October 1985

失踪

すでに数十回以上も呼び出し音が鳴り続けているが、またしても結果は同じだった。こちらが諦めなければ、無限に続くかもしれないような、無機的な呼び出し音が、ひたすら繰り返されるだけだった。

如月は医局の窓から見える高速道路に視点を移した。そこにはいつもと変わりのない、闇夜を無意味に照らし出す、感情を逆撫でするような、照明の渦があった。

いや…、そうじゃない。

如月は思い返した。いつもだったら、この景色が自分を癒してくれることもある。これが不快に見えるのは、今の自分の心情を反映しているに過ぎないのだ。


***


今朝病棟に行ったときに、如月は最初の異変に気付いた。今日は美来が日中勤務であることを、彼は当然知っていた。しかし、病棟にその姿はなかった。

不審に思った如月は、午前の外来診療の合間に、何度も美来の自宅に電話を入れたが、全く応答がなかった。

「高槻君は、来ていないのですか?」

昼過ぎに再び病棟に戻った如月は、思い切って病棟婦長に訊いてみた。

「あら、聞いてないんですか」婦長はそう言うと、しまったと思ったのか、目を丸くして口を固く結んでから、ひと呼吸置いて言った。「今朝病欠の連絡が入ったんですよ。ちょっと体がつらいので、今日と明日の日勤を休みたいって。仕方がないから認めましたけどね。幸いにして、彼女はその次の日からは3連休ですから、それと併せて、ゆっくり静養してもらえれば、と思っていますけどね」

「本人から直接、ですか?」

「ええ、もちろん本人からですけど」婦長は急に怪訝そうな顔になった。「だから、急遽ひとり欠員になってしまって、やりくり大変なんですよ。今日は日勤で1年生が3人も入っているんですよ。ですから、○○さん(3年目の看護婦のこと)に負担がかかっちゃって。まあ、体のことですから、仕方がないんですけどね」

既に周りの人間は皆知っているのだ、自分と美来との関係を…。だからこそ、婦長にとっては如月が美来の体調不良を知らないことが、意外だったのだ。本来ならば、美来の動向を、自分が最初に知るべき立場にいる人間なのだから。

明らかに何かが起こっている、如月はそう思わざるを得なかった。自分に何の連絡もなく、美来が姿を見せないということが、考えられなかった。何らかの事件に巻き込まれたのだろうか? 

いや、それは違う。なぜなら、彼女は自ら病欠すると言っていたからだ。婦長がそう証言している。ならば本当に病欠だということはないのだろうか? いや、おそらくそれもないだろう。

本当に体調不良や病気であるならば、まず自分に対して、何らかの方法で連絡が来るはずだし、部屋にいるはずだからだ。


***


「それから、別件なんですが、気になることがあるんですよ」と看護婦長は言った。「病棟にストックしていたセルシンがなくなっているんです。しかも5アンプルもです」

セルシンとは薬剤の商品名で、正式な薬剤名をジアゼパムと言うのだが、所謂安定剤のようなもので、注射により鎮静作用があり、麻酔作用もあるので、投与量によっては意識が一時的に消失する。さらに多量に投与すると、呼吸抑制作用もあるので、呼吸停止から死に至ることもあり、厳重な管理が必要な薬物だった。

昨日の夕方に確認したときは、薬剤は病棟の保管個に保存されていたらしい。それは病棟の看護師が夜勤前に病棟のストックの量について確認していたためだった。通常ジアゼパムは、患者の不穏や興奮状態を抑制するために臨時で使用する薬剤として、病棟にストックされている。筋肉注射に関しては、看護婦でも施行できるが、それには医師の指示が必要だ。看護婦は医師が指示書に記載した指示に基づいて、医療行為を行うことができるからだ。

美来が持ちだした?

如月は直ぐにセルシンの紛失と美来の欠勤を結びつけて考えた。いずれにしても楽しくない推測だ。

もしかしたら、誰かに唆されて、そんなことをしたのではないか?

誰かに? それは他に男がいることを意味しているのか?

しかし、美来が無断欠勤したことと、セルシンが紛失したことを、関連付けられるだけの証拠は、今のところないのではないだろうか?

