不倫

如月は自宅である海沿いのマンションに戻った。二年ほど前に新築で購入したのだが、角部屋の最上階で、このマンションの中では一番の高額物件だ。

最上階の15階のバルコニーから眺望は、如月の自尊心をある程度は満たしてくれた。ただし、それも購入してからしばらくまでのことだった。

彼は美来の部屋に入った時と同じように、最初に、真っ暗な部屋に照明を灯さなければならなかった。

妻の茜とひとり娘の愛理が家を出てから、どれ位、何日、何週、あるいは何ヶ月経っただろうか。如月はカレンダーで確かめようとしたが、思い直して止めることにした。虚しいだけだ。


***


妻の茜とは七年前に結婚した。知人の紹介で知り合ったという形だったが、殆どお見合いと言って良いだろう。

茜の父は埼玉で整形外科を開業している。

彼女は東京の、いわゆる良家の子女が通うとされる私立女子大学の英文学科を卒業した。小学校から、その系列の学校に通っていた。そのまま大学まで持ち上がりで進学した後、外資系の金融関係の企業に就職したが、二年弱で退職し、その後は結婚が決まるまで、父のクリニックで医療事務の手伝いをしていた。

茜の初対面のときの印象はどうだったのだろう? それが、いくら思い出そうとしても、思い出せないのだ。出身だとか、大学だとか、そのような彼女の属性だけは、スラスラと諳んじて語ることができるのに・・・・・・。もちろん、彼女に対して、悪いイメージは無かったはずだ。そうでなければ、少なくとも結婚まではしていないだろう。しかし、好きになったか、愛していたかと問われれば、自分としても疑いを抱かざるを得ない。

但し、彼女のことを美人だと思っていたのは間違いない。細身で長身、小さな顔の中に鋭く尖った少しだけ上向きの鼻。リカちゃん人形のように大きくはっきりした目。一見すればモデルと見間違えそうなその容姿は、彼の周囲の人間を、一様に驚かせた。如月自身は、悪くはないが良くもない、どこにでもいそうな、目立たない外見だ。自分でも、自分の容姿に関しては、コンプレックスを感じてはいなかったが、自信も持ってはいなかった。


***


当時、如月は精神科に入局して2年目の、いわば駆け出しだった。

元来内気で、決して社交的とは言えなかった如月は、茜と結婚するまで、女性とつきあったためしがなかった。大学生2年の時に、同級の女子学生に思い切って告白したのだが、手痛く振られてしまった。それ以来、彼はますます女性に対して、消極的になり、その反動からか、学問にのめり込んだ。結果、すっかり女性には疎い男になってしまった。周囲もそういう認識だったから、茜と結婚する際には、周囲が驚いたのも無理はないかもしれない。

そんな如月の生活は、周囲から見れば、明らかに派手になっているように思えた。高級外車に乗り、垢抜けたスーツを着るようになっていた。しかし、それは如月が望んでいたライフスタイルではなく、明らかに茜の嗜好だった。

そういったブランド品の購入代金は、実家からの援助で受けていたようだが、実は如月自身も未だによく分からない。夫の自分でさえ侵すことは許されない領域であり、そのような雰囲気が結婚当初から醸成されていた。

いっぽう、如月の実家は医者ではなく、自身も一介の勤務医でしかなかった。収入も、慎ましい生活をすればこそ成り立つレベルのものでしかない。


***


そんな如月と美来との最初の出会いは、今年(一九八五年)の四月だった。彼女が精神科の病棟に、病棟看護婦として配属になったのだった。看護婦としては二年目で、一年目は他病棟に配属されていた。昨年、精神科病棟の看護師が大量に退職したのを受けて、欠員補充のために配置転換させられたのだった。

神奈川医大病院は総ベッド数八五〇床に上り、看護スタッフは、優に一〇〇〇人を超える。同じ病院に勤務しているとはいえ、部署が違えば、顔を合わせることもない。まして、精神科は病院の中の病院といった趣のある、極めて特殊な部門だ。他の病棟は基本的にはオープン化されていて、入ろうと思えば、誰でも入り込むことができる。しかし精神科病棟は入り口ドアが施錠されていて、許可がなければ入ることはできない。病棟内に入るにはインターホンを押して、中で勤務している看護スタッフが、モニターでその人物が誰であるかを特定し、開錠したうえで、初めて病棟内に入ることができる。

