだろ、まだまだ、住民のこの問題に対する認知度は低いままにとどまっている。だから、こうして活動することで、多くの住民にもっと広くこの重大な問題を啓蒙して…」

既に如月の心は別の場所に飛んでいた。彼は再び、車へと足を向けた。

「ちょっと、あんた、やっぱり園に行くのかね?」

男性が背後から大声で訊いたが、その問い掛けに、如月はもはや振り返らず、車のドアを開けてシートに座ると、すぐにドアをロックした。

如月は元来た道をすぐに引き返した。ここに来る時以上に、その道程はより一層遠く感じられた。

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