しかし、偶然の一致にしてはタイミングが良すぎる感じがする。

如月は不快な胸騒ぎを禁じ得なかった。


***


その日如月は、午前は外来診療、午後は病棟回診と症例カンファランス、そして夜は製薬会社主催の研究会に出席しなければならなかった。しかし、午前の外来診療では、患者の訴えは殆ど御経のようにしか聞こえなかったし、夜の研究会では彼が発表することになっていたので、欠席するわけにもいかなかったが、自分が話しているという感覚は全くなく、カセットテープが自動で音声を流していて、それを自分自身で聞いているようにしか感じられなかった。

あの精神状態でよくプレゼンなどできたものだと、今にしてみれば驚くばかりだ。その後の質疑応答も、どのように質問を受け流していたのか、まったく記憶がない。

研究会の後には懇親会と称する食事会があるのが通例で、そこでは、他の大学から招待している、精神分析の分野では著名な医者との懇談があった。その分野では新進気鋭の分析医であることを自他共に認めていた如月としては、本来ならばこうした懇親会で自分より遥かに年上の教授達が、向こうから自分に挨拶に来ることを、半ば恍惚とした達成感を持って応じていたのだったが、今日は事情が違った。

教授には、家庭で用事があるため、今日は懇親会の出席を辞退したいという旨を伝えたが、それを聞いた教授は露骨に不快な顔をした。

発表者が自分であろうとなかろうと、こういった会での主役は、常に教授であり、その教授を輝かせる媒体が自分だっただけだ。その媒体がいなくなっては、彼は自ら光を放つことはできないのだ。というわけで、懇親会の欠席が不興を買ったのは間違いなかった。

それにしても、教授は自分の私生活を、どの程度まで把握しているのだろうか?

病棟の看護師たちは、皆如月と美来の関係を知っている。彼の直近の先輩・後輩医師も、おそらく知っているだろう。教授は、三面記事的なネタには、まったく興味がないタイプと断言しても良かった。良くも悪くも、学問しか知らない堅物だ。本来ならば、そんな噂は彼の耳に入ってくるはずもないし、仮に入ってきたとしても、心に留め置かれるようなことは無いに違いない。

しかし・・・・・・、と彼は思いなおした。その噂の主が自分であれば、事情は違ってくる。自分も、そして周囲も、神奈川医大医学部精神科教室の後継者となるべき人物は、この如月雄だと認識しているのだ、少なくとも、つい最近までは。

しかし、妻が裏から教授に手をまわしているかもしれないので、単に知らないふりをして、後になって制裁を加えてくるかもしれないが、今の自分に、それに怯える理由などあるのだろうか?

自分はアカデミズム、いや、実際にはアカデミズムとは程遠い前時代的な徒弟制度に、ほとほと嫌気がさしていたのではないか。なのに、気が付けばその流れの、まさに本流に位置しようとしている。それに対する反発があるからこそ、美来を選んだのではないのか。そのことで、本流から外れるようなことがあっても、それはむしろ自分の望むべき結果ではないのか?

如月はハンドルを握ると、アクセルを目いっぱい踏み込んで、ホテルの地下駐車場を後にした。


***


如月は月極契約している駐車場に車を止めた。空き地を利用した、三台分のスペースしかない、住宅密集地の中の駐車場だった。

車から降りると、向かいの古い木造住宅の引き戸から、腰の曲がった老婆が出てきて、こちらの様子を伺っている。もう何度も顔を合わせているので、如月はその老婆の顔を覚えてしまっていた。彼女だって、当然こちらのことを十二分に認識しているだろう。あるいは、自分がここに来たのに合わせて、わざわざ確認のために表に出てきているのかもしれなかった。自分でも随分不用心だなと思う。

病院関係者だけではなく、彼が知らない人間すべてが、自分と美来との秘め事をすべて知ってほくそ笑んでいるのではないかという錯覚に囚われた。しかし、周りの人達が皆知っているなら、既に『秘め事』でも何でもなく、ただのゴシップでしかないだろう。

いずれにしても、秘密が露見することに対して、如月は極めて鈍感になっていた、ということだ。夜に同じ車が何度も狭い住宅密集地の中の駐車場に泊まり、同じ男が何度も姿を見せれば、いやでも周囲の住民たちは自分のことを認識するだろう。ここから美来の住むマンションまでは距離にして300メートルはあるだろうか。気を使って少し遠めの場所に駐車場を契約したつもりなのだが、もはやその効果も期限が切れてしまっているのかもしれない。

