邸宅

その2日後の土曜日の午後、わたしとミカはふたりで電車に並んで座っていた。

2日ばかり降り続いた雨が上がって、久々に晴れ間が覗いたと思ったら、その日は4月下旬とは思えないような、じっとりと纏わりつくような暑さに見舞われた。しかし、電車の中はまだ冷房が回る時期ではなく、わたしたちは下敷きを団扇の替わりにして扇いで暑さを凌いだ。

これから向かう先は世田谷のO台駅で、その目的は、朝霧翼先生の自宅を訪問することだった。

ミカによると、事件のことを陽子から聞いたその日に、早速朝霧先生に会いにいったのだという。あのとき、突然飛び出してきて激突したのが、北原陽子という自分の親友で、慌てていた理由について、陽子が先生に直接事情を説明したいのだと、言ったらしい。

「そしたら、先生はすごく喜んでくれて、自分もあの時のことは気になっていたから、是非北原さんから話を聞きたいって、言ってくれたんだよ。やさしいな~。しかしスゴイことだよ、これは。まさか先生の御自宅に御招待を受けるなんて」

ミカはうっとりしながら、独り言のように言った。

「そうなんだ…」

わたしは気のない返事をした。


***


わたしたちはO駅で電車を降りて改札を出た。踏切を渡って、少し上り坂になっている数100メートルに渡って道の両脇に伸びる商店街を通り、環状八号線の交差点を渡ると、その先は急に閑静な住宅街へと様変わりする。大きな敷地の御屋敷も見受けられた。

「えーと、このへんなんだけどな~」

ミカは朝霧が直々に書いてくれたという、住所と簡単な地図が書かれたメモを見ながら、電柱に掲示されている住所を、ひとつひとつ確認していた。

わたしはそのメモをちらっと見た。線の細い、小さめの、きっちりとした文字だった。

「見た? この字、頭のいい人が書く字だと思わない? 朝霧先生は、うちの学校の生徒だったんだって。でも中途退学して、それから今年の4月まで、ハンガリーのブタペストにいたらしいよ」

「ハンガリー? ブダペスト?」

「そうそう。びっくりしたでしょ。何でも、ブダペストの大学で研究していたらしいんだよね~」

「なんの研究?」

「数学だよ。細かい専門分野までは、聞いてないけどね。論理学って言ってたけど。そんでもって、この4月から、非常勤講師として採用されたの。というよりも、正式には教師じゃないんだ。だって、日本の教員免許、取ってないから。でも、向こうですごい業績を上げたってことで、当校の出身者だから、学校がぜひ特別職員として教壇に立ってくださいって、お願いしたらしいのよ。ただし、免許ないから、1人では授業できないので、他の数学の教師が補助に入っているんだけどね。いや、補助は塚本先生じゃないよ。それで、日本に戻ってからは、◯◯大学で研究を続けているらしいよ」

「へえ~、知らなかった」

「私たちのクラスだけだらかね」

なるほど、自分のレベルのクラスには関係のない話か…。

「あの写真…、この前陽子に見せたあの写真のことだけど、あれは授業が終わったあとで撮ったんだよ」

「そうなんだ…」


***


ミカが熱を入れて朝霧先生のことを語るほど、わたしはその人に対する興味を失っていった。そもそも、今日の目的は、その人自身ではなく、事件のことを話し合うことではなかったのか。

しかし、今日の面会をセッティングしたのは、他でもないミカである。彼女にとっては、事件のことより、朝霧先生と個人的に会うことのほうが重要なのだろう。つまりはわたしたちの目的が、そもそも違うということなのだ。

しかし、朝霧先生に会って事件の相談をしたところで、何らかの解決に結びつくのだろうか。そもそも、その点の期待値が、わたしの中では上がって来なかった。

無邪気なミカを見ていると、逆にこちらの気分が沈んでしまう。警察に連絡したほうがいいと朝霧先生に言われたらどうすればいいだろうか? 本来なら、それがもっとも理にかなった解決策だし、その人が頭の良い人であれば、そういうアドバイスが出るのが、至極当然だろう。

