朝霧翼

「ヨーコッ!」

一時間目の授業後の休み時間、聞き慣れた、少しかすれた、しかし、やたらに大きい、張りのある声が後ろから聞こえた。わたしには、振り向いてその姿を確認しなくても、その人物が誰であるかはすぐにわかった。

ミカ。今の自分にとって、学園内で唯一の、心を許せる友人と言える存在。そのミカでさえ、最近のわたしの何やら思いつめた様子には、陽子の周囲に、接近を拒絶する「壁」を感じていたに違いなかった。

あの事件以降、ミカとのあいだでさえ、殆ど会話らしい会話は無かった。あれ以来、昼食も別々だったが、これに関しては、ミカを避けていたというわけではなく、新学期になり、クラスも違うし、で、学園内でもすれ違いの生活とならざるを得なかったという側面のほうが強い。


***


成績という観点から言えば、ミカは私とは正反対で、今でも成績優秀だ。しかしミカだけは、今ではすっかり落ちぶれてしまったわたしに対しても、変わらぬ態度で接してくれた。

「昼休みに、一緒に外に行こうよ」

ミカが、最近元気がない(ように見えるだろう)わたしに対して気を使ってくれていることは、すぐに分かった。しかし、今のわたしにはありがたくもあり、余計なお節介でもある。目撃した事件のことを相談したところで、良い解決策が浮かんでくるとは、どう考えても思えなかったからだ。

見たことをそのまま話しても、とてもその話をまともに取り合ってくれるとは、到底思えなかった。逆に、学業のあまりの凋落によって、いよいよ精神的に異常をきたすレベルに達しているんじゃないかと、疑われる恐れさえある。そんなことで、唯一の親友まで失うことになったら、どうすればいいのだろう。つい、そんなつまらないことまで考えてしまう。


***


その日は、正午を過ぎると、それまでは久しぶりに雲ひとつ無い良い天気だったのが、急に曇り出して、今にも雨が振り出しそうな空模様になっていた。そのためだろうか、校庭にもほとんど人影はなかった。

校舎から見て、校庭のさらに向こう側は、フェンスを隔てて、公道に接している。校庭のトラックと、そのフェンスの間は銀杏並木になっていて、その下にはベンチがあった。秋には、ベンチは銀杏の落葉に覆い尽くされる。

ミカは既にその場所で、わたしのことを待っていた。わたしが小走りに校庭を横切ってミカの方へと向かうと、まだ遥か前方にいたわたしに向かって、ミカは大きく手を振った。

ミカとはクラブ活動を通じて親しくなったのだが、学業優秀だけでなく、スポーツも万能というレベルに近く、バスケ部で活躍している。わたしも中学1年のとき、つまり入学したばかりの時分にバスケ部に在籍していたのだが、2週間もしないうちに自分には向いていないと悟って(というよりも、早々に諦めて)、直ぐに退部してしまった。今から思えば、それが現在に至るわたしの転落の端緒となっているのかもしれない。


***


わたしとミカは、高校1年時から、別クラスになっている。所属クラスが違っていても、主要教科については、学科毎の能力別クラスで同じになれば、ミカと一緒の授業になるのだが、ミカは全ての学科で最上位のクラスで、わたしは当然のことながら、すべての学科で最低クラスだった。

半年ごとにクラスの再編成が行なわれる。しかし、ランクアップ、ランクダウンは、どんなに成績が上下に変動しても、一段階ずつしか動くことができない。だから、ミカと同じクラスになるのは、最低でも1年後だ。それは、わたしがランクアップして、ミカがランクダウンすることが、同時に起きれば、という状況のもとでのみ起こりえる可能性なのだが、彼女がランクダウンする可能性は極めて小さいだろう。運動も勉強も、頑張り屋なのだ。そして、自分が今のクラスからランクアップする可能性は、ミカのそれより遥かに小さいだろう。


