単独行動

朝霧先生の家を訪れた次の日の日曜日、わたしは一人学校に来た。校庭では、野球部が他校を招いて試合をしていたが、それ以外に人影は認めなかった。

自分に自信を失っていたわたしだったが、少しだけ褐色の、艶のある、真っ直ぐな髪は、今のわたしの中では、記憶力とともに、数少ない自慢の種だった。その日は、その自慢の髪をポニーテールにして、お気に入りの赤いシュシュを付けた。かなり長めのポニーテールだ。その先端は、背中の下半分を越えようとしていた。そんな気になったのも、朝霧先生に会うためなのだが、それを素直には認めたくない部分もあった。

正門奥にある守衛室で、守衛さんに声をかけて校内に入る許可を得ようとしたが、その時は巡回でもしているのか、守衛さんは不在だった。今日は日曜日なので、校舎には鍵がかかっていて、特別な許可を得なければ校舎内には入れない。しかし、今日は校舎内に入る予定はなかった。あえて今、守衛さんに許可を得る必要もない。事後承諾でも、何の問題もないだろう。

本心ではミカには来てもらいたくなかった。ミカは事件には関係ないのだから。しかし、それだけでは無いだろう。実は、わたしは、朝霧先生とふたりだけで、行動したかったのではないか? そう自問自答してみた。たしかに、そうとも言えるし、そうでないとも言えた。朝霧先生には好感が持てた。わたしの話を親身になって聞いてくれた。

それに、朝霧先生の冷静な判断で、わたしの証言が真実であるということが、あくまでもわたしの中では、という意味でだが、確実なレベルで証明された。しかし先生に対して、恋愛のような特別な感情があるかと言えば、それははっきり違うと言える。そんなにすぐに恋愛に陥るほどに安易な性格ではないと、自分では思っている。

あくまでも、自分が目撃した事件の真相を自分で解明したいだけだ。そのためには、朝霧先生が、現時点では最高のパートナーであることは、間違いなかった。だからこそ、朝霧先生とふたりだけで、今日は行動したかったのだ。

たしかに、自分と朝霧先生を引きあわせてくれたのはミカのおかげだが、今後の事件の解明には、正直言って、それほど大きな貢献をしれくれるとは思わなかった。

ミカに関しては、すっかり朝霧に熱を上げているようだが、恋愛感情というよりも、アイドルにキャーキャー言っている一人のミーハーファン、という表現が正しいのかもしれない。

それにしても、昨日朝霧先生の家を訪れてから、それまでは、何もやる気が起きなかったし、何も目標もなかった自分の中に、事件を解明したいという欲求が、心の底から湧いてきていた。これは自分でも驚くべき変化だった。


***


朝霧先生達と待ち合わせている時間は朝の九時だった。今はまだ八時三〇分だ。

今日は低い雲が垂れ込め、今にも雨が降り出しそうな天候だった。

事件を今後調べていく上では、朝霧先生の助けが必須であることはわかっている。しかし、思わず早めに学校に到着してしまった。これも心境の変化が、つまり、わたしの中に目覚めた前向きな気持が、この場に早く到着する原動力になったのかもしれなかった。

そして、その心境の変化が、思わぬ行動をわたし自身に起こさせようとしていた。それは、まずは一人で森の中に入ってみようとすることだった。わたしは、自分が主体となって事件解明の糸口を掴みたいと思うようになっていた。確かに、この森の中に一人で入っていくには、あの時の自分の記憶は、大きな障害だった。あの中に入れば、またあの記憶が鮮明に呼び覚まされるかもしれない。そして、そのために、再び苦しむことがあるかもしれない。

しかし、今のわたしにとっては、それはむしろ乗り越えるべき壁のようなものに思われた。そして、それを自力で乗り越えれば、一歩先の美来が、そこには開けているのかもしれない、そう思うようにさえなっていた。勿論、それは何の根拠もない仮定での話でしかない。それに、朝霧先生とミカを待ってからでも、森に入ることは、遅くはないかもしれない。そうすれば、精神的なダメージを受けたとしても、そのダメージは、一人で森に入った場合よりは、小さいだろう。しかし、それではダメだ。やはり、一人で森に入った場合より、自分が得る精神的な収穫は、小さいものになってしまうだろう。

わたしはこの事件を自分のステップアップにしたいと思うようになっていたのだ。であるならば、自分が出来ることに関しては、自分でやらなければならない。現状を打破するためにも、それが是非とも必要なことのように、ますます思えて来た。


***


森の中へ踏み込んだ第一歩は、自分でも驚く程にスムーズだった。そして、そこは前回入り込んだ時に比べれば、随分明るく感じられた。今日は曇っていて、雨が降りそうな天気だから、決して前回の時より森の中が明るいわけではなかった。単に気分の問題だけなのかもしれない。

