北原陽子

わたし、北原陽子は、この明成学園の高等部二年生。明成学園といえば、世間でもその名を知られた進学校だ。東大進学者数では常に上位につけている。わたしはこの学園に中学から入学した。

小学生の時は、成績はトップクラスだった。しかし、小学校では天才児扱いされても、そういう生徒が集まってくる進学校で、抜きん出ることは極めて困難だ。わたしもその例に漏れなかった。自分の周囲を、各所から集積された「天才」で固められ、あっという間にただの「凡人」となってしまった。少なからず勉学に対して自負心を抱いていたわたしにとって、衝撃の程度は小さくなかった。

入学当初は、それこそ血の滲むような努力で、歯を食いしばって何とか他の生徒についていこうと、頑張って勉強した。しかしいくら勉強しても成績は上がらなかった。無理もないことだ。他の『天才』たちだって、同じように、必死で勉強しているのだから・・・・・・。

報われない努力に精進することに、わたしは次第に疲れていった。しかし、勉強しても成績が下がるくらいなのだから、勉強をやめれば、その下降速度は指数関数的に増していった。あっという間に成績は地の底に落ちていった。しかし、この学校では、全ての価値基準は成績なのだ。最近は学校でも、それ以外でも、目標を見失って、自分に自信を失い、友人たちは自分を置き去りにしているように感じた。しかしそれは自分の思い込みかもしれなかった。むしろ自分のほうから周りと距離を起き始めたという側面のほうが強かったかもしれない。

次第にわたしを取り巻く友人も、一人また一人と離れていった。気がつけば心を許しあえる友人は、ミカだけになっていた。


***


しかし、わたしには、いや、この学園の高等部二年生には、最も重要な心配事があった。いうまでもなく、それは大学受験だ。すでに周囲はざわついている。勿論ミカも。でも、わたしはそれどころでは無かった。明日さえこの学園の中でどう生き延びていけばいいのか、見当がつかなかったからだ。

確かに大学受験まではあと二年ある。いや、あと二年しかないと言ったほうが正しいだろう。でも、わたしには受験が迫っている実感など全くなかった。とにかく、日々の生活を乗り切ることで精一杯だった。それよりも進級のほうが、今のわたしにとっては最大のハードルという状態だった。この3月だって、果たして無事に進級できるのか、ヒヤヒヤの毎日だったからだ。

数学のテスト 


***


新学期早々に学力到達度テストというものがあって、わたしは早速、数学で二〇点以下という失態を演じてしまった。

数ある教科の中でも、数学は最悪だった。中等部に入ってすぐに、数字を見るのが嫌になり、方程式はなんとか乗り切ったものの、図形の証明は何のためにそんなことをする必要があるのか、理解できなかった。それができなくても、恐らく大勢には影響しないだろうと考えて、甘く考えたのが失敗の始まりだった。今にして思えば、だが。

数学は継続性が大切な教科だということは、知識としては理解していたつもりだが、一つの項目をおろそかにしただけで、結果として、その後はドミノ倒しのように、成績は瓦解していった。


***


結果判明の翌日、わたしは数学の塚本先生に呼び出された。

塚本先生は40歳ぐらいの、少し白髪まじりで、小肥りの先生だった。 親切で非常に面倒見のいい先生であることは前から知っていた。 他の生徒からの評判も上々だった。

しかし最初は、そんな塚本先生からも叱責を受けると思って、ビクビクしていた。

わたしは職員室に入って、塚本先生の机の、向かいの椅子に座らされた。

わたしは、まず先生から、テストの結果について説明された。

「正直言うと、数学に関しては深刻だね」

分かってはいたつもりだったが、面と向かってそう言われると、やはりショックだった。

そして、どのへんから数学がわからなくなっていったのかを訊かれた。わたしは、中等部時代の証明問題あたりから辛くなってきて、その後は何がどうなって分からなくなったのか、それさえも説明できません、と説明した。

塚本先生


***


なるほど、と先生は言った。元々、温厚な人柄であるとは思っていたが、今日のこの状況においては、そんな仏の顔も三度まで、と思っていたのだが、塚本先生の態度を見ていると、わたしの話を真剣に聞こうという姿勢が強く感じられたので、わたしは少し安心した。少なくとも、怒られたり、叱責されたり、呆れられたり、嘲笑されたり、というようなことは無さそうだった。

「ではやむを得ない、できなくなったところから、やり直していくより方法が無いな。中等部のテキストと問題集は、まだとってあるかな? よろしい。それでは、この証明問題のページから復習していきなさい。これらを飛ばしていきなり高等部のテキストからやっても、理解できないだろうし、かえって効率が悪いだろう。まあ、二〇点は取れている訳だし、完全に取り残されたわけではないだろう。かなり大目に見て、首の皮一枚で繋がっているといったところかな。しかし、わたしの経験からすると、恐らく今がラストチャンスだ。今を逃すと、もう這い上がれないぞ。学部志望は?」

