33.君が道を作ってくれたから

 一瞬の浮遊感があったかと思うと、内臓ごと引っ張られたかのような衝撃で、視界に映る肉襞の地面が急速に接近していく。



「セレシア!」



 ウェインの声を遮るように、ばくりと大顎が閉じられた。

 内部はてらてらと鈍く光る体液によって淡く照らされ、辛うじて夜目は効いた。



「くっ、離して!」



 もがくセレシアを弄ぶように、触手が振り回してくる。やがていい位置を決めたのか、ある一点で静止した。



「……魔の霧!?」



 壁の至るところにある浮腫のような肉塊から、膿が飛び散るように魔の霧が零れ出る。


――あれは通常の魔の霧とは異なり、天恵を持たない者は呼吸さえままならなくなる。


 ウェインの言葉を思い出したセレシアは、もわあと立ち込めた腐臭を堪えて大きく最後の息を吸い、口を閉じた。

 湧いた魔獣たちはいずれも小型。しかし今のセレシアには抵抗をする術がない。このまま無惨に細かく引き千切られて、眼下でひくひくと動いている肉のるつぼへと落ち、消化されてしまうのだろう。



「(けれど――)」



 セレシアの目から光が消えることはなかった。

 むしろ、獲物わたしの周りをうろうろとしながら、悠長に舌なめずりをしている余裕があるのかしら?


――俺たちの敵は魔獣だ。人間同士で訓練するしかないが、人間相手の読み方を覚えても通用しないからな。


 初めて見学した調練で、ウェインはそう指導していた。

 そう、人に魔獣の機微は解らない。愛玩動物ペットを飼う人ならば多少の洞察力を培っていることはあるかもしれないけれど、それでも完全に汲み取ることは不可能だ。



「(それは、あなたたちも同じでしょう?)」



 セレシアが歯を剥いて見せたことに、小型魔獣たちはぴくりと身を震わせ、警戒の姿勢を取る。



「(へえ、発する気の変化には気付けるんだ)」



 グッボーイ。けれどやっぱり不正解。セレシアは仮面の下でかっと目を見開き、魔獣たちを射竦める。

 それに一歩後ずさった魔獣たちは――刹那、背後から鳴った轟音に飛び上がった。

 わずかに穿たれた穴から雷が迸り、爆ぜ飛ばすようにこじ開けると、そこから金色の獅子が現れた。



「セレシア!!」



 真っ先にこちらを捉えてくれた彼の瞳は、すぐに状況を察すると、足に纏わせた雷で空気を叩き、軌道を変えた。



「……貴様ら、誰の赦しを得て俺の妻に触れている!! 『閃如八雷せんにょはちらい』!!」



 セレシアの周囲を取り巻く魔獣たちを縦横無尽に蹴散らした雷は、その円を描くような軌道で光芒を現出させ、やがて彼とセレシアの周囲一帯を薙ぎ払う奔流と化した。

 セレシアを抱えたウェインが空へと飛び立った雄姿は、さながら煌めくサン・ピラー。



「待たせた。怖い思いをさせてすまない」

「いいえ、平気でした。ウェイン様が来てくださると、信じていましたから」



 セレシアがぎゅっと首に回した腕に力を籠めると、ウェインは視線を下に向けたまま「そうか」と微笑んだ。


 眼下では、ウェインの雷でずたずたにされた巨大魔獣の残骸が、ふすふすと立ち上る硝煙とともに塵となって消えていくところだった。

 体を縛る蔦から解放された兵士たちを、駆け付けたアヴォイドたちが受け止めにかかっているのを見て、セレシアはほうっと息を吐いた



「良かった……皆さん、無事のようですね」

「君が彼らを遠ざけるように縫い留めてくれたおかげだ。だからこそ俺も憂いなくかかることができた。そうでなければ、わずかに出力が足りず、奴の外皮を貫くには至らなかったかもしれない」



 ゆっくりと降り立ちながら、ウェインはセレシアの額に張り付いた髪を手櫛で梳いてくれる。



「君は、俺が来ることを信じてくれたが……それは、君が道を作ってくれたからに他ならない。ありがとう」

「そんな、私に出来たことなんて微々たるもので!」

「謙遜してくれるな、君は凄いのだから」



 そっと地面に下ろしてもらう。巨大魔獣の去った空間は、思わず魔の霧の前であることを忘れてしまうかのような、穏やかな風が吹いている。

 救出作業を見届けながら、ふと、ウェインがああと呟くように声を漏らした。



「もう一つ、君のおかげがあったな」

「……んん? ええっと、何でしょう」

「技だよ。君の下へ辿り着かなければならない、そのためにはもう一段階の壁を超えなければならない――そう死力を尽くそうとした時、君の言葉が蘇った」



 風は、戦火の臭いを散らすように遠くから緑の匂いを運んでくる。



「気合を入れるには、何か必殺技を決めるのも悪くはないな」

「……えへへ、でしょう?」



 そよ風に揺れる髪を押さえるように、セレシアはウェインの肩に頭を寄せるのだった。

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