男の人は理屈で話す人が多いのはわかっている。しかし、自分はすべてを理屈で割り切れるほどの頭脳を持ちあわせていないと、また再びあの暗い闇の中に足を踏み入れるような気分になりながら、わたしは思った。


***


「陽子、ここじゃない?」

ミカが立ち止まって指さした先には、高さがわたしの背丈の4倍近くはあるのではないかと思われる、巨大だが、古びて焦げ茶に変色し、どことなくサビ臭さが漂ってくる、観音開きの鉄製の門だった。その両側は、レンガづくりの塀なのだが、その両端は、陽子たちのずっと先で途絶えていた。そして、左側の門柱には、不釣合いなほどに小さい、ヒビがはいってドス黒く変色した、木製の表札が掲げられていてかすれて消え入りそうな文字で「朝霧」と記されていた。

「ひゃ~、噂には聞いてたけど、こりゃすごい豪邸だわ」

そう言うと同時に、ミカは門の左側で、ミカの頭よりもかなり高い位置に設置されているインターホンを、いきなり押した。

わたしは自身の動悸を自覚していた。両手の指先が冷たくなって、手のひらは汗でぐっしょりになっていた。どことなく、学校内のあの屋敷に似ているところがあると思えたからかもしれない。

鈍い音とともに、その鉄門がかすかに揺れたかと思うと、ゆっくりと内側に向かって、開き始めた。門の中に樹々が鬱蒼と茂っているのが目に入った。やはり学校のあの森を想起させるような、暗く陰鬱で、肌寒ささえ感じさせるものだ。

やがて、門が完全に開いたかと思うと、一人の初老の男性が姿を現した。その男性は痩せていて、白髪交じりで、鼻の下に伸ばしていた髭も白髪交じりだった。年齢の割には背が高く、黒い三つ揃えのスーツを着用している。そして、背筋をピンと伸ばして、開いた門の中央に、直立不動の姿勢で、ふたりのことをまっすぐに見つめていた。

わたしは思わずミカの手を握りしめた。完全に場違いなところに来たんだと思い、萎縮しきっていた。


***


黒服の紳士は、ゆっくりとふたりに向かって歩き始めた。

「森田美香様と北原陽子様でございますね」男性はテノール歌手のような、低く染み渡るような声で言った。

「は、はい…」

ミカの声が上ずっているのが、わたしにも分かった。ミカだって、こんな現実離れして、芝居がかった状況は、間違いなく生まれて初めてだろう。

「お待ちしておりました。朝霧様がお待ちかねでございます。さあ、お入りください」

老紳士に促されるままに、わたしたちは門の中へと吸い込まれ、彼の後を追って、ふたりは無言で敷地内の舗装された道を歩いた。大型車が一台余裕で通れるであろう道幅で、その道の両脇を、楠の大木が等間隔で植えられていて、その隙間から、広大な芝生の庭が透けて見えた。

学園内の屋敷も、塀の外しか見ているわけではないので、正確なところはよくわからないのだが、こちらに負けるとも劣らぬ程の広さなのかもしれないが、受ける印象は随分違う。この邸宅のほうが、明らかに開放的な印象をわたしに与えていた。

何もかもが現実離れしている…。この一週間というもの、本当に現実の中を歩いているのだろうかという疑念さえ湧いてきた。

緩やかな右回りのカーブを描いたその道を歩き続けると、白い外壁の巨大な建物が突然姿を現した。非常に現代的な感じで、その正面は大きくガラス張りになっていて、とても同時代的な印象を私に与えた。

