20.束の間の休息
ぼんっ! とオーブンから聞こえてはならない音がしたことに、セレシアは頬を引き攣らせた。
「……どうして?」
厨房の使用人たちもおろおろとしていて、何と声をかければいいのかわからないという風に困惑している。メイもまた「おいたわしや」と目を覆っていた。
「ほんっとーに申し訳ない……!」
「いえ、奥様にお怪我がないようで何よりです」
頭を下げるセレシアに、料理長のジェフが宥めようと手のひらを向けてくれる。
他の料理人たちがオーブンから取り出してくれた天板には、黒焦げのクッキー(のつもりだったもの)が無残な姿を晒していた。
「でもどうしてかしら。分量も、手順も、付きっ切りで見てもらったのに……」
「ううむ……生地は生き物と申しますからね」
「そうなの?」
「ええ。例えばパン職人の間では、体温が下がってくる年齢になると引退を考える者もおります。手のひらの温度ひとつで、生地をこねる加減、寝かせる加減、焼き加減がまったく変わってしまうからです」
そしてもうひとつ、とジェフは白髪の混じりかけた眉を開いた。
「心の温度もまた然りにございます」
「心の、温度……」
「はい。先程、奥様がクッキーを焼く理由が殿下へのお礼だと伺いました。僭越ながら、それは『作らなければならない』ものですか。それとも、『作ってあげたい』ものですか?」
「あっ……」
目から鱗が落ちるようだった。言われてみれば、心のどこかで、ウェインに何かを返さなければという焦りがあったような気がする。
けれど、それではどこか義務のようになってしまう。彼は私がこんなでも、色々と量ってくれたのに。私は理由がないと踏み出せないだなんて。
「我々料理人はいつも、とあることを考えながら仕事をしております」
そっと、ジェフが手を握ってくれた。それはとてもやわらかくて、あたたかくて。彼の焼いたパンが美味しい理由が、身に沁みてわかった。
「それは、料理を召し上がってくれた方の笑顔です」
「……とても。とても素敵な隠し味ですね」
いつか読んだ物語で、『料理は愛情』という言葉があったのを思い出した。漠然と読んでいたその文字列が、今解かれて、すっと腑に落ちてくる。
「ジェフさん、もう一度、お願いしてもいいですか?」
「もちろん。何度でもお手伝いさせていただきます」
他の料理人たちも一様に、力強く頷いてくれる。セレシアは一人ひとりに頭を下げて、腕を捲った。
焼きあがった小麦色の宝石を見て、皆でハイタッチをしたことは、きっとこの先ずっと忘れられないんだろう。
* * * * *
返事のないまま何度目かのノックに焦らされる。
屋敷にはいるはずなのだけれど、とノブに手をかけてみると、案外あっさりと開いてしまった。
「ウェイン様? 入りますよー?」
隙間から覗き見をするように、セレシアは顔を突き入れる。
そこで、部屋の主が返事をしない理由が判明した。
ウェインがペンを握ったまま、うたた寝をしている。こんな時にでも背筋は凛としていて、頭が船を漕ぐ気配はない。寝息も静かで、一見すれば部屋全体が美しいジオラマと化しているようだった。
「(働き詰めでしたものね)」
先の一件からしばらくの間は、彼が屋敷に返ってこない日もしばしばあった。そういった日はもちろんながら、帰ってこられた日でもあんまり寝ていないんだろう。その証拠に、ぐるりと部屋を見渡してみても、肩掛けのひとつさえ見当たらない。
セレシアは一度自室に戻ると、クローゼットからストールを引っ張り出して、またウェインの書斎へと向かった。
未だ目を覚まさないだんな様にストールをかける――前に、今のうちに目に焼き付けておこうと、執務机の前へ回り込む。
「(本当に、綺麗な御顔……うわ、睫毛長っ。髪さらっさらだし。うらやましー)」
流麗なラインを描く首筋。全体的に引き締まった逞しい体つきなのに、意外と耳たぶは小っちゃくて可愛い。
何度か行ったり来たりした視線は、やがて瑞々しい唇へと吸い寄せられる。
脳裏に蘇るのは、月夜の記憶。階下で舞踏会に興じている人は誰も知らない、二人だけの秘密の
「(ウェイン様……)」
「……セレシア?」
怪訝な声で我に返れば、目の前に蒼玉が二つ、こちらを見ていた。
「ウェ、ウェイン様っ!? 起きて、らしたの、ですか――わわわっ!?」
たたらを踏んだセレシアは、腕から垂れていたストールに足を取られてよろめいてしまう。
その拍子に手から離れてしまった桜色の包みへと、咄嗟に手を伸ばす。
「危ない!」
執務机を乗り越えてきたウェインの腕と、セレシアの腕とが交差する――
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