11.カーテンの向こうで
「行くぞ義姉上、そうらっ!」
喫茶店のカウンターから振り返ったフィーネが、まるでバーテンがグラスを滑らせるような手つきでテイクアウトのカップを放って来た。
「おっ、とと」
不意のことに驚きながらもセレシアがそれを受け止めると、フィーネは「お見事」と歯を見せて、店員にお金を払って戻って来る。彼女が店の前の壁によりかかるようにしてカップに口を付け始めたのを見て、セレシアも並んでカップを傾けた。
ミルクたっぷりのカフェ・ラテは、口の中がふわふわになるような優しい甘さだ。
「わ、美味しい!」
「並んだかいがあっただろう? あたしの行きつけなんだ、ここ」
秘密を打ち明けた子供のように笑うフィーネ。きっかけは、ウェインが仕事に出てから手持ち無沙汰になったセレシアの下に、彼女が訪ねて来たのが始まりだった。
「やっぱり、美味いもんってのは手ずから出向いてこそだよなあ」
通りがかりに「聖女様!」と挨拶をしてくれる人々へ気さくに手を振り返し、フィーネは目を細くする。
「そりゃあ命じれば大体のものは手に入る。けれど、そんなズルを覚えた舌先じゃあ捻くれちまっていけねえ。町に出れば、活気という香辛料のオマケも付くんだ。これを味わわないなんて勿体ない」
「うん。ちょっとわかるかも」
香り立つ湯気を吸い込めば、コーヒーのコクに混じって、はす向かいで売っている果実や、遠くのパン屋のバターの匂いが混ざってくる。視線を上げれば行き交う笑顔に目移りしてしまう。それは、屋敷の中では決して味わえない、心地のいい雑味だ。
「まあ、あたしがオルフェウス家に生まれた女だから勝手ができるってのもあるが……ああいや、今は止そう」
ぐいとカップを呷ったフィーネは、空になったカップを店前のごみ箱に放り込んだ。
「命短しってね。楽しもうじゃないか義姉上!」
「ま、待って。まだ飲み切ってないんだけどっ?」
「大丈夫大丈夫、食べ歩きも醍醐味さ!」
フィーネに手を引かれ、人の波を早足ですり抜ける。アクセサリーの店を冷やかしたり、大道芸人の手品に拍手をしたり。醤油の香りにつられてお団子を買っては、店先にならんだ色とりどりの花に思いを馳せたり。
風の向くまま気の向くまま。行ったり来たりするのは、目が回りそうなくらいに楽しかった。
* * * * *
緩やかな歩みで進む馬車に揺られていたウェインは、ふと、路肩にいる馴染みの顔に気付き、御者に馬車を止めさせた。
「フィーネ?」
「おっ、兄上。ちょうどいいところに」
にやりと笑ったかと思えば、唇の前で指を立てて手招かれる。
首を傾げながら馬車を下りたところで、ウェインはここが仕立屋であることに気が付いた。見栄え良く台にかけられた見本はいずれも女性のもの。
フィーネの視線の先では、試着室のカーテンが閉まっている。教会の誰かの付き添いで来たのだろうか。
「なあ兄上、義姉上は面白いな」
「セレシア殿が?」
「まるで兄上と歩いているようだったよ。手を引いてもよろめかないし、通行人とはぶつかる前に躱しちまう。『そよ風』でカップを放ったのも、さらっと受け止めてみせた」
「……アレをやったのか」
ウェインは眉間を揉んだ。物を放って渡すのは、フィーネの悪い癖だ。
「一滴も跳ねさせずに受け止めたのは、兄上以外じゃ初めてだ。なあ、義姉上は何かの達人だったりするのかい?」
「ああ。おそらくはな」
「ほう?」
「だが、本人は隠したがっているようなんだ」
サンノエルの気風、そしてセレシアが『お飾り王女』と呼ばれていたという噂は、オルフェウスにも届いているほどだ。彼女の閉塞感は想像に難くない。
その上で、魔獣と対峙したあの体捌き。あれは素人の火事場の馬鹿力などという範疇ではなかった。あれほどまで腕を磨くには、想像を凌ぐ稽古をしてきたはずだ。
「セレシア殿なら、踏み込めば答えてくれもするだろうが……それでは、彼女の芯にある遠慮は拭えないまま、しこりが残ってしまうだろう。それは俺としても不本意だ」
言霊で雁字搦めとなった枷は、無理に剥がせばいたずらに血が流れるだけだ。
「何かきっかけがあればいいんだが」
「……そっか、そこまで考えているなら話は早いや。勿体ないどころじゃない佳い人だ。離すんじゃねえぞ、兄上」
「勿論、そのつもりだ」
「ん。ならあたしは帰るよ、兄上はここで荷物番をしていてくれ」
「な……おい!」
手に持っていた飲みかけのカップを押し付けて颯爽と踵を返した妹を、ウェインは呆然と見送るのだった。
* * * * *
「とてもお似合いですよ、奥様」
上げた裾の仮止めをした店員が送ってくれる賛辞にくすぐったくなって、セレシアは身を捩った。
町を駆け回るのに重たい召し物では窮屈だから、楽にいられる服の一つでも持っておこうかと仕立屋の前で足を止めたのは幸か不幸か。あっという間にフィーネの着せ替え人形になったセレシアは、これまたあっという間に試着室へ押し込まれていた。
「フィーネちゃん、どうかな……?」
いざお披露目となると緊張する。意を決してカーテンを開けたセレシアは、目を見開いた。
「ウェ、ウェイン様!?」
「セレシア殿……!?」
「どうしてこちらにっ!? それに、フィーネちゃんは???」
「今日の登城は、セレシア殿の到着報告をするためだったから、すぐ終わって帰るところだったんだ。それと、あいつは帰ってしまった」
ウェインがフィーネに預けていたカップを掲げて見せる。状況はわかったのはいいけれど、そこからセレシアは二の句が継げずに目を瞬かせるしかない。
「これは殿下! いかがですか。少々ラフではありますが、奥様にお似合いでしょう?」
代わりに前に出た店員の言葉で、ウェインははっと我に返ったように顔を上げた。
彼は改めてセレシアのことを見つめて――視線を外す。その頬は、ほのかに赤く染まっている。
「素敵だ。その……とても可憐だと、思う」
「あ、ありがとう、ございます………」
「褒める言葉が乏しくてすまない。こういうことには不慣れなんだ、気を悪くしないで欲しい」
「いえいえいえ! もう十分伝わっておりますので! 可憐なんて言っていただいたのは初めてで――って、可憐!?」
ようやく追いついてきた頭がウェインの言葉を咀嚼したことで、セレシアはとうとう目を回してしまうのだった。
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