そしてその建物の正面前で、道はロータリー状になり、行き止まりになっていた。車で来た場合はここで下車するようになっているのだろう。

ふたりは正面玄関に立った。外壁との強いコントラストを出すようにしているのだろうか、玄関の扉は、少しだけツヤのある、やはり観音開きの黒色の扉だ。

老紳士は腰を入れて、踏ん張りながら、レバーを引いて、ドアを開けた。


***


「さあどうぞ、お入りください」

「あの、クツは…」

ミカが戸惑いながらそう訊いたが、わたしも同じ疑問を抱いていたが、質問する勇気がなかっただけだった。

「そのままお入りいただいて結構でございます」老紳士は表情を変えずに言った。

中に入ると、吹き抜けの高い天上と、乳白色の大理石が敷き詰められた床が目に飛び込んできた。吹き抜けの2階部分のガラス張りになった南向きの外壁からは、日光がそのガラスから溢れ出るように差し込んで、まるでそこが屋外にいるような錯覚にとらわれた。右側には階段の間を透かした螺旋階段があり、それは吹き抜けの2階まで通じていた。

高い天井の方から、クラッシックのピアノ曲が、静かに降り注いできた。後から聞いて知ったのだが、ホロヴィッツという超有名ピアニストによるシューマンという作曲家の曲だったらしい。いずれにしても、俗世とは完全に隔絶されていた。

「申し遅れましたが」ふたりをここまで引き連れてきた老紳士が振り返って言った。「わたくし、朝霧家のコンシェルジュの橘と申します。いま朝霧様を呼び出しますので、しばらくそちらに座ってお待ちください」

ふたりはホール上になっている玄関に置かれた、大人4人が悠々座れることができそうな、黒のレザーのソファに腰を下ろした。ちょうどそこには2階部分のガラス窓からの光が直接あたり、シートはその光で熱せられていて、汗ばむ程に暑かった。

橘氏はふたりをそのソファに導いた後、奥に進むと、ボタンを押した。扉が開いた。なんとそれはエレベーターだった。個人宅にエレベーターがあるのを見るのは初めてだったので、わたしはミカを見ると、ミカも驚いているようで、ふたりで顔を見合わせて、目を丸くした。

「『朝霧様』って、朝霧先生のことかな?」橘氏がエレベーターの中に吸い込まれた後で、ミカは小声で天井を見つめながら言った。

「よくわからないけど、話の流れ的にはそうかもね」

「なんか、ビビるよね」

「たしかに」

とはいうものの、ミカの狼狽している姿を見て、わたしは逆に安心できた。


***


やがて螺旋階段の上から軽快な足音が聞こえてきて、若い男性が姿を現した。

わたしたちは体の中にある大きなバネが跳ね上がったように、一気に起立して、その男性のことを見上げた。

彼の後ろには、鼠色のスーツを着た中年男性が、ハンカチで汗を拭いながら、小走りで追いかけてきた。さらにその背後には、赤くて太いふちの眼鏡をかけた若い女性が、中年男性の背後にくっつくように、そのあとからついてきた。

「朝霧先生、今日は本当にありがとうございました。先日より話が随分具体的に進み、嬉しい限りです」

そう言いながら、中年男性は玄関先でペコペコと頭を下げている。その背後で、眼鏡の女性も同様に、深々と御辞儀をしている。

「それでは、後日こちらの山本の方から連絡させますので…」と中年男性は言った。

「山本恵梨香さん、ですね」

「はい、そうです」

女性は顔を上げると、少し微笑んで、落ち着いた声で返事をした。

「では、御連絡待っています。名刺いただきましたので、なにかあったらこちらから電話してしまうかもしれませんが…」

「かしこまりました。先生からの御連絡、お待ち申し上げております」

ふたりは橘氏に先導されて玄関から出ていくと、『朝霧先生』はわたしたちに歩み寄った。

「ごめんよ、待たせてしまって。遠くまできてくれてありがとう」

この人が『御主人様』なの?

