幕間1.アッシュの苦手なこと

 ウェインは印璽を受け取ると、少し疲れたような顔で眉を開いた。



「どうやらこちらの方にも、直接俺当ての書類が紛れ込んでいたようでな……本当に助かったよ。わざわざすまないな」



 ここは城の執務室。普段ウェイン邸で彼が捌いているのは、専ら軍隊長や自治区長としての仕事が主だが、王太子ウェイン・オルフェウスとしての執務は登城して行っている。

 そんな彼から屋敷に使いが送られたのが、つい小一時間ほど前のこと。



「気になさらないでください。ちょうど、私も外出するところでしたし、私が走った方が速いですから。お仕事お疲れ様です」



 セレシアはごく自然な笑顔を取り繕い、ウェインに一礼をして踵を返す。

 ここに来るまでにすっかり温まって、今にも駆け出しそうになる足を、もう少しだけ、この部屋を出るまで! と下唇を噛んで押し止める。

 そんな背中へ、不意に声がかけられた。



「帰りはきちんと道を通って行けよ」

「……ど、どういうことでしょう?」

「屋根の上を駆けてきたんだろう? お見通しだ」

「やだ、嘘っ!? ちゃんと髪も直したし、汗だって……」



 どこで気付かれたのかとウェインに目で縋るも、彼はただ意味深に微笑むばかりで一向に答えてくれなかった。ついには「夕暮れまでには帰る」と突き返されて、セレシアは仕方なく城を後にすることにした。



「どうしてバレたんだろう……」



 うんうんと唸りながら城下町を歩く。考え込み過ぎて、思わず目的の本屋を二、三軒通り過ぎてしまい、慌てて引き返す。

 店に入ったセレシアは、カウンターの方で店主と話している先客が見覚えのある人物であることに気が付いた。



「申し訳ありません、運送途中に事故があったらしく、積み荷の点検でもう数日かかるそうです」

「よい、貴兄が謝ることではない。しかし手ぶらで帰るのもなんだ、先日オレが来店してから今日までの新刊を、適当に見繕ってくれ」

「はい、ただ今!」



 店の奥に飛び込んで行った店主を見送りながら、セレシアは件の人物に近づいた。



「こんにちは、シナプシア卿」

「ん? ああ……ウェインのところの。お前も本を買いに来たのか」

「はい。『天剣異聞』の最新刊を」



 本のタイトルを反芻したアッシュは、ああと声を上げて、すぐ後ろの棚を指差した。そこには先日発売されたばかりの冒険小説が平積みされている。

 セレシアはそこから一冊引き抜いて、順番待ちをするようにアッシュの後ろに並んだ。



「そういえば、シナプシア卿の天恵は記憶力が秀でるものなのですよね? 人に対してもそれは可能ですか?」

「ああ、映像として記憶されているからな。それがどうした」



 片方の眉を上げてこちらを見上げるアッシュに、セレシアはウェインから看破されたことを話してみた。



「成程、それでバレるに値する外見的変化があったのか聞きたいんだな。だがおそらく、外見じゃないさ」

「そうなのですか?」

「城の周囲にヘリオトロープが咲いているだろう、それが理由だよ」



 オルフェウスの城は、俗に『白青城』や『ブルーブルーム』と呼ばれている。城壁の高貴な白と、庭に咲く美しい青の花々の印象からだ。



「あれは登城する将に気品の香りを与えるものであり、民の緊張をほぐすためであり。香りを付けない――つまり、正門以外から入って来た不届き者を見抜くための仕掛けなんだよ」

「なるほど……それで」



 自分の服の袖を嗅いでみたセレシアは、帰りに門を潜った際についただろう甘い芳香が、城を出て少し歩いた今でもまだほのかに纏われていることに驚いた。



「お客様、大変お待たせしました!」



 セレシアは一瞬、本が歩いてきたのかと錯覚した。前方が見えなくなるほどにうず高く積まれた本を抱えた店主は、それらをどんとカウンターに置く。

 アッシュは背表紙をざっと指でなぞるように見分し、何冊か抜いて店主の方に返すと、その何冊か――ではなく、積み上げられた方を軽く叩いた。



「これをいただいていこう」

「かしこまりました。いつも御贔屓にしていただき、ありがとうございます」



 店主は帳簿を取り出して金額の計算を始める。

 抜かれた本はどんなものだろうとセレシアが覗き込むと、それはどれも、剣の指南書や羽根突きの上達法、効率的な筋肉の付け方といった、運動面のものばかりだった。



「さしものシナプシア卿も、剣は苦手なんですね」

「運体全般が嫌いなんだよ。薬の調合は分量を守れば誰でも同じものが作れるし、学術だって、答えは一つだ。だが、こと剣に関しては理屈だけを覚えても駄目だ。彼我の体格差、力量差、戦う場所に得物。果ては自分ひとりか、守るものがいての戦いか……それらに対処できるよう、稽古を積まねばならん」



 財布から金子を支払ったアッシュは、山積みの本を器用に抱えると、「またな」と言い残して歩き出した。

 そんな時、表の方から絹を裂いたような悲鳴が聴こえた。



「ひったくりよ! 誰かあいつを捕まえて!」

「――これを持っていろ」

「えっ、ちょっと、シナプシア卿!?」



 自分の会計をしようとしたところで本を押し付けられたセレシアは、財布を片手にした無理な姿勢で支えることになり、よろめきそうになるのを必死で堪える。

 どうにか顔を上げた先で、セレシアは目を疑った。



「どけ、クソガキ!」



 店先でひったくり犯と接敵したアッシュは、体当たりで押し通ろうとする男の前に悠然と立ちはだかると、ふわりと跳躍した。

 体を捻じって回転しながら鳩尾とあごへ蹴りの二連撃を叩き込む。しかし男は喧嘩慣れしているのだろうか、わずかに呻いたものの、すぐに懐からナイフを取り出してアッシュへと突き出す。



「軽いんだよ!」

「ならば、貴兄は遅いな」



 アッシュは男の腕に絡みつくようにして身を翻すと、その腕を逆手に取り、着地の勢いに乗せて曲げた。それにはたまらず叫んだ男の取り落としたナイフを奪うと、ピタリと喉元皮一枚のところに突きつけ返す。

 周囲から巻き起こる「シナプシア卿!」の声援に、ひったくり犯の男は目を剥いた。



「シナプシア卿だって……!? 『剣嫌い』じゃなかったのかよ……」

「嫌いだとは言ったが、戦えないとは言っていない。さあ、奪ったものを返せ」



 がっくりと膝を突いた男から、アッシュは鞄を取り上げる。


 その雄姿に、群衆と一緒に拍手を送ろうとしたセレシアだったが――自分が本を抱えていたことを忘れてどさどさとぶちまけてしまい、警吏の兵士に犯人を引き渡したアッシュから盛大な溜息をつかれることになるのだった。

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