もちろん、美来のことも、精神科病棟に彼女が配置転換になるまでは、その存在さえ全く知らなかった。


***


美来のことを如月が最初に認識した、一つの事件があった。

それはちょうど、夕方の回診が終わって、そろそろ帰宅しようかと思っていた時だった。

病棟の奥の方から、悲鳴が聞こえたため、如月と同僚の医師は、悲鳴のする方へと駆け寄ったところ、ひとりの初老の入院患者が、全裸で、折りたたみのパイプ椅子を頭の上に持ちあげて、それを投げつけようとしているところだった。如月が担当していた患者だった。

既に1ヶ月以上も入院していたが、薬物治療の効果も薄く、強い被害妄想がなかなか除去出来なかった。隔離室に入っていたのだが、食事を運んできた看護師に暴力を振るって、そのまま部屋から抜けだしたのだった。

なんとか取り押さえなければならない、頭の中ではわかっているのだが、如月は体が凍り付いたように、まったく動かなかった。そして、彼意外にも誰もそれを止めようとする者はいなかった。

しかし、立ち尽くしている如月の背後から、いきなり一人の看護婦が飛び出し、患者の胴体に頭から突っ込んでいき、その体を押し倒した。振り上げていたパイプ椅子は、床に落下して、その鈍い落下音が、廊下に響いた。ようやく体が動くようになった如月と他のスタッフ達は、すぐにその後を追い、その患者を隔離室へと連れ戻したのだが、如月達が駆け寄った時には、患者は不意の攻撃に動転してしまったのか、眼球は上転し、放心状態のまま、無抵抗に横たわっているだけだった。


***


この一件を契機として、如月は未来のことを知り、会話を交わすようになり、その後は急激に、彼女と親しくなった。おそらく最初に美来を認識した時から、如月は彼女に対して「女」を感じていたのだ。彼女はついに彼の人生に現れた女神だと、如月は思っていた。凡庸な表現だが、そうとしか言いようがなかった。

美来は、父親を亡くして、母1人で育ててもらったという。学費不要の看護学校に入学し、在学中は学生寮に入って勉学に励み、看護婦の資格を取得した。どうやら、経済的に恵まれた家庭環境とは言えないようだった。

医者の中には、すぐに看護婦と仲良く、有り体に言えば、肉体関係を持つということなのだが、そういう仲になる者も、中にはいる。如月はそこまでさばけているわけではなかったが、美来に関しては事情が違った。そして、彼女は如月のことを拒まなかった。

しかし…。彼女は如月のことを愛していたのだろうか? 

未だに、それは如月にもよく分からない。いや、むしろ今のほうが、最初に愛しあった時よりも、余程分からなくなっていた。


***


妻とは大きな喧嘩をした記憶が、如月には殆ど無かった。ではそれが仲が良かったためかといえば、決してそうではない。冷めていたわけでもないが、どちらかといえば、「契約家族」というのが適当かもしれなかった。

妻としては、自らの条件にあったステータスの男と結婚して、子供を持つことが目的だったのだ。しかし、妻をそのことで一方的に非難するのはフェアではないだろう。彼だって、結婚して家庭を持つという体裁を求めていたのだから。

しかし、愛情よりも「契約」が優先している夫婦関係であるが故にいっそう、不倫はその契約にとって最大の違反事項にほかならない。

そんな如月の裏切りを妻が気づくのに、それほど時間はかからなかった。

2ヶ月ほど前のこと、帰宅した如月に、妻はテーブルの上に、何かを放り投げるようにして置いた。

「これ、どういうことか説明してくれる?」

それは写真だった。夜間に撮られたもののようで、画面全体が薄暗く、プリントの粒子が荒く、他人が見れば、何を写したものなのかは、さっぱり見当がつかなかったに違いない。

それは美来と如月を写した写真だった。写真の二人は、手を組んで、建物の中に入ろうとしていた。それが彼女のマンションであることはすぐにわかった。正面から写真を撮られているにも関わらず、盗撮されていることに、全く気付かなかった。いつ撮影されたものなのだろう? 三日前の逢瀬の時か? ほかの写真も、同日に撮影されているようだった。

「こ、これは・・・・・・」如月は口籠った。

「早く説明してよ!」妻は容赦なくたたみかけてきた。

そのサディスティックな声言い方に、如月は震え上がり、妻の顔をまともに見ることもできなかった。いきなり先制攻撃を仕掛けられて、まったく対応を考えていなかった。しかし、不倫を始めたときから、少なくともこういう場面、いわゆる「修羅場」が来ることは、ある程度覚悟していなければならなかったはずだ。それをしていなかった自分の甘さを恥じるより他なかった。