たしかに、あの時に助けてもらったのは、この人に間違いないとも思えたし、全くの別人である気もした。


***


「お招きいただいて、ありがとうございます。大変光栄です!」ミカは両手を胸の前に組んで、祈るような姿勢を取り、上ずった声で言った。

わたしはその横顔を見た。その目はかすかに潤んで、顔はほのかに赤らんでいる。わたしとしては、先が思いやられた。

「こちらこそ」朝霧は優しく言った。「今開いている部屋がここしかなくて、ちょっとガランとしているかもしれないけれど、まあ気にしないでいただきたい」

「そんな、気にするなんて、とんでもありません!」半ば叫ぶように、ミカが言った。

「先に座って待っててくれるかな」

「はい、わかりました!」

朝霧先生は一旦廊下の反対側へと姿を消した。

「ではこちらにお入りください」橘が背後からそう言いながら、扉を開けた。

陽子はミカに続いてそのドアを通って部屋に入った。次の瞬間、ふたりは思わず「うわーっ」と声を上げた。

その部屋は横に長く、大げさではなく、25メートルプールくらいの広さがあるのではないかと思うくらいに、巨大な空間だった。天上も二階分くらいの高さがあって、3つの巨大な、後から聞いたのだが、バカラのシャンデリアが天上から吊るされていた。また、庭に面して全面ガラス張りになっていて、さっき門から歩いていた時に楠の大木の間から見えた、広大な芝の庭が広がっていた。

部屋の四隅にはBOSEのスピーカーが天井に設置され、そこからは、これも後で聞いて知ったのだが、グールドによるバッハが流れていた。シャンデリアの下には、これまた長大なブロンズ色のテーブルが設置されていて、ガラス窓とは反対側の2席に、ナプキンが折り返して載せられていた。そして、テーブル部屋の奥側の、テーブルの一番奥の、いわゆるお誕生日席にも、やはり純白のテーブルクロスが敷かれていた。

***


「北原様はこちらに、森田(ミカ)様はこちらでございます」

わたしの方が奥側の席を指定された。おそらく、所謂御誕生日席には朝霧先生が座るのだろう。つまり自分のほうが、朝霧先生と近い距離で座ることになるのだ。それは今日の主役がミカではなく、わたしだからに他ならない。嬉しくもあったが、少しだけ重圧をかけられた気もした。ミカを見たが、遠い席を指定されたのが不本意だからなのか、少しふくれっ面に見えた。

座る際には、橘が椅子と引いてくれた。そんな経験も初めてだったので、嬉しい半面、気恥ずかしかった。

「お二人様、何かお飲み物は?」橘は背後からゆっくりと言った。

二人は困惑して顔を見合わせた。

「じゃ、じゃあわたしは紅茶で・・・・・・」と、ミカが後ろを振り返りながら、吃りながら言った。

「レモンティーになさいますか? ミルクティーになさいますか?」

「えーと、それじゃ、レモンティーでお願いします」

「北原様は?」

「は、はい、わ、わたしもレモンティーで・・・・・・」わたしは振り返らずに、テーブルのナプキンを見つめながら答えた。本当はミルクティーのほうが好きだったのだが、とてもそんなリクエストを言い出せる雰囲気ではなかった。


***


橘氏が退室したところで、朝霧先生が入れ替わるように部屋に入ってきて、予想通り奥の席についた。やはりわたしのほうが、朝霧先生に近い席だった。

朝霧は紺のボタンダウンシャツに、ベージュのチノパンを履いて、家の中にもかかわらず、褐色の革靴を履いていた。一見大学生のように見える。

ふたりはここまでどうやって来たのかなどの、軽い雑談を朝霧とした。そのうちに橘氏が3人に紅茶を運んで、その場でカップに入れてくれた。

わたしたちは、橘氏が紅茶と一緒に運んできてくれたケーキをごちそうになったが、ミカは、こんなに美味しいケーキを食べたのは生まれて初めてだ、みたいなことを言った。しかし、わたしにはケーキを味合う程の余裕は無かったし、今となっては、それがどのようなケーキだったかも、覚えていない。

