21.『こんなもの』

 どことなく、気まずい沈黙が流れた。

 寸前まで迫ったウェインの所在なげに揺れる眼差しに、セレシアはなんだか申し訳ない気持ちになって下唇を噛んで追従笑いを浮かべた。



「ええと……その。すみません?」

「いや、いいんだ。君が無事ならば、それで……」



 彼の左手には、落ちてきたクッキーの包みが収まっている。

 けれど問題は、右腕の方だった。倒れる背中を受け止めてくれようと回した腕に、セレシアの背中は触れていない。

 バランスを崩した時、咄嗟に反対のつま先に力を入れて踏ん張ったことで、持ち直せてしまったのが悔やまれる。



「い、今からやり直しは効きますか……?」

「あ、ああ……構わないが」

「では……失礼します」



 踏ん張る力を緩めて、すとんとウェインの腕に収まる。

 体重を預けてもびくともしないのに、わずかに筋肉に沈み込むような、絶妙な抵抗感。触れたところを通して伝わってくる温度が、じんわりと体の芯まで解いてくれるようだった。


 だからこそ。極上の居心地だからこそ……!



「(自然な流れで触れたかったのに! 私のバカー!)」



 よもやこんな形で、剣の稽古を積んだことを後悔する時が来るなんて、まったく想像していなかった。



「ふっ、あははは!」

「ど、どうしてそこで笑うんですか!」

「すまない。セレシアの表情がころころ変わるのに合わせて、伝わる心音も歩いたり走ったりと忙しなくてな」

「な、なあ――っ!?」



 思わず飛び退いたセレシアは、あわあわと頭を抱えた。

 言われてみればそうだ。こちらから彼の奥まで感じられるのならば、反対もまた然り。



「(恥っずかしい!! っていうか、そんなに顔に出てた!?)」



 理解が追いついた瞬間、ぶわっと顔が熱くなって、汗ばんだような感覚に陥る。

 セレシアはウェインに背を向けて、両の手のひらで首元を扇いだ。

 その背中に、微かに笑いを押し殺したような声がかかる



「本当に、目を見張るような体幹だな。感心する」

「消えたくなるので今は言わないでくださいぃ……」

「そんなに自分を責めなくていい。俺も時折そうなる」

「ウェイン様も……?」



 おそるおそる振り返ると、ウェインはさも当然といったような顔で頷いた。



「例えば、通路の角で人とぶつかりそうになる時があるだろう。咄嗟に躱すのだが……すると、こうだ」



 実際に目の前の誰かを避けるような動作をして見せた彼は、自分の足元を指差す。

 そこには、剣を構えた時のような、右足が前、左足が後ろの綺麗な足の並びがあった。



「あ、それわかります! 無意識にそうなってしまうんですよね」

「だろう? しかしこれは稽古の賜物だ。セレシアは誇っていい」

「(なんだろう、褒められているのに褒められていないような、この歯がゆさ……!)」



 そこではないと駄々をこねても、ウェインを困らせるだけのような気がして、セレシアは胸のわだかまりを奥にそっと押しやった。

 そうだ、次の機会までに上手い転び方を覚えよう。確か徒手格闘の方では、投げ技や寝技のために、受け身と呼ばれる技術があったはずだ。今度教えてもらおう。



「時に、この包みは?」

「いけない、忘れるところでした」



 掲げられた包みで我に返ったセレシアは、ウェインの傍までいそいそと戻った。



「クッキーを焼いてみたんです。ウェイン様への感謝を込めて」

「そうか、ありがとう。――開けても?」



 セレシアが頷いて返すと、ウェインは執務机の空いたところに包みをそっと置き、リボンを解いた。



「あっ……」



 しかしそこで、セレシアは膝から崩れ落ちるような気がした。

 焼いた中でも特に綺麗なものを厳選した十枚は、放り投げてしまった衝撃で、何枚か割れてしまっていたからだ。中には端の方が欠けて粉々になっているものもある。



「申し訳ありません、私の不注意で……作り直します!」



 慌てて包みを閉じ、逃げ出そうと踵を返したセレシアだったが、すかさず追いかけてきた腕によって肩を捕らえられてしまった。



「俺がまだ食していないというのに、どこへ持って行くつもりだ」

「ですが、こんなものをウェイン様の口に入れるわけには……」

「『こんなもの』かどうかは、俺が決める」



 ぐっと引き寄せられ、包みを隠した手が持ち上げられる。

 ウェインはそこから一枚の欠片をつまみ上げると、おもむろに口へ運んだ。


 彼の顎が上下に動くのを、セレシアはじっと、地獄の沙汰を待つような面持ちで見つめていた。



「ああ、思った通りだ。これまで食べたクッキーの中で最も美味い」

「嘘です、そんなこと……」

「俺が君に、嘘や世辞を用いるとでも?」

「それは……」



 そこから先を紡げずに躊躇った唇に、ふと、何かが触れる感触があった。

 それが、ウェインが咥えたクッキーの反対側を、セレシアの唇にあてがったのだと理解した時には、ほろりと、半分に割られていた。

 零れ落ちないように、慌てて頬張る。その瞬間、クッキーは粉雪のように舌の上でほどけた。



「ちゃんと美味しいだろう?」

「……その、味がわからないです」



 だって。練り込んだバターよりも濃くて、砂糖よりもずっと甘いものが、口の中を占めているのだから。



「ならば、もう一枚行こうか」

「いーえいえもう十分です、はい! 美味しい、美味しいですから!」



 こちらの気を知ってか知らずか、ウェインは「そうか」とちょっぴり意地悪な顔をして、肩を震わせているのだった。

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