「誰が撮ったんだ?」やっとの思いで、如月は言ったが、その声は上ずっていた。

「わたしに質問するより、自分が質問に答えるのが先なんじゃないの?」茜は目を吊り上げて言った。

如月は、言葉が出なかった。

「ねえ、どうしたのよ。これは貴方よね、そうでしょ」茜は追及の手を緩めようとはしない。

「ああ、そうだ」如月は小さな声で肯定した。

「相手は誰なの?」

「いや、それは・・・」

「とぼけたって無駄よ。わたし、知っているから。看護婦なんでしょ。病院の」

知っているなら、何も質問する必要はないじゃないかと、思わず口から出そうになったが、無駄な争いの時間が長引くだけなので、じっと黙っていることにした。いや、この状況では、如月に選択肢はなかった。黙っているか、妻の言うことをすべて認めるか、そのどちらかしか・・・・・・。

「遊びなの?」

それは最も核心を突く質問だった。妻はいつになく短刀直入だ。如月はどう答えるべきか、極めて困難な状況だった。「遊び」と答えて許されるものなのか。しかし、それで許しを得たとして、では今日この時点から美来との関係を断絶することは可能なのか? いや、それはどう考えても不可能だった。

もはや美来との関係を切ることなどできなかった。しかし、それは妻子を捨てるということを意味するが・・・。しかし、彼はそこまでのことを考えてはいなかった。逃げていただけなのだが、そこまでこの事態が深刻であることを、深く考えないままに、のめりこんでしまった。浅はかだった。それについては悔やんでも悔やみきれなかった。いきなり修羅場を迎えて初めて、事態の重大さに初めて気がついたのだ。

しかし、ここで逃げても結果はもっと悪くなるだけだろう。自分の気持ちに素直になるしかなかった。自分は妻と子を裏切って、捨てることを決意するだろう。人間としては最低かもしれない。しかし、自分の気持ちに嘘はつけなかった。嘘をついても、その後の人生はただ虚しいだけだろう。いまではそれだけ美来を愛していたし、美来の存在自体が必要だった。女性をこれだけ真剣に愛したのは、如月にとって初めてのことだし、今後もおそらく無いと断言できるほどだった。

「遊びじゃない、真剣だ」ついに如月は、最後の一言を口に出した。

「離婚するの?」

「最終的には、そういうことになるだろう」

長い沈黙が続いた。その後に妻は急に高笑いをした。それは不気味なほど長時間続いた。

「随分な入れ込みようね。バッカみたい。あんな安い女にたぶらかされて。わたし、知ってるわ。あの子、親に捨てられて、養護施設で育てられたんだってね。しかも、おぞましい事件の片棒を担いで。安易な同情で、正常な考えができなくなったのね。どうしようもないわ。本当に馬鹿な男ね。勉強だけできて、ただそれだけのくだらない人間だっていうことがよくわかったわ」

それに対して如月は無理には反論しなかった。自分がもともと夫婦の関係を壊した不倫をしていたということ、つまり自分がもともとは悪いのだということに関しては、充分自覚していたからだ。


***


それにしても想定外だったのは、美来が『養護施設で育てられた』と言う茜の言葉だった。そんな話は、美来から聞いたことが無かった。彼女からは、父親を亡くして、母親だけが県内に住んでいると聞いていたからだ。

それともう一つ、『おぞましい事件の片棒』とは、いったいどういう意味なのか?

しかし、ことの真偽を妻に問いただすことはしなかった。写真のことも考え合わせると、茜は探偵社のような専門業者に、如月の不倫調査を依頼したことは間違いなさそうだった。美来のことについても、かなり詳しく身辺調査が進んでいたものと考えられる。

妻にとっては、不倫そのものが許せないのは当然だったろうが、自分の夫が不倫をしている相手が、自分より格が上なのか、下なのか、それがきわめて重要な点だと、如月は推測した。そのうえで、自分の夫の不倫相手が、少なくとも自分よりは裕福でも幸福でもなさそうな生い立ちを背負った准看護師であると、彼女なりに判定を下すことができたので、自分のプライドを保てるだけの最低限の安心を得ることができたのかもしれない。