「先生、さっきの人たちは誰なんですか?」ミカは甘えるような声で聞いた。「随分先生に頭を下げていましたけど」

「出版社の編集長さんと、その秘書さんなんだ。本の執筆依頼を頂いたんだ」

「本、執筆!?」ミカは素っ頓狂な声を出して言った。

「いや、そんな大げさなものではないんだ。論理学の入門書を書いてほしいとのことでね」

「先生、凄いです! わたし出版されたら絶対購入します!」

「まあ、まだ出版されたわけじゃないから」

「先生はこの学園に是非来てくださいって懇願されたんですよね。なんて言いましたっけ、えっと、そうだ、三顧の礼だ」

「いや、そんなことはないけど、私が帰国する何か月か前に、学園が、海外にいた私に連絡をくれたんだ、帰国したら臨時教員として採用したいので連絡欲しいとね。とても有難い依頼だったので、帰国後に学園に早速連絡したんだ」

「学園には不満もいっぱいだけど、その判断だけは、本当に素晴らしいわ!」


***


という感じで、もっぱらここまでの雑談では、ミカが会話の主役だった。ミカは堰を切ったように、今朝の朝食がご飯と味噌汁だったとか、学校に最近烏の大群がやってくるとか、どうでもよいことまで話しだした。しかし、これがミカ流の緊張の開放の方法なんだなと、わたしは思った。

そんなミカを横目に、橘氏が静かに部屋を出ていったことに、わたしは気づいた。

「では、本題に入ろうか?」橘氏が退室したタイミングを見計らったように、朝霧先生が言った。

わたしはその場に立ち上がり、頭を下げた。「先生すいませんでした! あの時は逃げるように行ってしまって…。あの時は、なんと言いますか、気が動転していたので…」

「いや、むしろ僕の方が心配していたんだよ。ケガはなかったかな、ってね」朝霧先生は微笑みながら言った。「まあ、座ってよ。ところで、森田(ミカ)さんから聞いたんだけど、あの時のことについては、深い事情があるらしいね」

「は、はい…」

ついに、ミカ以外にあの話をするべき人が出現したのだ。ミカは親友だし、気心が知れている。しかし、朝霧先生に関しては、今日が事実上の初対面だ。そんな相手に話をするのは、わたしにとっては、それなりにストレスがかかる。

しかし、あの場に朝霧先生が登場したというのは、間接的であるとはいえ、先生も事件の当事者だといえるかもしれないし、この事件に関わる縁のようなものがあるのかもしれないと、わたしは思うことにした。


***


わたしはあの日の出来事について、目撃し、かつ体験したことを、朝霧先生に話した。内容的にはミカに話したことと同様なので、彼女には同じ話を2回繰り返して聞いたもらったことになる。

先生は、わたしが話をしている間、口を挟む事無く、時折小さく頷きながら、驚く様子も無く、話を聞いていた。朝霧の話を聞く態度は、ミカと同様で、非常に真摯な姿勢で、その点も、安心して話ができる大きな要素だった。

