48.重なる温度
「
城門前に焚かれた篝火を囲んで兵士たちが酒を酌み交わす中、少し外れたところでセレシアたちの報告を聞いたアッシュベルトは、頭の中のページを捲りながら唸った。
「確かに、向こうにも『騎士』の話はあるが……まるで見当もつかん」
龍星は、オルフェウスから東方、国を二つほど挟んだ向こうの国である。中枢に構える首都を囲むように、星形の頂点に五つの自治区が並んでいるのが特徴で、それぞれが異なる文化・風習を持って発展してきた連合国家だ。
マリアの治療に用いられている生薬も、この龍星の一区から取り寄せたものだった。
力になれずすまないと眉を開いたアッシュに、ウェインは静かに首を振る。
「気にしないでくれ。一先ず、『騎士』の正体は人間であるということを諸国に知らせつつ、探りを入れてみよう」
彼の放った『正体』という言葉に、セレシア下唇を噛んで俯いた。
今さらになって手が震えてくる。宴に興じる兵士たちの歓声も、ぼうっとした頭には遠い耳鳴りのようにも感じた。
「ウェイン」
「ああ、解っている」
アッシュの目配せに、ウェインは頷いて一歩下がった。
「ひと足先に、俺たちはお暇するよ」
「えっ、帰られるのですか? 宴に参加していかれれば……」
「俺の部隊だけならいざ知らず、他の隊の者もいる。見慣れぬ上官――それも王族の俺がいても気が休まらぬだろう。スケイル、アヴォイド。使いを出して、皆に追加の肴を振る舞ってやってくれ。領収書は俺の名前を使ってくれて構わない」
「かしこまりました」
すぐに動き始めた二人を見送って、ウェインはセレシアに手を差し出してくれる。
その手のひらに自分の手を重ねた途端、不思議と震えが止まるのをセレシアは感じた。おかげで、まだ少しふらふらとよろめく足も、もう少しだけ頑張れる気がする。
ゲイルを常歩でゆっくりと進ませ、星を数えながら帰路に就くのだった。
* * * * *
しかし結局、屋敷に着いたところで泥のような疲労感に襲われてしまったセレシアは、見かねたウェインによって寝室へと抱えられることになった。
「……すみません、どうも体が言うことを聞かなくて」
「心配ない。大戦の空気、命を賭した決闘、本格的な天恵の運用……それも初めてのことならば、誰だって参ってしまうさ」
ハーブティーを淹れたカップを渡してくれたウェインは、そのまま、俯き加減の頭を撫でてくれた。
「ここまでよく頑張ってくれた。君は本当に強いな」
カップ越しの熱に温められていたからだろうか、大きな手のひらはじんわりと熱を残していて、髪を滑ってうなじまで降りてきたそれは、強張った首をほぐしてくれる。
「私、人を殺めてしまったのですよね」
剣を肉に沈めた時の生々しい手応えは、今も手のひらに残っている。魔獣を斬り伏せた時のものとは違う、ぞわりと背筋まで反動の来る底冷えが、セレシアの心を襲う泥の正体だった。
理解して立ち向かったはずだった。けれど。
そっと抱き寄せられた頭が、彼の胸に収まる。伝わってくる彼の鼓動もまた、平静を保てずに時折跳ねているのがわかった。
自分よりもずっと堂々と構えている心音を頼もしく思うと同時に、彼も同じく悩んでいるのだという安心感に、セレシアはようやく、ハーブティーの香りを認識する余裕が出てきた。
「既に魔の霧に堕ちた者だ。慈悲を持つ必要はない」
「ですが……」
「その優しさという力は、これ以上の『騎士』を生まぬ世を作るために貸してくれ」
耳にかかる吐息に、セレシアはこくこくと小刻みに頷きながら、ウェインの熱に縋るように頭を擦りつけた。
「今日は、それを飲んだらゆっくりお休み」
最後のひと撫でをして、彼の腕が離れていってしまう。
セレシアは咄嗟に手を伸ばして、その袖を掴んだ。急に動いたせいでカップが傾き、わずかにお茶が足にかかってしまったことには、既に体全体が熱すぎて気が付かない。
「まだ……行かないでください」
袖を手繰り寄せ、彼の腕を掴んだ。セレシアの指では周りきらないほど逞しい腕を、離さないようにぎゅっと握り締める。
「生きて帰ることができたのだと。貴方の剣になれたのだという、
じっと見上げた瞳は、一瞬だけ驚いたように見開かれたが、すぐに優しげに細くなって降りてくる。
肩に手を回され、口づけをしてもらうだけで、金縛りにあったみたいに動けなくなった。かあっと頬が熱くなって、こめかみの辺りの脈がとくとくと波打つたび、頭の芯の方まで蕩かされていく。
彼はさりげなくカップを取り上げて、ナイトテーブルの上に避難させながら、部屋の明かりを消した。その時に覆いかぶさるようになった体温の向こうに聴こえた鼓動が、自分と同じテンポで駆け足になってくれているのが伝わってくる。
「私は、ウェイン様の剣になれましたか」
「ああ、もちろんだ」
「私は……ウェイン様の妻として、務めが果たせていますか」
「当然だ」
短い言葉と長いキス。世界で一番真摯な回答に、ゆっくりと押し倒される。
不安を煽る悪魔の囁きの入り込む余地がないように、耳たぶを唇で塞がれる。体を重く沈めていく魔の手から解き放つように、優しい指先が襟元からほどいてくれる。
初めて、彼の前で一糸まとわぬ姿になった。オルフェウスに着いた日の夜にした葛藤はなんだったのだろうというくらいにあっさりと。けれど、あの時には想像もしていなかったほど、どうしていいかわからなくなって頭が真っ白になる。
「――セレシア」
視界には、彼の顔しか映っていない。
「はい、ウェイン様」
ただその名を口にするだけで、胸が幸福感に満たされていく。彼の吐息の中の一滴さえも零したくなくって、正気を保つので必死だった。
初めてそのつもりで伸ばした舌には、ハーブの香りの奥に、ほのかな大人の苦味が絡まってくる。それはどんな美酒よりもずっと甘くて、遥かに度数が高い。
歳を経れば甘いものが食べられなくなると聞いたことがある。嘘だあ、別腹でしょう、と思いながら聞いていたけれど、今ならわかる。大切な人に愛されているという、もっと甘美な天然ものを知ってしまったから、人工的な甘味では胃もたれするようになってしまうのだろう。
だから、ウェイン様。私はちゃんと、貴方の温度を教えてもらっていますから。
もう、大丈夫。
比翼の鳥のように身を擦り合わせ、連理の枝ののうにしっかりと指を結んで。
一つになった二人のシルエットが、夜の帷の中に浮かびあがった。
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