ひんやりした冷たい空気が、車を降りた如月を包み込んだ。10月末になった今、急激に空気が入れ替わり、冬に向かって季節が突き進んでいるのを、如月はこのとき初めて実感した。

目的の場所である、住宅密集地の中にある三階建ての小規模マンションの前に立った。彼女の部屋はその三階にある。如月は足早に階段を駆け上がった。

突然目の間に、人影が出現して、あわてて足を止めた。踊り場で上から階段を降りてきた人に、ぶつかりそうになったのだ。顔を上げると、それは見たことのある、大柄な女性だった。

「先生! どうしたんですか? そんなに慌てて…」女性は周囲に響きわたるような甲高い声を上げた。

「あ、いや、こんばんは」そう言うと、如月は顔を背けて、足早に階上へと登った。

出くわしたのは、なんと同じ病棟の看護婦だった。美来の先輩にあたる。このマンションに住んでいることは以前から知っていた。しかし何度もここには来ているが、実際にこの場で顔を合わせたのは初めてだった。当然、院内で今の出来事を言いふらすに違いなかった。

それはともかく、その看護婦の姿を一瞬しか見なかったのだが、いつもと変わった様子は無いようだった。美来からは、彼女と仲が良いとか悪いとか、その類の話を聞いたことはなかった。美来の状況は、何も知らないのだろうか?


***


やはり、むしろ自分に対して距離を置こうと感じ始めているのではないだろうか。「今後のこと」を考えて。だからこそ、自分からの連絡に対して無反応を通しているのだ。そう考えるのが一番妥当だろう。

失踪したと考えるのは、いかにも早計だ。まだ連絡が取れなくなってから、1日も経ってはいないではないか。彼女だっていい大人なのだ。自分に対して、いちいちどこに行くのかを報告する義務もない。

如月は一度大きく深呼吸してからダイニングテーブルの椅子に座り、軽く目を閉じた。

まあいい、少し冷静になろう…。

それはあり得ることかもしれない。そのときは動揺を、表面上は見せてはいなかった。それに、昨日は電話で話したが、特に変わった様子はなかった、ただの雑談で、数分にも満たない会話でしかなかったが。

その時に、近々今後の話をしたいと言ったことが、彼女にとって精神的な重圧となってしまったのだろうか? 

最後に直接美来と会ったのは二日前のこの部屋だ。

この部屋はいつもと何の変わりもなく、部屋の主の痕跡だけが無くなっている。美来は忽然と姿を消してしまったのか? 部屋で事件に巻き込まれなかったとしても、外で事件に巻き込まれたのか? いや、ちがう。彼女は自分の意思で、ここから出て行ったのだ。職場に病欠の連絡を入れたことがその理由だ。

どういうことだ?

次にバスルームとトイレのドアを開けてみたが、人影はなかった。バスルームのタイルは、ほぼ完全に乾いていた。シンクを覗いてみたが、これも水分がなく、乾いていた。

小さなキッチンには、ふたりが対面で座れる程度の、白い小さな楕円形のテーブルが置いてある。如月が美来とふたりで量販店に行って購入したものだ。部屋の西側の壁には、シングルベッドが置いてあり、シーツ類は淡い水色で統一されていて、掛布団は乱れることなく、ベッドの上に置かれていた。枕が二つ、いつもと変わらず、ベッドからはみ出るように置かれていた。壁側が美来の、手前が如月の枕だった。

部屋の様子はいつもと変わりがなかった。美来はかなり整理好きで、部屋はきっちりと整頓されていることが常だった。荒らされている様子はなかった。少なくとも、この部屋の中で犯罪に巻き込まれた様子は無いようなので、ひとまず如月は安堵した。

如月は鍵を開けて中に入ったが、真っ暗だったので、玄関の照明を点けた。8畳程度の1DKタイプのマンションなので、玄関から部屋のほぼ全体が見渡せる間取りになっている。バルコニーに面する窓にかかる、地味な茶褐色の遮光カーテンは閉められていた。

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