そして、わたしは話を終えた。

外を見ると、庭師だろうか、白いTシャツを着て、芝刈り機で芝を刈る姿が見えた。

話し終えて視線を窓の外に向けると、庭師だろうか、白いTシャツを着た若い男性が、箒で庭の掃除をしている姿が見えた。


***


暫くの間、三人には会話が途絶えた。朝霧先生は腕組みをして、右手を顎にやり、小さくうつむいたまま、微動だにしなかった。

不思議と、わたしの心はスッキリしていた。先生に話したことによる精神安定的な効果が大きいことに、自分でもビックリしていた。

「いや、黙ってしまって申し訳なかった。頭の中を整理していたもので…」先生は徐に顔を上げて言った。

「先生の仰ること、ごもっともです。わたしだって、すぐには信じられませんでしたから」

ミカがすかさず容喙してそう言ったが。わたしが最初に彼女にこの話をしたときの言動とは違っていたが、あえて指摘はしなかった。

「いや、そんなことないよ、話は全て真実だと思う」朝霧は力をこめて言った。「しかし、真実だとすると…」

「だとすると…」

「やはりいずれは警察に介入してもらう必要がある、かもしれないが…。まあいい、一から考えよう」

たしかにその通りだけど、でもよかった…。頭ごなしに、警察に行け、とは言われなかった。


***


「そうだな、どこから確認していこうかな。まずは、少年を殺害した、いや、殺害したかどうかは分からないが、それは吾妻先生で間違いないんだね?」

「間違いありません」わたしは力を込めて言った。

「朝霧先生は、吾妻先生のことについて、変な噂とか、変な話とか、そういうのって、聞いたことあるりますか?」ミカが訊いた。

「いや…、ないね。だからその話をきいて、正直驚いているよ」

「それにしても、吾妻先生は屋敷に入れるんですか?」

「それもよく分からないな。あの屋敷については、自分が知っている限り、教職員の間でも、話題になることもないし、詳しいことは知られていないと思うよ。もっとも僕はこの学校に来てからまだ1ヶ月も立っていないから、本当のところは、よくわからないんだけどね」

「ところで、その少年は見たことがあるのかい?」

「わかりません。後ろ姿しか見えなかったし…。学生服を着ていたから、この学園の男子生徒だと思いました。でも、少なくともその後ろ姿に見覚えはありませんでした」

「でもこの学園の生徒が殺されたとか、行方不明になっているとか、そんな話は聞いてないよね。そういえばさ、今思い出したんだけど」ミカが言った。「今から10年くらい前に、この学校で自殺者が出たんだって、学生服を着ていたから、最初はうちの男子学生が自殺したって、先生たちは慌てたらしいけど、調べたら、うちの学園の生徒じゃなかったらしいよ。どこの誰か? そこまでは知らないな。結局わからなかったんじゃないの? 先生は御存じですか、その話? 今回の件と関連あるのかな、もしかして?」

「いや、それは何とも言えないが…。しかし、それでやっと話がつながったよ」

「話がつながったって、どういうことですか?」ミカが言った。

「あの日、北原君と、あの場所でぶつかったのだが、君はすぐに行ってしまった。私はその場に暫く立っていたんだけど、実はそのあとで森の中に入ったんだよ」

「えっ! そうだったんですか! まったく知りませんでした。まさか先生があの中に入っていったなんて…」

「ということは、事件の現場を見たんですか?」ミカが言った。

「北原君の証言に出てきたと思われる場所には行ってみたが、少なくとも吾妻先生はいなかったし、その場に倒れている人もいなかった」

「えーっ! じゃあ陽子の話はやっぱり幻だったんですか~!?」

「いや、僕はそうは思わない。北原さんの話は本当だと思う」

朝霧先生は静かに、そして断定的に言った。先生はわたしの話を信じてくれたし、わたしのことを信じてくれたのだ。仮にそれが嘘だったとしても、わたしには嬉しかった。


***


最後の吾妻の証言で、少年のシューズに関して言及している。わざとその場に放置したと言った。

「実はその場所に落ちていたものがあるんだ。ちょっと待ってて…」

朝霧は部屋を出ると、暫くしてから何かを手に持って戻ってきた。それは透明なビニール袋に入れられていた。ビニール袋に入っていたのは、右足のスニーカーだった。

「これが落ちていた」

それは殆ど新品と言っていいくらいの、白いスニーカーだった。ただし、踵がつぶれていた。

「壁際に落ちていたんだ。見ての通り新しいだろ。しかも片方だけだし、その場にあることに対して、何か違和感のようなものを感じて、念のため持ってきたんだ。でも、今の北原さんの話をきいて、これが…」