「は、はい、一応文系で」


***


本当は姉と同様に、医学部志望という遠大な計画もあったのだったが、今、この場で、そんなことは、口が裂けても言えなかった。

「なるほど。で、文系の何学部かな?」

「は、いえ、今のところはそこまでは」

「しかしね、たしかに文系行くなら数学は必要のない大学もあるけどね。だから数学を諦めて文系にしたっていう生徒も確かに多いよ。でもね、そうやって数学を捨てて、じゃあ他の教科の成績が上がるかというと、実は上がる生徒のほうが遥かに少数派で、大多数は、他の教科もズルズルと成績が下がっていく。もちろん統計を取ったわけではないから、あくまでもわたし個人の印象でしかないのだがね。最後まで全教科を手抜きせずに頑張った生徒は、結果的には、全ての科目において、優秀であることが多いんだよ。それに、文系学部で数学が不必要だと思ったら、それは大きな間違いだ。 経済学などでは、 数学が当たり前のように出てくるし、哲学などは日本では、文学と同列にあつかわれているが、しかし西洋では、哲学とは数学であり、 数学を理解していない 哲学者など何の意味もないと思われている。 いや、そのような哲学者は、そもそも西洋には存在しない。それはアリストテレスやデカルトの例を見れば明らかだ。まあ、薀蓄はその程度にしておいてだな、とにかく、諦めずに頑張りなさいということだ。この問題集を使って、勉強しなさい。一問でもいいので、 できたらわたしのところに持ってきなさい。 職員室に直接持ってきてもいいですよ。 そのように添削をしている生徒は、実は他にも何人かいるんだよ。 それでは頑張って」


***


塚本先生からあのように言っていただけたことは、非常にありがたいことではあったが、 しかしだからといって、 数学そのものをやる気になったわけではなかった。 結局あれから既に一週間以上経過してしまったが、 まだ一問も数学の問題を解答していなかったし、 当然塚本先生のところにノート持っていくこともなかった。あれから何度か塚本先生の授業があったのだが、既に授業自体はチンプンカンプンだった。 塚本先生は、といえば、 その後 特にわたしに対して話しかけてくることはなかった。先生のところに 行くのが1日遅れて行く度に、余計に行きづらくなってしまうということはわたしも十分に理解していたが、逆に日数を経ていくにつれて、勉強自体もどんどんやる気がなくなっていった。

そして、その後にあの事件を目撃し、それが私の数学への最終破壊兵器となってしまった。

しかしここで塚本先生に見離されたら、 自分は本当に奈落の底に落ちてしまうであることは予感していた。 そのことのおそろしさを考えると、強い不安感におそわれたのだが、しかし今では、できるだけそのことを考えないようにしていた。そのような不安から目を背けて、逃げていたのだった。

家庭環境


***


わたしの家は、横浜の丘陵地帯にある一軒家で、学園のある地区と同様に、10数年前から分譲が始まった、いわゆる閑静な新興住宅地だ。明成学園からバスで15分程、バス停からは徒歩で3分程だ。

そんな現代日本の都会に住む中流階級の住民として、わたしは、現在両親と三人で暮らしている。

母親は結婚後ずっと、いわゆる専業主婦をしている。大学を卒業してすぐに父親と結婚して、その翌年に陽子の姉である沙也加を生んだ。その三年後にわたしが生まれた。

母自身の証言によると、母は大学時代は美人で有名だったそうで、芸能関係の事務所から何度もスカウトの声をかけられたという。しかし、育ちが良かったので(それもあくまでも母の言い分だが)、そのような誘いは全てお断りしていた(らしい)。

そんな感じで、自分のかつての美貌を、ことあるごとに自分の娘に、まるで洗脳するかのように、くどいほどにいい続けていた。しかし、そんな呪文が通じるのは、子供のうちだけだ。

そんな母親に、わたしはすっかり嫌気がさしていた。


***


姉が家を出て、一人暮らしをすることになったのも、今にして思えば、エゴイストで自己中心的な母親との確執が原因だったのかもしれない。

それにしても、何故姉が沙也加というちょっと今風の名前(あくまでも当時の基準で考えればという意味で)で、わたしが陽子というありふれた名前なのか、物心ついたころから、納得がいかなかった。きっと自分に対する期待値が、姉よりもかなり低かったからに違いないのだと、わたしは今でも固く信じている。

わたしの姉は、同じ明成学園の生徒だった。典型的な優等生で、そのへんはわたしとは正反対なのだが、昨年関西の国立大学医学部に合格して、家を出ることになった。関東の国公立大学でも、充分合格できる実力はあったので、親からは下宿を余儀なくされることについて、ずいぶん反対されていたが、姉は頑として自分の志望校を変えなかった。

姉は母親とは違って、物静かで、思慮深くて、わたしにとっては、一番の理解者だった。その姉が家を出てしまったことは、わたしにとっては少なからぬダメージだったが、しかし、今になって考えてみれば、姉が家を出たかった気持ちが少しは分かる気がした。

自分の成績が下がって、日々無為な生活を送っているのは、姉という心の支えがいなくなったのも、ひとつの原因であるかもしれないと、時々思うことも多々ある。


***


わたしの父親はパイロットだ。年齢は・・・・・・、おそらく四〇歳代後半だと思う。

父は母とは違って、物静かな人だ。そういう意味では、姉の正確は父親譲りかもしれない。しかし家庭のことには興味が薄いというか、あまり関心がないというか、よく言えば自主性を尊重しているということになるのだろうけど、とにかく、家の中では影が薄かった。

仕事柄、家にいないことが多く、大のゴルフ好きで、休日も殆どゴルフ三昧のため、不在だった。陽子にとっては、いてもいなくても、変わらないという存在だった。

でも、もしかしたら、父だって、母が鬱陶しくて、なるべく家にいる時間を少なくしたいのかもしれなかった。

いずれにしても、経済的には何ら不自由のない家庭で育ったことには間違いない。子供達は名門校に通っているし、幸せな家庭に見えるに違いないだろうが、中では、家族それぞれが何らかの葛藤を抱えていて、危ういバランスの上に、何とかその形を保っているだけなのかもしれなかった。

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