April 1986

目撃

わたしはそこで立ち止まった。

舞い降りた桜の花びらが、赤レンガの緩やかな連続カーブが続く小道を敷き詰め、その先は木立に遮られ見えなくなっていた。

森への入り口はT字路になっている。わたしが来た道はそのまま校舎、つまり正門側へと繋がっている。反対側は緩やかなカーブとなっていて、この位置からはその先が見通せないが、突き当りが美術室になっている。

この学園では、美術室が別棟になっているのだった。丁度このT字路付近は少し下がったところにあり、背後は3メートル程の切り立った斜面になっていて、校舎側からは見ることができない。

 

***

 

この森の中に古い屋敷が存在していることについては、この学園の生徒であれば、皆知っている。他の生徒からの伝聞によると、それはレンガ造りで、大木と、三メートル以上はあるのではないかというような、黒くて高い壁に四方を囲まれて、昼でも日光が射すことなく、屋敷の周りはカビ臭が充満し、かなり不気味な雰囲気だということだ。よくあるB級のホラー映画に出てきそうな状況設定だな、と初めてその話を聞いた時は思った。

なんでも、その屋敷は昭和四〇年代初めに完成したらしいのだが、学園の文化的保有財産であり、開発が進んだこの地域にあって、貴重な自然でもあるということで、自然保護の観点からも、その周囲の森も含めて、一般学生と職員の立ち入りが禁止され、許可無くその中に入ることは出来なかった。

 

***

 

丁度昼食の時間だった。ほとんどの学生は校舎内にいる。わたしは一人で学校内の敷地を散策していた。

散策・・・・・・。

そんな上品な言葉が合う行為ではないことは、自分でも重々承知していた。かといって、別に目的があったわけではなかった。

そんな上品な言葉が合う行為ではないし、そういう言葉を用いること自体が、自分に対する安いごまかしでしかないことは、重々承知していた。

逃避・・・・・・。

認めたくはないが、寧ろその言葉のほうが、よほど適切だろう。

昨日新学期が始まったばかりだというのに、早くも糸の切れた凧のように、何のあても無く、一人学校の敷地内を彷徨うしかなかったのだ。しかし、苦痛から逃げているのに、ただそれだけなのに、それがこんなにも苦痛を伴う行為だとは、逃げてしまうまで、まったく自覚していなかった。

 

***

 

今日は、いつも昼食をともにしている、心を許せる唯一の友人であるミカが、学校を病欠していた。彼女がいなかったから、今日は最初から昼食はひとりぼっちということは決まっていた。それが嫌だったから、あてもなく校舎外に出て、ふらついていたのだった。

成績という観点から言えば、ミカはわたしとは正反対で、成績優秀だ。しかしミカだけは、すっかり落ちぶれてしまったわたしに対しても、変わらぬ態度で接してくれた。それが嬉しくもあり、悲しくもあった。

  

***

 

森の中へ、見たことのない屋敷の方へと、行ってみようと思った。それが「逃避」という行為の完成形となるであろうことは、十分に承知していたが、他の選択肢は、この瞬間の自分には無いような気がした。立ち入り禁止ではあるが、それがばれたところで、今のわたしにいったい何の制裁を恐れる必要があるのか。

森の中へ入ると、小径の両脇は、鬱蒼と大樹が生い茂り、昼でも薄暗く不気味な感じがしたが、今は真っ昼間だし、幽霊が出るわけでもないだろうと自分に言い聞かせながら、さらにその奥へと足を踏み入れていった。急に日の出前のように薄暗くなり、空気がひんやりと冷たくなったのを感じた。

当初は小径の赤いレンガが姿をみせていたのだが、次第に落ち葉で埋め尽くされるようになり、ついにはその姿が見えなくなってしまった。かろうじて、足の感触で、レンガの固くゴツゴツした感触と、土の柔らかい感触の違いとで、小径と思われる部位を判別している状態だった。いずれにしても、この小径は殆ど使われていないように思われた。

当初は小径を敷き詰めている赤いレンガが姿をみせていたのだが、次第に落ち葉で埋め尽くされるようになり、ついにはその姿が見えなくなってしまった。かろうじて、足の感触で、レンガの固くゴツゴツした感触で、小径と思われる部位を判別している状態だった。いずれにしても、この小径は殆ど使われていないように思われた。


***


随分歩いたような気がした。後ろを振り返ると、大樹の影に、もと来た道は視界を遮られ、学園の見慣れた景色は失われていた。自分の学園が、こんなに広い敷地を有していたなんて、まったく意識したことなどなかった。まるで青木ヶ原樹海にでも迷い込んだように(青木ヶ原樹海には一度も行ったことないけど)、わたしは周囲の全てから隔絶されたような気になり、不安を覚えた。