「その殺された少年のものだとすれば…!」ミカが興奮気味に言った。

「あの時、少年の靴が脱げたんです。首を絞められて体が宙を浮いた時に、右足の靴が脱げてしまったのを見ました」

「もちろん、この靴が本当にその時に脱げた靴であると、確実に証明されたわけではないが、おそらく、君の見たことは真実だよ」

「先生、ありがとうございます!」

今度こそ本当に夢の中にいるようだった。今までは、わたしが自分の目で見たことしか、事件につながる情報は無かった。たしかに、このスニーカーがあの時に脱げ落ちたスニーカーと同一のものであるとは断定出来ないが、しかし、具体的に形のあるモノとして、目の前に現れたことに対する心理的な効果はかなり大きい。心の中で、わたしは朝霧先生に深く感謝していた。先生が現場に行ってくれたことで、自分の目撃談に対する正確性を大幅に補強することができたからだ。

「落ちていたスニーカーの件なんですけど、それは、吾妻先生が、その場に落ちていたことを見落としていたということなのかな? そのスニーカーが抜けたことを気づかないままにその場に放置してしまったつまり吾妻先生のミスだったということなのかな?」ミカが訊いた。

「それはわからない。単純にミスなのか、或いは、一種の犯行声明なのか…」

「犯行声明って?」

ミカの言葉が全く耳には入っていないかのように、朝霧先生はその問いには答えなかった。そして、わたしの目を見て言った。

「わかった。なんとか君の力になれるように、自分なりにやってみるよ。もちろん何処までできて、何が出来るのか、現時点では全く分からないけどね。その話を聞いた今となっては、もう一度あの現場を調べてみたいとは思うが、しかし、もはや現場にはも何も証拠が残っていないかもしれない。それは仕方がないだろう。それはそれとして、吾妻先生に関する情報収集は、私のほうでも行なっておくよ。彼の過去のこと、現在のことも含めてね。吾妻先生が何らかの怪しい動きを見せたときには、君に危害が加わることのないよう、できる限り努めるよ。吾妻先生には何らかの秘密があるのかもしれない。彼が学校の屋敷を使用しているということは、あの屋敷に何らかの秘密があるのかもしれないし、そういった点では、解かなければいけない謎は多いだろう。おそらく今警察に言っても、証拠がないし、取り合ってくれない可能性がある。このシューズだけでは、ちょっと厳しいだろうね。だから、出来る限り調べられる範囲で、自分でも調べてみなければならないと思っている。もちろん、今も言ったように、自分が調べている過程で、北原さんに何らかの危害が加わることだけは、絶対に避けなければならない。君の身の安全がなんといっても最優先事項だからね」

そう言われて、わたしはすっかり気分が落ち着いた。事件を目撃した後で、こんなに気持ちにゆとりが出たのは、この時が初めてだった。朝霧先生の優しさには、とても感謝していた。なんといっても前向きな気持ちになれたことが大きかった。


***


事件の話のあとは軽い雑談が続いた。そこから先はミカが完全な主役だった。彼女は根掘り葉掘り、朝霧先生の素性について聞き出そうとしていた。

朝霧先生は、高校1年生の1学期、4月から7月までの、僅か四か月の間だけ、学生として、在籍していたのだという。それ以前は貿易商である両親と一緒に、ヨーロッパの諸都市を転々とする生活を送り、日本に戻ってきのは、その時が10年ぶりだったらしく、戻ったときは、日本の記憶が殆ど無かったらしい。

それにしても、貿易商って、こんなとんでもない豪邸を持って、召使まで雇える程に、儲かる仕事なんだろうか?