***


「陽子どうしたの? 最近元気ないじゃん。これでも心配してたんだよ、一応」

「ごめん」

「気になってることあるんだったら、正直に言いなさいよ。力になるからさ」

「気にしてるというか、なんというか、一言では・・・・・・」

「なんか歯切れ悪いよね。言えばすっきりするって。わたしが口固いの、知ってんでしょ」

「まあそうだけど・・・・・・」

たしかに、その点に関しては、ミカは十分に信用がおける友人だった。

「男?」ミカはグイッと、わたしに顔を近づけて、含み笑いを浮かべながら小声で言った。

別に、近くには誰もいないわけだし、何も声を小さく言う必要などないのだが・・・・・・。

それにしても、わたしが抱えている問題と、ミカが想定している内容とのあまりのギャップに、わたしは思わず吹き出してしまった。

でも、なんだか気分が明るくなってきた。やっぱりミカに全部話してみようと、わたしは決心した。


***


「実はさ、驚かないでね、信じてもらえないかもしれないけど、絶対嘘だと思うかも知れないけど…」

「前置き長いよ」

「わかった、でもビックリしないでね。見たまま話すから」

わたしは事件の状況を、できるだけ客観的に、感情を排して語ることに努めた。あの時の状況がミカの中で、映像として浮かんでくるような、そのような話をするように心がけた。

今はすっかり落ちぶれてしまったわたしの唯一の武器は、記憶力だった。ただし、それには限定的な条件があって、英語や社会など、いわゆる覚えることがメインの教科の暗記は今ひとつなのに、ミカとテレビドラマのことについて話し合ったのが何日前だったとか、先週の火曜日の夕食は何を食べたとか、そういったどうでもよいことを覚えているのが、他の人よりも不思議と勝っていたのだ。

そのことについて、ミカから指摘されたこともあった ― 陽子はさ、昔からずば抜けた記憶力の持ち主じゃない。わたしは知っているよ、そのことを。だから、その気になれば、いくらだって成績上がるのにね。今のところは、やる気がないだけなんだよ ―


***


ミカは驚いた表情を度々浮かべたが、わたしの話が終わるまでは、途中で口を挟むことなく、静かに頷いていた。

そして、語り終えると、ミカは暫くの間、沈黙し、下を向いて、難しい顔をしていた。自分の中で、今の信じられない話を、どうにか理解しようと、戦っているようにも見えた。

わたしは初めて目撃した事件を他人に話したことで、多少は気分が吹っ切れた気もしたが、ミカの判断がくだされるまでは、精神の動揺は収まりそうになかった。

校舎の方から、生徒たちのざわめきが、風の音のように、こちらまで響いてきた。


***


「今の話、まだ誰にもしてないんだよね」

長い長い沈黙の後で、ミカがようやく口を開いた。

「うん」

「驚き過ぎて、言葉が出なかったよ」

ミカはわたしの目をじっと見つめながら言った。

「そうだよね、とてもホントのことだとは思えないよね…」

「私は信じるよ」

ミカはそういうと、一点の曇りもない笑顔を見せた。

わたし涙が出そうになった。ミカに話して良かった…。

「ありがとう、そう言ってくれるだけで、ずいぶん楽になったよ」

「でもさ、やっぱりその話を聞くと、色々と疑問も沸いてくるし、確かめたいことも出てくるよね」

「それは…、当然そうだと思う」

「それにしても、あの吾妻先生がそんなことをするなんて、とても信じられないよね。見た目は優しそうでさ、授業のときだって丁寧だし」

「わたしだってそう思っていたよ」


***


「でも、間違いないよ、あれは絶対に吾妻先生だった。それだけは断言できる」

ミカはわたしのその発言を聞いて、力強く頷いた。

「わかった。ところで、吾妻先生の悪い評判とか、聞いたことある?」

「全然。良い評判っていうのも、特にはないかな。どちらかと言えば、人畜無害というか、あまり存在感がないタイプだと思うけど」

「たしかにね。でも、何から聞けばいいのかな? 陽子の話からだけでは、わからないことだらけで、何から質問したらいいのか、それさえもよく分かんないよ」

「そうだよね。わたしだって、自分が見たものに対して、その意味が全然わからないし。男子生徒が亡くなったとか、行方不明になったとかいう話も聞かないし」

「そうだ! 芝居の練習だったってことはないのかな? その男子生徒と」

その可能性もゼロとはいえないだろうが、あの状況であの芝居なんて、そんなことあるんだろうか? 何のために? 少なくとも、吾妻が芝居とか演劇に興味があるとか、俳優として舞台に立っているとか、そんなことは聞いたことがない。芝居の練習だとしても、あの状況であの芝居だったとしたら、やっぱり不可解だ。

