9.朝の調練

 知らない小鳥のさえずり、知らない朝日の匂い。瞼をくすぐられて目を開ければ、いつもと違う天蓋。



「(……そうだ、私)」



 自分がオルフェウスに嫁いだことを思い出したセレシアは、のそりと起き上がった。

 意識を引き上げるように伸びをして、あくびを噛み殺す。



「そういえば、妻って何をするんだろう?」



 セレシアが唸りながらベッドを下りると、それを見計らったかのように、ノックの音がした。



「おはようございます、姫様。お目覚めでしょうか?」

「おはよう。どうぞ、入って」



 メイを促したセレシアは、そこではたと、そうかまずは挨拶かと思い至った。そんな単純なことで天啓を受けたように手のひらを打つ自分が可笑しくなって、思わず手を叩いて笑ってしまう。



「……姫様?」

「あー、ごめんなさい。何でもないの。あははっ」



 目尻に浮かんだ涙を拭うセレシアに、メイはきょとんと首を傾げるのだった。






   *   *   *   *   *






 身嗜みを整えてもらったセレシアは、ウェインを探すことにした。

 しかし、彼の部屋をノックしても返事がない。書斎も訊ねてみても、鍵がかかっている。


 邸宅の中をさまよい歩き、気が付けば、漂ってきたバターの香りに誘われて、ふらふらと厨房へ足を運んでいた。



「この時間なら、旦那様は兵の調練をされていますよ」



 シェフ長に教えてもらい、屋敷の裏手から出る。長い渡り廊下の先にある無骨な建物が、訓練場なのだそうだ。

 中程まで進んだところで、朝の穏やかな風に乗って、威勢のいい掛け声が聞こえてくる。



「お、おおっ……!?」



 セレシアはウサギのように耳をぴくぴくとさせ、足を速めた。

 いそいそと扉を開け、中に入る。掛け声は、さらに奥の扉から聞こえてきている。



「わあっ!」



 目に飛び込んだ光景に、セレシアは感嘆の声を漏らした。


 ぐるりと建物に囲まれた聖域で、大勢の兵士たちが一糸乱れず武器を振るっている。剣、槍、徒手空拳と別れ、ウェインの号令で咲き乱れる武芸は、幼い頃に見た万華鏡のようだ。



「(ここが、訓練場!)」



 これまではずっと、女であることを理由に入ることを禁じられていた。君子厨房に入らず、女子剣を佩かず。それがサンノエルの指針だったからだ。


 夢にまでみた光景。セレシアは食い入るように目を輝かせながら、回廊を辿っていく。

 兵たちを指揮しているウェインとスケイルから離れた縁のところで、のんびりと訓練を眺めていたアヴォイドを見つけた。



「アヴォイドさん、おはようございます」

「あ、奥様! おはようございます。どうかなさいましたか?」

「ウェイン様がこちらにいらっしゃると伺いまして」

「ああ、そうですよね。殿下、呼びます?」

「いいえ、ご挨拶をしようと思っただけですので。待っています」



 回廊を下りて隣へ向かう。



「アヴォイドさんは休憩ですか?」

「僕は非番の見取り稽古です。いざという時、部隊全員が疲弊していたら意味がないですからね~。殿下の兵をさらに三つに分けて、どれか一隊は休ませるんですよ」

「ああ、なるほど」



 感心しながら、セレシアは稽古場に視線を戻した。


 ウェインが鋭い眼差しで、一人ひとりの動きを見回りながら悪いところを指摘している。

 昨夜の優しい笑みとは違う、王太子としての風格。悠然と歩く獅子の姿そのものだ。



「腕に力が入り過ぎだ。腕を振るうな、剣を払え!」

「はっ!!」


「踏み込みが浅い。前足ではなく、蹴り足を意識して腰から動け!」

「はっ!!」


「どこを狙って振っている? 息が切れている時こそ顎を引け!」

「はっ!!」



 彼が一喝をする度に、その指示は波紋のように全体へと伝搬し、兵たちの動きが洗練されていく。



「(か、カッコいい~~!)」



 うずうずうずうず。セレシアは飛び跳ねそうになるのを我慢しながら、うっとりと目を細めた。

 自分もあの中に混ざりたい。思いっきり剣を振りたい。せめて少しでもと、イメージの中で剣を構え、ウェインの指導を咀嚼していく。



「(こうかな? ううん、こう? むう、やっぱり実際に動いてみないと……)」

「奥様も剣、振ってみます?」

「えっ!?」



 腰の剣を見せてくるアヴォイドに、思わず「いいの!?」と答えそうになったセレシアは、逸る気持ちをぐっと飲み込み、力業で首を横に振った。



「え、遠慮しておきます……」

「ありゃ、そうですか。そわそわしているように見えたんですが……っと」



 残念そうに肩を竦めたアヴォイドは、稽古場で動きがあったのに気づき、身を乗り出した。



「始まりますよ~、掛かり稽古!」

「掛かり稽古?」

「ですです。殿下たち指揮官が元立ちとして、それに兵たちが打ちかかっていくんです」



 見れば、稽古場には二つの円ができていた。それぞれの中央にウェインとスケイルが立ち、彼らを取り囲むように、兵たちが構えている。


 ウェインはすうと目を細め、自分を囲む兵たちを静かに睥睨すると、刮目した。



「遠慮は無用だ。首を取るつもりでかかって来い!」

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