「ただじゃ済まないことくらい、承知しているわね」

「わかってるさ」

「わかったような言い方しないでよ!」茜は堰を切ったような大声を上げた。

隣の部屋で愛梨が寝ていた。目を覚まさないか、如月は気が気でなかった。もちろん、妻だって子供を起こすようなことは、したくなかったに違いない。しかし、この時ばかりは、そこまで考えるだけの冷静さを失っていたということか。

「ただ離婚して、慰謝料と養育費を払えばそれでいいと思っているんでしょ。そんなに甘いもんじゃないからね。覚えてなさいよ。あんたが二度と社会的に立ち上がれないようにしてあげるわ。わたしにはその力があるのよ。甘く見ないでね。嘘じゃないから。」

そして、この日から数日後、妻は子供を連れて家を出た。


***


しかし、あれから3ヶ月後の今になるまで、離婚に関する手続きの進展は何もなかった。妻からの連絡は途絶えたままとなり、だとすれば、あえて如月のほうから連絡をする必要性も感じていなかった。その意味では、今は不思議な休戦状態とも言えるかもしれなかった。

しかし、妻の言った復讐とは、何を意味するのだろうか?

おそらく、妻とその実家は、弁護士を立てるなど、着々とこちらに対する攻撃体制を整えているのだろう。もちろん、すべての負い目はこちらにあるのだから、離婚の手続きについては、すべて妻側の申し出通りに事を運んでもらっていいと、如月は考えていた。むしろ彼としては、どういう形でも構わないから、はやく解決して、美来との生活に入りたかったのだが、だとすれば、自身から妻に連絡するべきなのだが、残念ながら、彼にはその勇気がなく、時間だけが無為に消費されていく状況だった。


***


話は前後するが、妻との修羅場を経験してから1週間後、如月は美来の家にいた。暗褐色の部屋の中で、ふたりの虚脱した薄い息遣いだけが響いていた。

如月の目は上を向いたまま、中を彷徨っていたのだが、やがて、その視線は美来のデスクに収束した。そのデスクの上の書棚に、10冊以上はあろうかと思われる、本が整然と並べられていたのだが、薄闇の中で目を凝らして見てみると、それらは全て看護に関するテキストだった。その棚の様子からも、美来の几帳面さがうかがわれた。

「美来」如月が事後の静寂を打ち破った。

「はい?」

「ぼくは、大学を離れようと思っているんだ」

「え? 先生、何故? 本気で言っているの?」

「もちろん。もともと、大学になんて未練はないんだ。鬱陶しいだけだ。誰が教授候補だの、誰の論文数が一番多いだの、でも、もういいんだ。ふっきれたよ。出世したいなんて、もうこれっぽっちも思っていないから。これからは医者として、患者さんと真摯に向き合って生きていくつもりだけだ」

「わたしとのことが原因なんですよね…、もう病院中、知らない人なんていないですから…」

如月は美来の白い肌を抱き寄せた。

「美来、君は何も気にしなくていいんだよ。人の噂なんて、何の関係も無い。でも、君が気まずい思いをするのは、ぼくの本意ではない。責任は全部このぼくにある。誰が何と言おうと、ぼくは君を守る」

「先生…」

如月は美来の体を窒息しそうになるくらいきつく抱きしめ、唇を奪った。如月の舌が美来のものを求めて彷徨い、美来の舌もすぐにそれに応じた。

「美来、ぼくと結婚してくれ」

「でも…」

「言いたいことは分かっているさ。妻とは別れるよ。別に愛してもいない。憎んでさえもいない。今のぼくにとっては、ただの『知り合い』に過ぎない」

「お子さんは…」

「娘にはすまないと思っているが…、でも、今のぼくにとって、一番大事なのは、美来、君なんだよ。ぼくは決めたんだ。君を幸せにするためなら、地位や名誉なんて何の意味もない。初めてこんな風に思える女性に出会ったんだ。今の家族も、やっと捨て去る決心がついたよ。前にも言っただろ、もともと愛していて結婚したわけではないんだ。それでも、結婚っていう契約を途中で断ち切るのは、それなりに厄介なものなんだね。でも大丈夫、君は何も心配しなくてもいい。すべてぼくの方で首尾よく形をつける。どこかふたりで田舎の病院にでもいこうよ。生活なら何とでもなるさ」