やがて薄闇の中から、目の前に、わたしの背丈の2倍以上の高さはあろうかと思われる、どす黒く、前方の視界を遮る大きな物体が姿を現した。最初は、自然にできた小山、または起伏のように見えた。しかし、近づいてみると、それが自然のものではなく、人工物であることがようやく分かった。

それは壁だった。一面に蔦が絡まって、最初は壁とは分からなかったのだ。わたしはようやく理解した。これが、屋敷を取り囲む巨大な壁なのだろう。壁の上には鉄条網が張り巡らされていて、接近する者を威圧していた。この壁のせいで、森の中の不気味さは、一層その度合いを増した。屋敷の姿は、その壁のために全く伺い知ることは出来なかった。壁は左右に大きく伸びていた。どこまで広がっているのか、そこに立っているだけでは見当がつかない。

それにしても、いくら学園として貴重な財産とはいえ、その威圧感、ものものしさはちょっと度が過ぎていはしないだろうか。


***


わたしは、壁の手前に、獣道のような、細い一筋の道が続いているのを見つけた。その道に沿って、壁伝いに歩いてみた。たしかに、壁の長さは相当なもので、数百メートルはあるような錯覚に囚われたが、慣れない森の中でもあり、距離感が大きく狂っていた可能性もあったかもしれない。そして、壁は直角に左側に折れ曲がっていた。その先にはやはり道が続いていたが、少し進んだところで、わたしは歩みを止めた。そこから先も、鬱蒼とした樹々が覆い茂り、同じような景色が続いていたからだ。

これ以上進んでも、新しい変化や発見は期待出来ないだろう。やっぱり大失敗だった。意味無かった。やっぱりただの暇つぶし以外の何者でもなかった。早く立ち去ろう。

しかし・・・・・・。


***


突然壁の中から低い話声が聞こえたような気がして、わたしは驚きのあまり飛び上がった。その驚きに呼応するかのように、鳥たちが甲高い鳴き声を放ちながら、飛び立っていく。とっさに小道を外れて、雑草を踏みしめ、近くにあった大木の影にしゃがみ込んで、体を小さく丸め、頭を抱え込んで、きつく目を閉じた。

ただでさえこんな薄暗い中に1人でフラフラと入り込んで来て、不安な気持ちを抱えていたところに、いきなり正体の分からない人間の声が聞こえたので、その「不意」さに、体が自然に反射的な行動を引き起こしたのだった。

その声がどこから発せられたのか、あるいは空耳だったのか・・・・・・。


***


しかし、物音はそれきりだった。

わたしは恐る恐る顔を上げた。そして、きつく閉じていた目を開いた。そこは、さっきまでと何ら変わらない光景だった。鬱蒼と樹々が立ち込め、生暖かい空気がわたしを取り囲んでいた。

そして、木の影から顔を出して壁を覗き見た。何も起きていなかった。何も変化はなかった。

なんだ、空耳だったのか・・・・・・。

わたしはほっとした。学校の敷地内とはいえ、こんな薄暗いところに、一人だけではいり込んで来たのだ。いつもとは違う感覚に囚われていたとしても無理はないと、自分で自分を納得させようとした。

とにかく早く立ち去ろう・・・・・・。


***


ん?

わたしは目を疑った。今度は壁が動いたような気がしたからだ。

しかし、それは気のせいではなかった。鈍い金属音がしたと思った瞬間、十数メートル向こう側の壁の一部が開いたのが目に入った。

壁には扉があったのだが、蔦の中に紛れ込んでいたので、気づかなかっただけだったようだ。わたしは、樹の陰から目より上だけを出し、扉を凝視していた。

さらに思いがけないことが起きた。扉が開いた次の瞬間に人影が出て来たのだった。そして、もう一人が後に続いた。先に出てきたのは、少年だった。この学園の男子学生だ。制服を着ている。

後ろの男は大人だろうか?