それに、少年のあの痙攣は、演技だったのだろうか? とてもそうは思えない。

というわけで、芝居説も、かなりの無理があるようだと、わたしは言った。


***


「ところでさ」ミカが言った。「その、逃げる途中でぶつかった人っていうのは、誰なのよ?」

「だから、知らない男の人」

「それはわかったけど、その人の特徴とか、様子とか、そういうのを教えてよ」

「すごい背が高かったよ」

「具体的には?」

「そうだな…。かなり見上げる感じだったから、うーん、もしかしたら、180センチはあったかも、いや、それ以上かも」

「ホントに!?」

なにやらミカが興奮気味になっていることに、わたしは気づいた。

「痩せてた?」

「そうだね。痩せてたよ」

「足は長かった?」

「そうだね、身長なりに、長かったと思うよ」

「もしかして…」ミカはスカートのポケットを探り始めた。そして、定期券入れを取り出すと、その中から、一枚の写真を取り出した。「この人?」

ミカは写真の中に写っている一人の男性を指さした。彼の周りには、学園の女子生徒が取り巻いていた。皆、ピースサインを出したりして、一様に上機嫌な様子だ。

その中で、その男性は、何やら恥ずかしそうに、真ん中に直立のまま、微笑している。その右隣には、ミカが写っている。しかもその右腕に自分の両腕を巻きつけているではないか! そして、カメラに向かって笑っているミカの姿は、どことなく誇らしげだった。

たしかに、見たことのある人だった。一人だけ抜きん出て背が高く、そして、9頭身はあるのではないかと思われるような、日本人離れしたそのスタイル…。


***


「あっ!」

わたしもようやく思い出した。そうだ、この人だ、あそこで衝突してしまったのは。

「うん、この人だよ、間違いないよ」

「ホントに?! やった!!」ミカは上ずった声で叫んだ。

「知ってるの? この人のこと」

ミカはそのわたしの質問に、唐突に仰け反った。

「 知っているも、知らないもないって。 あんた、朝霧先生のこと知らなかったの? 学校中で蜂の巣突ついたみたいに大騒ぎしてるじゃん! チョーかっこいい先生が来たって。ホント、情報に疎いんだから」

しかし、今のわたしには、どんなにかっこいい男が身近に現れようと、とてもそれで浮かれた気分になれるわけがなかった。

「で、陽子、もう一度聞くけど、あんた朝霧先生とその時何話したの? できるだけくわしーく教えてちょうだい」

朝霧先生…。それが、あの人の名前だったのか?

「そんな、会話なんてもんじゃなかったって。ただいきなり自分のせいでぶつかってしまって。すいませんって謝って、そしたらその人が、大丈夫ですかって言ってくれて、それで、大丈夫ですとこちらもいって、そのまま走り去っただけなんだから。わたしも、その時は何がなんだか分からなくて…」

「ちょ、ちょっと待った!」ミカは陽子の前に掌をつきだして、その発言を遮った。「それって、言い過ぎじゃない?」

「どういうこと?」

「その話って、どこからどう聞いても、まるで運命の出会いじゃない」

「そんなことないって」

「いや、あるある」ミカは口をへの字に曲げて、首を横に振った。「で、どうなの? 先生に恋愛感情を抱いたでしょ」

「なに言ってんの!そんなわけないじゃん、もう、そういう話じゃないんだから!」

話が思わぬ方向にそれてしまったが、あの時の男性がミカのいう朝霧先生であるならば、少なくとも、先生にはあの時のことをお詫びしなければならないと、わたしは思った。

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