18.どうか俺の隣で

 半ば放心状態で帰路についたセレシアは、思わず表玄関から入りそうになって、慌てて邸宅の裏手へと回り込んだ。

 壁をよじ登る。薄く開いた状態を保たれていた窓を押し開けて部屋に入ると、おろおろと行ったり来たりをしていたメイが、セレシアに気付いて駆けてくる。



「姫様、よくぞご無事で……!」

「ああ、心配をかけたね――じゃなかった、心配かけてごめんね」



 切り替えきれなかった口調に、セレシアは自嘲気味に苦笑した。頭の中はぐるぐると回り、心はふわふわと舞い上がってしまって、中々地に足が付けられない。

 深呼吸をして、メイに微笑みかける。今の自分がするべきことは、己ではなく、彼女を落ち着けることだ。



「この通り大した怪我もなく、戻ってこられたよ」

「さすがです。例の『騎士』も、姫様の前では形無しですね」

「ううん。撃退したのは私じゃなくて、ウェイン様なの」

「殿下が!?」



 あっと声を上げたメイは、部屋の外を憚るように口を押えると、声を落として訊ねてきた。



「姫様が『黒騎士』であることは……?」

「あはは……バレちゃった」



 言葉にしてみれば、存外バレたこと自体はショックではないのだということに気付いて、セレシアは頬を掻いた。むしろ自分以上に慌てているメイが、ちょっぴり滑稽に見えるくらいだ。


 黒騎士の装束を脱ぎ、いつでも着られるよう準備してくれていたのだろう、敷かれたパニエに足を通す。

 着付けを補佐してくれながら、メイはそわそわとしていた。



「して、その殿下は何処で?」

「まだ向こうにいるって。だから、軽食を用意して持って行こうかなって思ってる。ああ、今度はちゃんと表口から出るから安心してね?」



 おどけて見せると、ようやくメイは肩の位置を落とし、くすくすと笑ってくれた。






   *   *   *   *   *






 厨房を訪ねると、普段見かけるよりもずっと多い数の使用人でごった返していた。なんでも早鐘が打ち鳴らされた時点で招集がかかるのはいつものことで、討伐を終えた兵士や、避難した民たちへ振る舞う食事を、主の財から率先して賄うのだという。

 そんな中でウェイン一人への軽食を用意することを心苦しく思ったセレシアは、運べるだけの荷物を先んじて持っていくと申し出た。


 教会が見えてきた頃には、だいぶ空が白み始めていた。

 歩を進めるたび、昨夜の戦火の爪痕が朝日によって露わになり、目を背けたくなる。


 教会ではウェインが、兵士に肩を支えられて運ばれてきた民に直接労いの言葉をかけていた。その隣には、スケイルとアヴォイドも馳せ参じている。



「ウェイン様!」

「セレシア? その荷車は一体……」

「ご飯、持てるだけ運んできました。じきに残りの分も到着するかと思います」

「助かる。アヴォイド、中にいる者から優先的に配給してくれ」

「かしこまりました~」



 セレシアは、包みのうち一つだけを取り、引いてきた荷車をアヴォイドに引き継いだ。

 それを目敏く捉えたスケイルが、相好を崩す。



「殿下、少し休憩をなされては?」

「いや、皆が頑張っている中、どうして休めようか」

「そうやって一線を越え、大将が崩れた時があっては困るのです。雷の天恵アーツがあるとはいえ、文字通りの東奔西走。ご自愛なされませ」

「いや、しかし……」



 ウェインが返答に困っていると、その傍を通り過ぎるところだったアヴォイドが、呆れたように振り返った。



「お仕事となるとこうなんですから……ほら殿下、今目の前にいるのは誰ですか?」

「民に兵士。この国の宝だ」

「ああもう! 奥様の! 手に! 何が! ありますか!」



 アヴォイドの指先を追ってセレシアへと注がれた視線が、にわかにあっと見開かれる。

 なんだか今さら気恥ずかしくなって、セレシアは思わずサッと後ろ手に包みを隠した。

 スケイルとアヴォイドがそっと立ち去り、二人、ぽつりと取り残されたようになる。



「ええと……軽食をお持ちしました」

「あ、ああ。わざわざすまない」



 ぎこちなく言葉を交わし、人目を憚るように端の木陰に座る。

 ウェインが包みの中から取り出したのは、切れ込みを入れたバケットに、瑞々しい野菜やスライスした肉を挟んだサンドイッチだ。それを一口齧って、彼は感嘆を漏らした。



「美味い。セレシアの優しさが沁みるようだ」

「材料を詰めただけで、大袈裟ですよ。ほとんど、屋敷の皆さんのおかげです」

「そうでもないさ。有事の際、俺の分は後に回せと言いつけてあるからな。君が用意してくれなければ、何かを口にできるのは昼過ぎになっていただろう」



 セレシアは驚いて、二の句が継げなくなった。彼であればこそ納得もするけれど、仮にも王族である身分のウェインがそこまで身を粉にするとは。

 同じ王族としての畏敬の念と、妻としての心配の情との間で揺れ動き、かける言葉を見失う。



「それにしても、先刻は本当に驚いたよ」



 不意に、ウェインがそう切り出した。



「立ち姿、歩き方。稽古を積んでいる者のそれは自然と現れるものだ。だから、徒ならぬ人物ではあるだろうと感じてはいたんだが……想像以上だった」



 微笑の吐息を風に乗せるウェインに、セレシアは目を伏せる。



「……この様な女らしくない者、お嫌いになりましたよね」



 しかし、彼はゆっくりと首を横に振る。



「まさか。一層愛おしく思った」

「ウェイン様……」

「だが、もう一人で飛び出すのはやめてくれ」

「そう……ですよね」



 覚悟はしていた宣告だった。たとえ剣を振ることを受け入れてもらえたとしても、それ以前に、自分は王太子の妻なのだから。

 セレシアが自分の立場を今一度胸に言い聞かせていると、そこに待ったをかけるようにウェインが続ける。



「動くならば、俺と共にいること。それは守ってほしい」

「えっ……?」



 ウェインの言葉に、一瞬呼吸が止まりそうになった。

 真っ直ぐ見つめてくる彼の瞳が、聞き間違いや勘違いではないことを教えてくれる。



「むしろ、俺から頼みたい。妻を戦場へ駆り出すなど、夫としては失格なのだろうが――」

「そんなこと……っ! でも、本当にいいんですか?」

「ああ。魔の霧の根源を断ち、オルフェウスを――ひいては世界を守るために。どうか俺の隣で、剣を執ってくれないか」



 ウェインの大きな手が、そっと、強張った握り拳を包んでくれる。

 ちょうど地平線から抜け出した朝の日差しが、燦燦と町に降り注ぎ始めた。

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