 

***

 

男は小柄で痩せていた。全身黒い服を着ている。そのため、林の中の闇にうもれて、まるで幻のようにも見える。

男は小柄で痩せていて、全身黒い服を着ているせいか、林の中の闇にうもれて、立体的な影絵のようにも見えた。

しかし、その男の後ろ姿には、明らかに見覚えがあった。

男は周囲を見回した。わたしは一層身を小さくして見つからないようにした。

突然、男が警戒するように周囲を見回したので、驚いたわたしは、匍匐前進のような姿勢を取り、樹の脇に繁る雑草の隙間から、その様子を監視した。小さな蜘蛛が目の前を蠢いていて、虫嫌いのわたしとしては、むしろその方が恐ろしいくらいだったが、何とか声を上げずに耐え忍んだ。

しかし、その男の後ろ姿には、明らかに見覚えがあった。

男は周囲の状況に異常がないと思ったようだ。そして、わたしの存在にも気づかなかったようだ。

男は周囲の状況に異常がないと判断し、わたしの存在にも気づかなかったようだ。

少年は後ろを振り返ってその男のほうを見た。二人は見つめ合ってい、まるで恋人同士のように。抱き合った。

二人は小さい声で低い声で何か会話を交わしているように見えた。

そして・・・・・・。

二人は抱き合って熱いキスを交わしたのだった。

先行していた少年は後ろを振り返って、男のほうを見た。二人は立ち止まって見つめ合ってい、低い声で判別不能な会話を交わし、まるで恋人同士のように。抱き合うと、キスを交わしたのだった。


***


まるで映画のワンシーンを見ている感覚、と言えばよいのだろうか、とにかく、それが現実の出来事である感覚が、全くなかった。

そして、その抱擁はいつまでも続き、完全に周辺の環境から隔絶されたかのように、時間の流れが二人だけ違っているかのようにさえ思えた。わたしのほうが、身を隠してじっとしているのが辛くなってくるほどだった。

しかし、ふたりはただ抱き合っているだけではないことにわたしが気付いたのは、どのくらい時間が経過していたのだろうか。

彼らは、抱擁しながら、小声で語り合っていたのだ。男の方が低く緩慢な、そして少年の方が、やや早口な掠れた声だった。ただし、八割以上は、少年が話をしていて、男はそれに相槌を打っているような印象だった。わたしは聞き耳を立てたが、話の内容は聞き取れなかった。


***


次の展開は、唐突だった。

男の両腕が、音もなく、背後から少年の首にかかったのだ。そして、お互いに見つめ合っていた。

すると、男はその自らの腕を少年の首に撒いたままで、その少年の体を空中に持ち上げたのだった。

少年の恍惚とも苦痛ともとれる表情が、私の網膜に焼き付いた。

少年が履いていた右足の白い靴が地面に落ちた。左足は、まだ靴が脱げずに、そのまま残っていたのだが、その両足ともに、次第に弛緩していき、最後には、だらりとぶら下がるだけになった。

  

***

 

少年の上半身が、軽く後ろに仰け反り、すぐにその場に顔面から倒れ込んだ。倒れこんだ少年の体は、波打つように痙攣していた。

悪夢としか思えない。そうであるならば、一刻でも早く、現実の世界に戻りたい。

男は倒れた少年を見たまま、その場を動こうとはしなかった。

この場からすぐにでも逃げ出したいが、男に気付かれると、わたし自身にも命の危険が及びかねないが、この場で事態が収束するのを待つことは、それ以上に苦痛を伴う決断だった。

わたしは逃げ出す決意を固めた。

腰を屈め、小さく後ずさりする。

今だ。

一気に走ってなんとか校舎までたどり着くんだ。


***


足元の小枝に足を取られたのか、わたしはその場でバランスを崩して、その場に尻餅をついてしまった。

「キャッ」

しまった・・・・・・。不意に小さな声を上げてしまった。わたしは全身の毛が逆立ったように感じた。

男が不意にこちらを見た。

まずい、目があった・・・・・・。

わたしは男の顔をその時初めて正面から見た。それは殺害現場を目撃した時以上の、体を切り裂かれるような鋭い感覚を私にもたらした。

わたしは立とうとしたが、即座には動けなかった。

そして、無表情を崩すことなく、男がこちらに向かってゆっくりと歩きだした。

まずい、なんとかしなきゃ・・・・・・。

次の瞬間、わたしの体は自分の意思を超えた。全てをその場に捨て去ったかのように、全速力で小径を駆け出したのだ。


***


後ろから男が追ってくる。

自分もあの少年と同じ目に遭うかもしれない、殺されるかもしれない。

しかし、今はとにかく逃げきるしかない。何も考えず、ただひたすらに出口を目指して走りぬけるしかない。

わたしは走った。

後ろを振り返る余裕なんてなかった。捕まるかもしれない。しかし、なんとか逃げきらなくては。こんなところで死ぬなんて、まっぴらだ。

小径の先に一筋の光明が見えた。

もう少しだ。

しかし、心臓は破裂しそうなほどに脈打っていた。足が思うように前に進んでくれない。気ばかり焦って、前に全然進んでいないような気がしてもどかしかった。それでも光明は少しずつではあるが、その輝きを増していった。


***


そして、遂にわたしはその身体を一気に光明の中に解き放った。

やった!