そして、ミカの事前情報のとおり、朝霧先生は、再び海外へと旅立ってしまった。それが高校1年生時の、七月のことだ。そして、今年の三月になるまで、一度も日本に戻ることはなかった。

再出国の目的は、今度は親の仕事についていくことではなく、自らの勉学のためだった。ハンガリーの大学に在籍している、ある高名な数学教授の下で最新の論理学を学ぶために、たった一人で、しかもまだ一六歳だったというのに、共産主義国家に入国して、留学したのだった。

両親は殆ど日本には戻って来ないし、現在も、ヨーロッパに在住しているという。そのため、この広大な屋敷に、先生は現在一人で住んでいる。同胞はいない。しかし、昼間は橘やその他の使用人が、屋敷の留守を守っている。

皇族とか華族の家系なんですかというミカの誘導質問には、笑ってごまかしていたので、そういった関係の血筋なのかもしれない。

趣味といえるものは別に無いという。読書くらいだと言っていた。日頃は忙しいからね、とのことだ。

仕事については、前述のとおり、数学、とくに論理学なるものが専門で、朝霧先生はわかりやすく説明してくれたのだろうが、わたしにはさっぱり分からなかった。

しかし、ミカは朝霧先生が言った通りの言葉をそのままメモしていた。

さすがにその行為については、朝霧先生も苦笑いするしかなかった。


***


ふたりは屋敷を出て、屋敷内を門に向かって、元来た道を歩いていた。来た時と同じように、橘氏が先導してくれた。

「あ~、朝霧先生、すっごいいい~」

ミカは橘氏の存在などお構いなしに、いや、彼にわざと聞こえるようにかもしれないが、大きな声で言った。事件の話など、すっかり忘れているようだった。彼女にとっては、朝霧先生と話ができたことが、今日のなによりの収穫なのだろう。

とはいうものの、わたしも文句は言えなかった。ミカがいたからこそ、自分は先生と会えたわけだし、そして彼に会えたからこそ、自分の目撃した事件が事実である信憑性が増し、事件に対する思いを共有できたからだ。

そして、明日は朝霧先生とミカと、三人で森に入ってみることになった。職員なのに立ち入り禁止の校則を破ることになってしまうが、もし見つかれば、自分が事情を説明するから大丈夫だと、朝霧先生は言ってくれた。

わたしとしては、事件の究明に集中する意味で、朝霧先生とふたりだけで行動したかったが、ミカを外すことは、彼女の雰囲気からして不可能だと思った。口には出していないが、先生もきっとそう思ったに違いない。

わたしは芝生の庭の方を見た。すごい敷地だと思った。都内でこれだけの広さの庭なんて、他にあるのだろうか。いまこの土地を売ったら、いくらくらいするのだろう。庭は本当にただの芝生だけだった。何も置いてないし、何も飾っていなかった。何も無いこと、ただ広いことの贅沢が、これほどに大きい威力を持っているんだということを、陽子は初めて知った。

と、思ったが…。

何も無いことは無かった。ものではないが、近くに人影があったのだ。さっきリビングから見えた、芝刈りをしていた人のようだ。その男は両腕で腕枕をして、膝を立てて足を組み、仰向けになって芝生の上で寝転がっていた。

その白いシャツのために、さっきリビングから見た芝刈りをしていた男性だと分かったが、そのシャツは近くにで見ると、かなり黄ばんでいるように見えた。しかし、この夢のような豪邸の中では、そのみすぼらしい姿は、指に刺さった数ミリの棘のように鬱陶しいし、それだけが気になってしまう。

そして、違和感を醸しだしていた次の理由は、その男性の若さだった。おそらく、朝霧先生とほぼ同年齢なのではないだろうか。そして最大にして最も大きな理由、それは、彼の異常な、と言ってよいレベルまで痩せ方だった。正に骨と皮だけの、飢餓状態に陥っているような、そんな外観だった。しかし、ミカは、その芝刈りの男のことなど、眼中にはないようだった。

「御二方、またのお越しをお待ち申し上げておりますよ」

「ええ、こちらこそ、かならず伺います!」

橘氏の社交辞令にミカが元気に答えた後、正門が開けられ、わたしたちは彼に礼を言って、屋敷を後にした。

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