「先生…」

「愛してるよ、美来」

ふたりは再び融け合った。


***


「実は、妻が探偵社を使って僕たちのことを調べたようなんだ」抱き合ったままで長い放心状態を経た後に、如月は言った。

「知っています」美来はサラリと言った。

「えっ! どうして?」

「昨日、奥様が来られたんです」

美来は表情も変えず、あまりにも冷静だった。

「何だって? そんな馬鹿な…」

そんなことも知らずに美来を今の今まで抱いていた自分は、ただのピエロではないか…。

美来によると、先日妻から美来の自宅に電話があり、駅前の喫茶店に、彼女を呼び出したのだという。

美来は黙って如月のことを見つめていたが、その表情から彼女の内面を読み取ることは出来なかった。初めて、如月は、美来という人間の、その底の深さを思い知った。

如月は美来のことを、単にかわいらしく、健気で、やさしいが芯の強い女、そんなふうにしか考えていなかった。彼女がまっすぐな性格で、まっすぐに自分に向き合ってくれたからこそ、自分もまっすぐに彼女に向き合い、そして、彼女を愛したのだった。自分のその気持ちに嘘はなかった。もちろん、彼女がまっすぐで芯が強い女性であることに対しては、今でもそう思っている。しかし、それだけではない。いや、それ以上に、彼女の精神には、多少の衝撃や困難もまったく苦にしない、いや跳ね除けることのできる、彼には伺い知ることの出来ない強さが備わっているのではないか、それは単に強さというだけではない、彼にとっては、得体の知れない深い闇が横たわっているのではないか…。

妻の攻撃に対して、如月は成す術もなく、実際のところ、かなり疲弊していた。その精神的脆弱性を補ってくれたのは、美来との逢瀬だけだった。彼女の存在だけが、今の彼を救ってくれていた。彼女がいなければ、自分は生きていけるのか、それさえも疑問だった。

しかし、美来はどうなのだろう。自分がいなくても、彼女は何事もないかのように生きていけるのではないだろうか? 彼女には他人が入り込むことの出来ない、心の奥底にひっそりと隠されている、彼女にしか開けることのできない、いや、彼女自身にさえを開けることのできない、開け方を知らない、あるいは、その存在さえ自覚されていない、秘密の扉があるのではないだろうか?

如月は曲りなりにも精神科医だ、にもかかわらず、自分の愛人の心のうちを読み取ることも出来ないとは、自分の精神科医としての技量を問われかねない事態だ。今の自分は、自身が招いた厄災に、うろたえ、打ちのめされ、それに対して、小さな穴に身を屈めて、嵐が過ぎようとするのをただ待っているだけの、くだらない存在だった。しかし、彼女はどうか、妻の襲来という予想外の出来事に対して、なんらの動揺も見せていないようだった。彼女には厄災を真正面から受け止め、跳ね返すだけの、強い心を備えているのではないだろうか。そもそも、自分から妻のことを切り出さなければ、彼女は妻が彼女の元を訪れたことを、言わなかったに違いない。

「妻は何か君に酷いことを言わなかったかい?」

「いえ…」

「言ったんだね」

「でも、それは、奥様の立場だったら、わたしだって、ああいうふうになるかもしれないですし…」

それだけ言ってくれれば、妻がどの様な態度で彼女に会い、何を言ったのか、大凡の見当はつくしかし、詳しい発言内容を美来から聞き出すことは、やめることにした。それは意味のないことだし、美来にこれ以上嫌な思いをさせることは忍びなかった。

「すまないことをした。君には嫌な思いをさせてしまって」

「いえ、いいんです。それより、先生のほうこそ、心配です。お子様には2度と会わせないということを、奥様が仰っておられましたから」

美来にまでそんなことを言っていたとは…。それは自分に対する脅しでもあり、同時に美来に対する脅しでもある。

たしかに、自分は妻に対して裏切りを働いた。しかし、その結果を美来にも押し付けようとするのは、あまりにも理不尽だ。娘には会わせないという、妻の決意が固いことはよくわかった。それが自分に対する仕打ちの中で、最も効果的であることも、彼女は十分に知っている。知っているうえでの発言だ。

「でも、今の話を聞いて自分の中でも決意が付いた。僕はすべてを新しくする決心を固めたよ。過去はすべて忘れることにする。だから、美来、ついてきて欲しい」そう言うと、如月は再び美来を抱きしめた。

美来は無言で如月の背中を抱き返した。その無言を、そして無言で如月の背中を抱き返したその態度を、彼女は自分の決意を肯定し、ついていく決意を固めたのだと、彼は判断した。