しかし、それは一瞬の喜びだった。強い衝撃と共に、目の前が真っ暗に暗転した。わたしはその場に倒れこんだ。

捕まったんだ・・・・・・。

全身を重苦しい痛みが貫いている。次第に意識が薄らいでいく。

死ぬって、こういうことなんだ・・・・・・。

不思議と怖さはなかった。

アスファルトを軽く叩くような、少しだけテンポの早い足音が聞こえた。歩きながら私の生死を確認しているのだろう。今から逃れることは、とてもできない。

残念だ。もっと色々なことを経験したかった。勉強だって、恋だって、もっとしたかったのに・・・・・・。

さっきまで無気力だった自分が嘘のように、今では生に対する執着が、沸々と心奥から沸き上がってきた。


***


男の声は、予想外に優しく、甘美な響だった。この声に騙されて、少年は犠牲者になったのだろうか?

「大丈夫かい?」

男は再度わたしに問いかけた。

わたしは自分の肩に男の手がかかり、小さく揺さぶられているのを感じた。死んでいるのかを確認しているに違いない。さっきの少年の時だって、男は執拗にその「結果」を確認していたから。

でも・・・・・・、ということは・・・・・・。

少なくとも、自分はまだ現時点では生きている・・・・・・。

小さな希望の花がわたしの中に再び咲こうとしていた。

しかし、自分は既に囚われの身だ。男がその気になれば、私の命を奪うのは簡単だ。あの少年のように。自分の意志が通る状況では無いのだ。

そうだとすれば、死ぬ前に、男の顔を確認しておこうと思った。自分の命を奪った人間を、最後に確かめてからでないと、死んでも死に切れない。


***


わたしは決意した。そしてゆっくりと目を開いた。

「ケガはない?」

えっ? 誰なの?

その人は、自分を追ってきた男ではなかった。

彼はわたしの脇にひざまずいて、小さな顔に不安げな表情を浮かべている。

「ビックリしたよ、突然飛び出てくるから?」

えっ? どういうこと? 別人だったの?

「立てるかい?」

彼は優しくわたしの右手を握り、ゆっくりとわたしの上半身を引き起こした。

わたしは背中に手を回した。自分の背中が刺されたりしていないか、確認するためだった。手にはセーラー服の布の感触しかしなかった。わたしはその手を背部でぐるぐる回して、そして前に戻して手のひらを凝視した。

しかし、そこには血などまったく付着していなかった。路面に転がっている数ミリ程度の小石が 付着しているだけだった。

わたしはその動作を何度か繰り返した。しかし結果は同じだった。


***


「背中が痛いの?」

「い、いいえ・・・・・・」

わたしはなんとか応答できたが、頭が混乱していて、現状を全く理解できていなかった。

「そうか、それはよかった。足は大丈夫? 立てるかい?」

彼に優しく手を引かれ、わたしはゆっくりと立ち上がった。体に右半分に鈍い痛みを感じたが、問題なく立ち上がることができた。そしてその人の顔を見上げた。男は痩せていて、そして、わたしが首を90度近くまで倒して仰ぎ見る程に、長身だった。

その時、今までは全く吹いていなかった風が、一瞬わたしと彼の周囲で巻き上がった。その背後で、桜の花びらが舞い散った。そして彼の褐色のやや伸びた髪が、風に揺らいだ。瞳も褐色で、小さな顔の中で、大きい高い割合を占めていた。

***


「どうやら大丈夫なようだね」

そう言うと、彼は少しだけ目尻を下げて、微笑した。

あれ(森の中で目撃した事件)は幻だったの? それとも、今この瞬間が幻なの?

何故か、心臓の鼓動が、逃走時よりも高鳴っているのを、わたしは自覚していた

「きみ、何をそんなに慌てていたの?」

「ところできみ、何をそんなに慌てていたの?」

彼は静かに語りかけてきた。これが夢なら覚めないでいたかった。その声を聞くのは、なんだかとても心地良かった。

天国と地獄・・・・・・。

今わたしが経験したことは、まさにこの二つがほぼ同時に現前したようなものだ。

でも、両方とも幻なんだ。わたしは自分にそう言い聞かせた。

「す、すいませんでした!」

そう言って軽く会釈すると、わたしは再び全速力で走りだした。今度は、後ろから追われている気配は感じなかった。

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