躊躇うことなく歩みを進めると、やがて、蔦に覆われた、あの壁が姿を現した。

自分の中で感情の揺らぎが起きないことに、わたしは安堵した。あの壁を見た瞬間に、身が凍る思いをするかもしれないと、内心危惧していたからだ。

わたしが前回身を隠した大木も、小径の脇に見つかった。

そして、壁沿いの小道にそって、向こう側には、あの事件の現場となった場所があった。今の位置からでも、それは見通すことが出来る。

わたしはあの大木の後ろに回ってみた。あの時の状況と、その状況をここから見たときの距離感を、できるだけ詳細に思い浮かべるためだ。すると、そのときは実感していなかったが、実は殺害事件が起きたその場所からは、20メートルも離れていないようだ。思っていたより近くであの惨劇を目撃したことに、改めて恐ろしい思いがした。

そして、その樹の影を出て、その場所へと向かった。少し怖かったが、今は勇気の方が上回っている。現場に立ってみた。しかし、その足元には小道の脇の雑草を見る他は、特段変わったものは何も無かった。道の上に足跡を探してみたが、目立ったものは無かった。あれから何度か雨が降っているし、それで消えてしまったのかもしれない。


***


意気込んで乗り込んではみたが、事件の新たな証拠となるようなものは、何も得られなかった。少しがっかりしたが、やむを得ない。わたしは探偵ではない。捜索に関しては単なる素人だし、そもそも、単なる出来の悪い一人の女子高生に過ぎないのだ。

わたしはすぐ後ろに目を向けた。そこには少年と吾妻が出てきた門があった。その鉄製の門は、茶褐色に変色していて、適切なたとえが思い浮かばなかったが、戦国時代の城の頑丈な鉄門のように感じられた。朝霧先生の屋敷の門に比べれば、その大きさは、比較すれば小さいかもしれないが、侵入者を撃退し、激しく拒絶するような雰囲気は、この門のほうがはるかに上だろう。

この門を開けるには、かなりの力が必要に違いなかった。しかしよく見ると、門の右横には、屈んでその中に収まるくらいの、小さな窪みがあり、さらにその中に、苔が一面にこびりついた、おそらく木製と思われる小さな扉があった。

できるだけ人目に触れぬように設置された通用門のようだ。少年と吾妻は、この出入口から出てきたのかもしれない。

しかし、その扉は奇妙な構造をしていた。こちら側にはドアノブも取っ手もついていないのだ。つまり、こちら側からはドアと開けられないのだ。

わたしはその扉を軽く押してみた。しかし、予想通り内側から鍵がかかっているようで、わずかに蝶番の緩みがあるのか、カタカタ音を立てるくらいで、それが開くことはなかった。

わたしは次第に大胆になり、ドアをもっと大きく押したり引いたり、しまいには軽く叩いたりしたが、やはり扉は開かなかった。

諦めざるを得なかったが、今のところはここまでだ。進歩が無かったわけでは無いのだ。先生とミカが来る前に、被害者と加害者が何処から出てきたのか、その経路となっていた可能性が高い場所の情報が得られただけでも収穫だ。


***


とりあえず、一旦校門まで戻ることにしようと思い、時計を見たら、既に9時5分前だった。わたしは壁に背を向け、来た道を逆方向に歩き出そうとした。

え・・・・・・。

全身に鳥肌が立つ感覚が走った。背後から、微かに蝶番が軋むような音がしたのだ。わたしはその場に立ちすくんだ。

振り返ろうとした瞬間、急に首の周りが締め付けられた。息が苦しく、自分の手を首に回そうとした。

わたしは再び死の恐怖を感じた。自分の首を背後から締めているものの正体を、わたしは知ろうとしてもがいた。しかし次の瞬間、強烈な異臭が全身に充満し、そしてその異臭が一気に意識レベルを急降下させた。

助けて・・・・・・。

わたしの助けを求める声は、ただの低い呻きにしかならなかった。すぐに意識が遠のき、苦痛は次第に感じなくなっていた。

「今度こそ、これが『本当に』死ぬってことなんだ・・・・・・」

それがわたしの最後の心の言葉だった。


***


その頃・・・・・・。

「もう10時過ぎちゃったじゃないですか。陽子、遅いですよね、まったく何やってんだろ、ドタキャンかな? でも、陽子がそんなことするとは思えないけど」

「たしかにそうだね。ちょっと守衛に聞いてこよう」

朝霧先生はそう言って、ミカと校門の守衛室に向かい、わたしのような女子学生が来ていなかったかを訊いてみた。しかし守衛は、わたしのような女子生徒が校内に入ったのを確認していないと言った。