***


「妻が君の過去についても調べたらしいんだ。おそらく探偵社を雇ってね」

「そうだったんですか・・・・・・」

「君が、いわゆるその、養護施設で育ったと言っていた」

美来は無言だった。

「いや、別に、僕はそんなことを気にしているわけじゃないんだ」

如月は慌てて釈明した。美来が嘘を言っていたことを責めているわけでは無かったが、デリケートな問題であろうことは、十分に認識していたからだ。

「僕は君との将来を真剣に考えているんだ。だから君の過去についても、一度は通過しなければならないと思っている。君が養護施設で育っていようと、そんなことは僕にとっては何の関係もない。ただ、お互い嘘はつきたくないからね」

「すいませんでした」美来はより小さな声で言った。「嘘をつくつもりは無かったんです。ただ、養護施設にいたなんて言うと、それだけでは済まないから・・・・・・」

「と、言うと?」

「説明するのが、何だか面倒な気がして、普通の家庭とは違うから、養護施設というだけでは、済まないじゃないですか、どうしてそこに入ることになったのか、両親はどうしているのか、とか。それに、そんなところにいて、気の毒だったねとか、変な同情されることも多いですし」

「たしかにそうだね」如月は抑揚をつけないことを心掛けて発言した。いかにも客観的に話を聞く術が、ここでは重要だと判断した。「でも、今言ったように、僕としては、君のすべてを知りたいと思っているんだ。でも、同じことを何度も訊いたりしないし、嫌な質問には答えなくて良い。だから、君の答えられる範囲でいいから、教えてほしい」

「わかりました」

暗闇の中でその表情を再確認した。困っている様子は無かった。むしろ、決意を固めたかのように。唇を固く閉じていた。如月にはそんな美来が愛おしかった。彼女を困らせるようなことは決してするまい、それどころか、彼女を守りたかった。

自分との関係が今後公になることで、彼女自身も強い風当たりを受けることは間違いなかった。自分が守ってやらなくて、誰が彼女を守れるというのか? しかし守るにあたって、如月は彼女のことを、その過去を含めて知っておく必要があった。


***


「君はなぜ養護施設に入ることになったんだい?」

如月はできるだけ優しい口調で、尋問調にならないように訊いた。

「実はその、それが良くわからないんです…。わたし、両親は勿論のこと、家族の記憶も一切無いんです」

「君は何歳から施設で生活することになったのかな?」

「おそらく、7歳か、8歳頃だと思います」

如月は違和感を覚えた。乳幼児期ならともかく、少なくとも7歳以上にもなって、両親の記憶がないとは、どういうことなのか?

「というと、御両親とか、親戚とか、そういった家族関係の人には、施設に入所してから一度も会ったことがない?」

「ええ、一度も…」

美来が嘘をついているようには思えなかった。質問の角度を変えてみることにした。

「しかし、今も母親がいるというふうに、妻は言っていたが?」

美来が親に捨てられたという妻の証言を、如月は婉曲的に彼女にぶつけてみた。

「実の母親は行方が分からないらしいです。記憶も残っていません。ですので、奥様の御言葉が具体的に何を意味するのか分かりませんが、わたしには母代りといえる人がいるので、その人のことを指しているのではないでしょうか?」

かなり長い沈黙の後で、美来は困惑しきったように、そう言った。

「それは誰なの?」

「入所していた養護施設の職員の方です。わたしが入所した当初からお世話になっていました」

「その方は今どうしているんだい?」

「今も養護施設で働いてらっしゃいます」

「今でも交流はあるのかい?」

「はい、もちろんです」

「すぐに、とは言わないが、その方に会うことはできるかな?」

「ええ、それは勿論」

「その方が君の母親代わりならば、いずれは一度お会いしておく必要があると思うんだ、迷惑でなければね」

「ちっとも迷惑ではないと思います。むしろ喜んでくれると思います」

「そうか、それは良かった」

「次にあちらに行った時に、わたしたちのことを話してみます。そして、先生とお会いできる日を聞いてみます」

「すまないね。いろいろと面倒をかけて」

「いいんです。わたしもそのほうがすっきりしますし」

その日、彼女の過去に関する会話はそれで終了した。それ以上質問攻めにすることは気が引けた。彼女が絡んでいた事件というものについて訊いてみたかったが、今回は止めることにした。

しかし、美来が、その母親代わりといわれる方に連絡を自らとってくれると言ってくれたことは、事態を前進させる朗報だと、如月は考えた。

しかし、二人の間に「事件」のことが話題になる前に、美来は「失踪」した。

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