35.上書き

 遠征の汗や汚れを湯浴みで流してから、セレシアは厨房からいただいてきたハーブティーを片手に、食堂でぽけーっと息を吐いていた。

 今部屋に戻ったら、そのままベッドに飛び込んで微睡みに沈んでしまいそうで。椅子も気持ち浅めに腰かけて、頬杖で首が船を漕がないようにブレーキをかける。



「(あれ……何で眠っちゃダメなんだっけ?)」



 何か用事があったはずとのろのろ記憶をまさぐり、ああそういえば今夜はマリアから呼ばれていたのだっけと思い出し、またすとんと手のひらに頬を落とした。


 初めての遠征はどっと疲れた。『黒騎士』として駆け回っていたことで体力には自信があるつもりだったけれど、随分と勝手が違ったように思う。

 命のやり取りというものを、改めて痛感させられた。



「(まだ、お腹が気持ち悪い……)」



 巨大魔獣に呑み込まれた時の容赦ない引力が、未だに体の内側をぞわぞわと侵食している。

 巻きつかれた位置がもう少し高ければ、あばらが砕けていたかもしれない。引っ張られるのが反対方向だったなら、背骨が折れていたかもしれない。腹の筋肉がもう少し薄ければ、口から臓腑を吐いていたかもしれない。



「(もっと、強くならなきゃ)」



 目を閉じ、思わず零してしまいそうになる弱音をぐっと堪えて、胸に誓う。



「セレシア?」



 不意にかけられた優しい声で我に返ったセレシアは、はっと顔を上げた。いけない。瞼を下ろした途端に一瞬意識が飛びかけていたかもしれない。



「あ、ウェイン様」



 声の主は、食堂の入口で怪訝な顔をしていた。



「先ほど通りかかった時も同じ姿勢でいたが……大丈夫か?」



 指摘をされて、セレシアは手に持っていたカップの中身がすっかり冷めていることに気が付いた。



「すみません。帰ってこられたのだと思ったら、気が抜けちゃったみたいで」

「そうか。うん、それでいい」

「……いいんですか?」

「それだけ真剣に戦い、真摯に恐怖を受け止めたということだ。戦いの恐ろしさに慣れてしまうよりはずっといい」



 淹れ直そう、と申し出たウェインに手を引かれ、セレシアは食堂を後にした。

 沸かした湯をポットに入れてもらい、いざなわれるままに向かったのは、ウェインの書斎だった。



「すみません、わざわざ」



 湯気の香り立つカップに添えた手で熱を感じながら、セレシアはウェインにお礼を述べる。



「構わないさ。ちょうど俺も、眠気覚ましが欲しかったところだ」



 ハーブティーを一口含み、眉間を揉んでから、彼は再びペンを取る。机の上には、びっしりと文字で埋め尽くされた書類が何枚も敷き詰められている。

 かりかりと刻む音を邪魔しないようにウェインの仕事姿を眺めていると、ちらりとこちらを一瞥した彼は、静かにペンを置いて顔を上げた。



「痛むか?」

「……えっ?」

「先ほどから、しきりに腹を触っているようだが」

「これは……怪我はないんです。ただ少し、まだ魔獣の感触が残っている気がして」



 心配ないと取り繕おうとしたけれど、セレシアが手を払うよりも先に、ウェインは「どれ」と立ち上がり、隣まで歩み寄ってくれる。


 彼は「触るぞ」と前置きしてから、大きな手のひらをセレシアのおへその上あたりへとそっと押し当てた。



「押して痛んだりは?」

「しません。むしろ、ウェイン様の手のひらが当たっているところだけ、温かくて、嫌な感覚が和らいでいるようです」



 ありがとうございますと頭を下げる。もう平気ですから、私のことはお構いなくお仕事を続けてください。本当はそう答えたかったけれど、もう少しだけこの熱を噛み締めていたくなって、ハーブティーが付いているフリをして唇を内側に引き込んだ。


 そんな風にもたもたしていると、ウェインからそっとカップを取り上げられた。彼はカップを執務机の端に置くと、セレシアを立たせて、後ろから包むように腕を回してくれた。



「あの、ウェイン様……何を?」

「君を苛むものを、すべて上書きしているんだ」

「そ、そのっ、お仕事のお邪魔になりますから!」

「妻の苦しみを拭い去ることは、夫である俺の仕事だと思うが?」

「うぅ、詭弁です……」



 苦し紛れの憎まれ口は、ふっと笑った彼の吐息で一蹴されてしまう。

 馬上での時よりも触れている箇所は少ないはずなのに、ずっと多くの面を包み込まれているような錯覚に陥る。きっとそれは、この抱擁が、純粋に抱き締めることだけを目的としているからなのかもしれない。


 だから。



「あの魔獣のおぞましい笑い声が、耳に残っているんです」



 こんな風に甘えてしまうのも、きっと熱に浮かされた気の迷い。


 塞がれた両の耳と彼の手のひらとの間で、とくとくと高鳴った心音が反響する。



「他には?」



 指の隙間からするりと滑り込んできたウェインの優しい声に、セレシアは息継ぎをするようにあごを上げた。



「魔の霧を吸い込んでしまいました。それも、全部――」

「ああ、上書きしよう」



 ぴったりと唇を重ね合わせた秘密のホールで、彼の舌がタップダンスをする。こびりついた異物を蹴り飛ばすように打ち鳴らされた靴音は、教会で鳴る神聖な鐘の音のように、わんわんとセレシアの頭の中で跳ね返り、感覚を研ぎ澄ませていく。


 やがてホールにはセレシアとウェインだけが残った。お茶の香りもどこかへ行ってしまい、彼の甘さとわずかな汗の臭いだけが糸を引く。


 一度体を離して位置に付く。お手をどうぞと微笑むウェインの首に手を回したセレシアは、つま先をうんと立てて、彼の唇に飛び込むのだった。

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