すると、校門前に一台のタクシーが止まったかと思うと、黒いスーツを着た一人の男性が後部ドアを開けて、出てきて、ミカと朝霧先生の方に小走りで向かってきた。朝霧邸のコンシェルジュ・楠氏だった。

「朝霧様、突然で申し訳ございません。実は・・・・・・」

楠氏はそう言うと、朝霧先生に、耳元で何かを囁いた。ミカはその様子を不安そうに伺っていた。

そして、朝霧先生は、何やら小さく楠に向かって頷くと、ミカに向かって言った。

「森田さん、実はその、大変申し訳無いんだが、僕の母が今丁度日本に到着したらしいのだが、空港で具合が悪くなったようで、向かわなければならなくなったんだ。すまないが、今日はここで解散ということにしよう。北原さんに連絡がついたら、僕が謝っていた、と言っておいてくれないか。もちろん、後日自分で北原さんには、僕自身でちゃんと謝罪するよ。君にも大変迷惑をかけてしまい、申し訳ない。この埋め合わせは必ずするからね。じゃあ」

そういって、あっけにとられたミカを置き去りにして、朝霧先生と楠氏は、足早にタクシーに乗って、その場を去ってしまった。


###


わたしは恐る恐る目を開けた。

これがあの世なの?

次第に体が平衡感覚を取り戻していくと、自分が仰向けになって寝ていることが分かった。

右側の腰が痛かった。それに、ひどい頭痛・・・・・・。でも、ということは、わたしはまだ生きているのだろうか?

やがて、視線の先に、天井のようなものが浮かび上がってきた。

そして、わたしは自身の体が柔らかい物の上に置かれていることに気づいた。それはどうもベッドのようだった。頭は枕の上にあった。寝返りを打とうとして体をひねったが、右腰の激痛のために低く呻いて、そのまま左側臥位となって体を丸くして、右腰をさすった。

どうやら、とある部屋の中で、ベッドの上に寝かされていたようだ。

部屋の中は暑くも寒くも無かった。丁度よい気温だった。

横を見ると、窓があるようだった。ベッドが置かれている壁側とは、向い側にあたる。遮光カーテンが閉められているらしく、その辺縁から白色の光が、部屋にわずかに差し込んでいた。

部屋の中は暑くも寒くも無かった。ベッドが置かれている壁とは反対側にあたる壁に、遮光カーテンが閉められた窓があるようで、カーテンの縁から、白色の光が、部屋にわずかに差し込んでいた。

そのために、この部屋は完全な闇では無く、目が慣れるに従って状況を把握できるようになっていた。部屋の広さは、10畳程度だろうか、寝室だとすれば、かなり大きめだと思った。少なくともわたしの部屋よりは、ずっと大きいことは間違いなかった。

わたしは首だけを動かして、当たりを見回した。

ベッド以外の家具は、何も置かれていないようだった。そのため、部屋は不自然な程にがらんどうとしていた。形状としては、ほぼ正方形と言っていいだろう。

そして、今は昼であることが、次第にはっきりしてきた。窓から差し込む光が、次第に強さを増しているのが分かったからだ。

しかし、光の強さが増すのに反比例するかのように、部屋の中は全くの無音だった。

実は、自分が意識を失ってから、このように目が覚めるまで、実はそんなに時間が経っていないようなのだ。

まずは生きていたことに安堵しなければならないが、その上で、今自分が置かれている状況を把握しなければならなかった。

ここは何処で、自分はどうしてこの部屋にいるのか、自分が意識を失っている間に何が起こったのか、こうなった以上、それらの理由を探求し、自らの行動の後始末をつける必要があった。


***


突然、キーッとドアが開く音が、部屋の中に響いた。

わたしは慌てて身を屈めた。全身に震えが走った。何かが自分に迫っているという、得体のしれない恐怖が全身を貫いた。つい数秒前まで抱いていた探求心と決意など、粉々に吹き飛んでいた。

そして床をコツコツと叩くような足音がその後に続いた。そのリズムは極めて緩徐だったが、着実にその足音はわたしの方へと向かってきた。

自分をここまで運んで来た人間なのだろうか、だとすれば、 今度こそ、わたしの息の根を止めに来たのかもしれない。

わたしは恐怖で震えた。

やがてその足音は、ベッド脇までやってきて、静かに止まった。

わたしはまだベッドの上にうずくまっていた。

突然、何かがわたしの右肩に触れた。

「キャッ!」

思わずわたしは叫び声を上げた。

「よかった、目を覚ましたのね」

それはわたしが全く意図していなかった、細く優しい声だった。

そして、明らかに女性の声だった。

わたしは恐る恐る顔を上げて、目を開けた。

「大丈夫? 痛くない?」

若い女性が、わたしの肩に手を置いて、静かに微笑んでいた。

「あなたは…」

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